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努力しても結果が出ない。もっと努力する。それでも結果が出ない。
“方法が悪いのかなあ?
運が悪いのかなあ?
努力が足りないのかなあ?”
歩みをとめてふと考えてみる。自分の不甲斐なさを冷静に分析しようとする。こういう経験は誰にでもあると思います。
春に種を植え、夏に花が咲き、秋に収穫をする。こういうリズムで事が運ぶこともありますがそうでないこともある。これが人生です。種を植えないことには始まりませんがいつ開花するのかは誰にも分からないのです。我が身を振り返り、咲かない原因を探ることも時には大切でしょう。でも大切なことは努力の歩みを停めないこと、停止しないことです。
開花させるための最大の敵、それは他人と自分を比べること。
“アノ人はこうだ。コノ人はこうだ”、
とばかり、他人の成功を羨みタメ息をつく。そして努力の歩みを停めてしまうのです。これでは咲くはずの花も咲きようがありません。
歩みのペースはその人次第です。ときには速度を落としてみることも必要です。それでも他人と比較することだけは避けなければなりません。
この世に咲かない花はありません。アナタの花も私の花も必ずや咲くのです。いつ咲くか、これだけは誰にも分からない。これが人生です。だから面白いのです。
一緒に仕事をしていて、
“この人、頭がキレルな”
と感じることがあります。こういう人に限って東大卒だったりします。
“東大卒はデキル”。
これが私の結論です。
東大出の人たちがファッションに疎かったり、スポーツが苦手だったりする。人間関係がチョッピリ苦手だったりもする。勉強ばかりしていたのですから仕方がありません。こういう人でも時がくれば本領を発揮します。
“学歴はなくてもいいけれども、
学力はなければならない。
そこを混同してはならない”。
ソニーの創業者のひとり盛田昭夫氏の言葉です。
世の中には学歴はなくとも立派な仕事をしている人がたくさんいます。彼らは皆勉強しています。研究もしています。圧倒的な学力を日々、身につけているのです。若いときには、たまたま勉強しなかっただけ、社会人になってからものすごい迫力で学力を身につけているのです。
“学力よりも人柄だよね”。
たしかに人柄は大切です。人柄が学力不足を補ってくれることもあるでしょう。でもこれだけでは頂点まで上りつめることはできないのです。学力が必要です。圧倒的なパワーで仕事をやり遂げる思考力、分析力、整理能力。これが学力です。学力と人柄も両方を兼ね備えていることが目指すべき理想です。
仕事がバリバリできる人と一緒にいると刺激を受けます。学生時代にはスピーチ以外の勉強はしなかった私です。だから今、猛勉強しているのです。
“麻布中学に受かる必要はないけれど、
麻布中学に受かるくらいの学力を身につけなさい”。
11歳の息子に私が日々言い聞かせていることです。
個人が寄付をして政治家を育てる草の根(grass-roots)の民主主義。日本にこの発想が根付くには時間がかかりそうです。
“政治家に寄付するの?
我が家にそんな余裕はないね。
何かしてくれるなら別だけど”。
これが日本人のホンネだとすれば、談合、癒着、不正を一掃することは難しい。
政党助成金は特定企業と政治家の癒着を一掃するために導入された制度です。毎年、数十億から数百億の助成金が政党に支払われています。
“国民一人当たり250円の負担で政治がクリーンになる”。
実に響きのよい言葉です。コーヒー一杯分の小銭で日本が変わるなら安いもの。しかし政治家に流れる資金はより不透明化したのが現実です。
オバマ大統領はインターネットを使って資金を募りました。多くが100ドル未満、最低15ドルから最高でも50万円の寄付でした。集めた総額は700億円以上。これは日本の政党助成金を上回ります。
“ワシントンのロビイストや企業献金ではなく
一般市民であるあなたの献金が必要なのだ”。
ホームーページから流れていた本人の音声です。
日本では個人が献金を行うことができません。制度上の問題です。個人献金を制度化することによって大多数の無名の人々の支えを基盤に政治を行うこともでき得るのです。
民主党小沢党首の秘書が逮捕されました。特捜部が動いたのですから事は深刻です。日本の民主主義が正しい方向へと導かれるチャンスだ。私はこういう風に考えています。
人から誤解されないことに神経質になる人がいます。
“ビジネス成功のカギはコミュニケーションだ。
よく聞き返される人、言いたいことが正しく伝わらない人、
余計な言葉で誤解されやすい人は心すべし”。
こういう指南書を読みふける人に限って意思疎通が下手だったりします。
人から誤解されたいと心から願う人はいないでしょう。誤解を避けようとする気持はわかります。でも誤解のタネを前もって摘もうとするとどうしての弁が鈍るのです。本来のアナタがダイレクトに伝わらない。これは誤解されることよりも深刻です。
誤解されない完全無欠な人間を装う。ハウツー本の模範解答を日々実践し、誤解されたかった自分を褒め讃える。これでは話すことが辛いはず。たまったストレスのはけ口を生涯追い求めることになるのです。
誤解されることが悪いのではありません。
“誤解されたその後の対処が分かれ道(ダルマンマの法則八番)”
なのです。
アナタの真意を湾曲して受け止めた相手を責めてはいけません。責めの言葉を発すると相手も責めの言葉を返してくるからです。これが“会話のディベート化”です。他愛の無い会話が議論へと変貌してしまう。誤解のタネが増殖し人間関係もギスギスしたものになる。平和なコミュニケーションではありませんね。
誤解の信号をキャッチしたアナタの仕事。それは誠意という武器を駆使してその誤解を解くことです。誠意の効用は漢方薬に似ていて即効性はありません。効くのに時間がかかります。即効性のない誠意を取るか、自らの弁を鈍らせるか。どちらを選択するかはアナタの自由です。
“コメントする立場にない”。
政治家がよく口にする言葉です。
何を喋ってもメディアに噛みつかれる。だから黙っているほうか得策かも知れません。一般人ならこれでいい。逃げることも処世術のひとつです。でも政治家ならば話は別。
“コメントしたくないようなときこそ、正々堂々と発言する”。
こういう態度が政治家に求められる資質だと私は思います。
言葉で噛みつかれたら丁寧に言葉で返す。非難されたらその不合理性を冷静に訴える。こういう能力(competence)に自信がないから返答を避けようとするのです。
政治家も人の子です。コメントしたくない、発言できない場合もあるでしょう。であればコメントしたくない気持、できない事情を素直に表現する。言葉を尽くして説明すればいいのです。“立場にない”で事を済ませようとする、こういう根性が情けない。
マイクを突きつけられて憮然とする政治家もいます。マイクを振り切る政治家もいます。そして無言で車に乗り込むのです。
発言を慎むべきは誹謗中傷や民族問題、差別問題であって、それ以外のテーマであれば政治家は何事も堂々と発言すべきです。
若手の中には野心溢れる人もたくさんいます。それでも党を背負った発言になると皆、ニヤニヤ(giggle)するだけで口を閉ざしてしまいます。党の方針に背いた行動は考え物ですが、発言まで制限されるのは問題です。
政治家がどんな場面でどんな発言をするのか、私たちは注意深く観察する必要があります。
“もう、子どもなんだからぁ~”。
女性からこう言われると嬉しくなってしまうのが男です。なぜか心がウキウキしてしまうのです。
“俺は子どもなんかじゃないっ。
バカにするな”。
こんなことを言う人はいません。男は誰でも純真無垢(innocent)な自分に憧れているのです。
“子ども”以外にも色々と試してみましょう。“無茶”、“やんちゃ”、“乱暴”、“意地悪”等々、パターンを変えてみるのです。TPOに合わせて使い分けること、それが粋な女の話し方です。
是非お勧めしたいのは“も~う”と伸ばして言ってみることです。恥ずかしがってはいけません。これだけで20%パワーアップです。男の私が保証します。
私個人としては、
“も~う、甘えん坊なんだからぁ”
なんて言われると、もう、腰から砕けちゃいます。この一言だけで相手の印象もグーンとアップ、お酒を注がれたらどれだけ飲んでしまうことでしょうか。 私の心はメロメロです。
さて・さて、この言葉にボディー・タッチを加えると効果倍増です。男性の肩から肘の間の部分を叩くのです。強く叩いちゃダメですよ。軽くポーンと叩くだけ。これでいいのです。骨の部分に当たらないように優しくタッチしてあげてくださいね。側面から少しだけ押す方法もあります。軽く叩いてからチョットだけ押してみる。この合わせ技でトドメを打ちましょう。仲良しのカレには人差し指でわき腹をつついてあげるのもグーです。
さりげなく男心をくすぐること。言葉を使って世の男を動かしてしまうこと。これが今の時代に求められる女性の“品格”なんちゃって。
“部下の長所を褒めよ”。
ビジネス書にはこう書いてあります。こういうハウツーをそのまま実践すると、
“褒めたら部下はますます仕事をサボるようになりました。
叱ったほうがいいのでしょうか”。
こう悩むことになるのです。
長所を褒めるのではなく、
“褒めてもらいたいと相手が思っているところを褒める”。
これが人を動かすキホンです。長所にこだわる必要はありません。相手が望むならば短所を褒める方法さえあるのです。
“さすが福澤先生、 説明が上手ですね”。
こういうことを言われても嬉しくありません。あまり褒められると腹が立ってくることさえあります。説明が上手だということで褒めてもらいたいとは私が思ってイナイからです。
“ブログ拝見させていただいました。
先生の教養の高さには驚かされます”。
これも嬉しくない。教養が高いことを褒めてはもらいたくないのです。そもそも私自身、教養に関しては相当なコンプレックスを持っているのですから(笑)。
私は偏屈なのかも知れません。でも、褒めてもらいたい部分を褒められなければ嬉しくは思わないのです。これが正直な気持です。これと同様、部下の長所を褒めるだけではその部下を動かすことはできないのです。
“先生は大富豪ですね。
目には見えない知識、良識、ガッツをお持ちです。
短気な一面もありますがこれも先生の一部ですよね。
そんな先生を尊敬しています”。
私が嬉しく思い、そしてヤル気が出るのはこういう褒め言葉です”。
“期待に添えるかどうか分かりませんが、
出来るだけのことはしてみますね”。
こう言う人に限って“期待に添うこと”はしてくれません。日本語特有の丁寧な断り方なのでしょう。でも言われた側は何となく気分が悪いものです。
“人からの依頼はすべて受け入れよ”。
これが私の父の流儀でした。
“人から物事を頼まれた時点で、自分が選ばれた人間なのだと認識しなさい。
条件をつけるのはいい。
時期を延ばすのもいい。
でも、断らない。
これができる人間になりなさい”。
依頼をする側は人を選んでいます。多くの友人、知人の中からアナタを指名してきたのです。既に他の人から断られているかも知れません。その可能性も高い。だからこそ依頼は無下に断らない。これが父の考えだったのだと思います。
“選ばれた人間”。
この言葉は私の心の中に生きています。出来ることだけをする。出来ないことはしない。これでは自分のレベルが上がりません。出来ないこと、出来そうにないことに挑戦する最大のチャンス、それが人からの依頼なのです。
利用されること、騙されること、裏切られること。こういう不安感に心を奪われている限り、人の上に立つことはできない。我が子にもこの哲学を伝えていきたいと思っています。
WBCの対韓国戦での出来事です。日本チームの大量得点に万歳三唱するドームの観衆を見て息子が一言、
“パパ・見て・見て・活きがいいカニみたいっ”。
親バカながらこういう言い方もあるんだな、と感心した私です。
アタリマエの光景をアタリマエに表現するのでは芸がない。何気ないモノを無理矢理にでも面白おかしく表現すること、そう努力すること。しかもこれが無意識に出来るようになること。これも立派な弁力です。5万人の観衆が“活きのいいカニ”だと想像してみる。これだけで何だか楽しくなってしまうのです。やはり言葉の力は凄い。
“さすが先生の息子さん。
言葉の使い方がユニークですね”。
実はこれが違うのです。妻が外国人だったこともあり息子は日本語の習得が遅かった。不自然な日本語を話すことで苛められたりもしたようです。友だちと口喧嘩をしても最後には負けてしまう。自分の言い分を上手に表現できない子どもだったのです。
彼がクラスの人気者になり始めたのは小学校3年の頃です。笑いをとること、人を笑わせることで人間関係を築くことに気づいたのです。面白おかしく表現する工夫を始めたのもこの頃だったと思います。私が教えたのではありません。彼が自力で切り開いたのです。こういう姿を見守ることは子育ての喜びのひとつです。
身の回りにあるモノ、文房具でも家電でも何でもいい。それら何気ないモノが何に見えるのか、それを自分の言葉で表現してみるトレーニング。日頃の指導で私が行っていることです。
“何気ない一言で日常会話が楽しくなり得る”。
息子の創作した言葉からこのことを再認識させられた福澤です。
理由はとくにないけれど、こう思う。こういうとき英語では feelを使います。自分はこう思う。理由もある。これが think です。日本語の世界では feel も think もどちらも“思う”で表現します。
“私はこう思うんです”。
“どうしてそう思うんですか?”
“えっ。そんなこと聞かれても … . ”。
こんなときの“思った”は間違いなく feel です。別に理由はない。なんとなくそう“感じた”だけのこと。
こういう間の悪さを解消するためなのか、英語と比べると日本語での会話には“なぜ?”が少ないような気がします。“なぜ”で聞くのは何となく気が引けてしまう。 feel している人に think を求めても気まずくなるばかりです。
さて、スピーチは feel ではなく think の世界です。主観的でもいい。それでもいいから主張と理由がほしいのです。主張と理由がセットになってはじめて“考えている”という状態が出来上がります。だから”考える”ことが苦手な人はスピーチが億劫に感じられるはずです。
feel 一辺倒でも人生は成立します。お酒とパンさえあればどうにかなる。そういう生き方も悪くはありません。 feel の感覚を共有できる人たちだけと仲良く暮らせばいいからです。
スピーチの指導をしていて私が強く“感じる”こと。それは人の顔は“ feel 顔”と“ think 顔”に分かれるということです。話をしていて楽しい、でも何か物足りない。これが前者。知的興奮を掻き立てられる。これが後者です。アナタはどちらの顔をお持ちですか?
膨大な選択肢の中から特定(particular)の言葉を選択する。このエンコード(encode)作業を行っているのは話し手本人です。つまり、
“思わず言葉が出てしまった。
本意ではなかった”。
はあくまで後付けの弁であって、ふと口から飛び出した言葉にその人の本音が隠されているのです。
“考える前に言葉が出てしまった。
悪意はなかった”。
これも後付の弁です。考えていることを言語化するプロセスがエンコードです。言葉が口から出てきた時点で、それはある思考を行っていた証なのです。
自分が選択した言葉を数秒後に撤回しようとする理由は何なのでしょうか。それは、聞き手との良好な人間関係を維持したいという意思が働くからです。
“話し方が下手で申し訳ございません。
誤解があればお詫び申し上げます”。
こういう後付の弁もあります。話し方の巧拙が問題なのではありません。選んだ言葉が問題なのです。
たった一度の発言で人を判断するのは危険です。しかし同時に、一度の発言の中にその人の真の姿が隠されているとも言えるのです。
”禁煙が進むと医療費がかさむことは明らか。
どんどん吸って早く死んでもらったほうがいい”。
現役医師の講演会での発言です。禁煙推進団体の抗議に対してこの医師は、
“真意が伝わらず誤解を生んだ”。
と釈明しました。抗議があった故の後付の弁です。
“お下げしてもよろしいでしょうか”。
こう言いながらウェイターは手を出して皿を運び出そうとしている。その手を払いのけ、
“いや、まだ野菜が残ってるんだよ。
私は野菜が好きだからね。
ポテトもまだ残ってるんだ。
まだ下げないでください”。
なかなかこうは言えませんね。何だか大人気なくって恥ずかしい。
“お料理はいかがでしたか。
よかったら付け合せも召し上がってください”。
こう笑顔で対応されると気分がいいものです。マニュアル通りに皿を片付けるのではなく一言添える。こんな気遣いがあると嬉しいものです。急かされることなく、ゆったりした気分で食事ができること。こんな気持にさせてくれるのが一流の接客だと思います。
“福澤さま。お久しぶりです”。
ステーキハウスなのに座ってすぐにコーヒーが出てきました。年に数回しか利用しないレストランです。それでも私の顔は覚えてくれている。食事の前に私がコーヒーをいただくことも覚えてくれている。食材の好みも覚えてくれている。こういう些細なことが実は大切なのです。
最後の晩餐はこのステーキハウスと決めている私ですが“最後の昼食”はココと決めているお店があります。聞けば昨年末に閉店したとのこと。25年間、通い続けた目黒三田のとんかつ屋さんです。接客は一流ではありませんでしたが味は間違いなく日本一のとんかつ屋さんでした。
“負けられない一戦”。
実況アナウンサーがよく叫ぶ言葉です。
“サムライ・ジャパンが崖っぷちに立たされました。
どうにか意地を見せてもらいたいことろです”。
ネガテイブ・ワードが大好きな視聴者の気持を代弁する。これも局側の方針なのでしょうが、負けられないと言いながらあっさりと負けてしまう試合も多いような気がします。負けそうでやっぱり負けた。観ている側はストレスがたまります。もしかしたらこのストレスが快感に感じられるのか。そんなことさえ考えてしまいます。
“あっ、牽制球です。
アウト!
これはもったいない。
実にもったいないっ”
これも日本人が好む言葉です。もったいないのは周知の事実。先のことを考えればいいのです。それでもアナウンサーは絶叫しながら悔しい気持を連呼する。悔しがること、残念がることが日本人には快感なのでしょうか。
リードしているときでさえもネガティブ・ワードは健在です。
“3点リードとはいっても、
満塁ホームランで逆転ですからね”。
塁にランナーはいないのです。それでも逆転されることを想定してしまうのはお見事?
大量リードをしているときでさえも、
“野球は何が起きるかわかりません。
もう1点をやらないという気持でピシャリと抑えてもらいたいですね”。
どんな状況でも無理矢理に負の状況を設定して視聴者を不安に陥れる。こういう実況を好むのは日本人の嗜好なのか、それとも局側の意図するところのなのか。私はストレスのたまらない実況中継を望みます。
無難な話、誰からも反論されないような無難な話。こういう話がスピーチにいちばん不向きです。
“反論されたくない。
批判されたくない。
敵をつくりたくない”。
こういう配慮はスピーチには不要です。反論され批判され、敵をもつくるくらいで調度いい。抽象的な言葉(big word)をつかって物事の原理原則を語ってもつまらない。スピーチは実は平凡さがいちばんリスクが高いのです。
自民党の笹川尭氏の、
“うつ病で休む教員が多いが、国会議員にはひとりもいない。
気が弱ければ務まらない”。
2007年度にうつ病で休職した公立学校の教員が4995人と過去最高だったことを受けての発言です。こういう意見はすぐに反論され批判されます。
“配慮に欠けている。
政治家としての資質が問われる”。
たしかに配慮に欠けた発言ではあります。ただ、問題提起という観点からいえば貢献度は大きかったのではないかと私は思います。
“うつ病にかかる教員があまりにも多すぎるのではないか。
なんでもうつ病で片付けていいのだろうか”。
反論され、批判され、敵をつくるような発言。タブー視をせずに物事をから議論する。こういう話がスピーチには向いているのです。
“先生、週刊誌に載っていた写真、修整したでしょう。
カッコ良く写ってましたよ”。
実物のほうがいいとはよく言われますが、写真のほうがいいと言われるのはチョッピリ腹が立ちます(笑)。自分で見てもたしかにほっそりと見える? 白黒だからなのか、ほんとうに痩せたのか? でも、最近は炭水化物の摂取が多いから少し太ったはず。
“実はお写真は修整していないんですよ”。
アレアレ、ほんとうなの? 編集担当の方からのメールに私自身がいちばんビックリしています。携帯のデジカメで撮ってもやはりプロは撮るのが上手ですね。
弁塾のトップページの写真。実は私自身この写真が好きではありません。去年秋の騒動で昼夜逆転していた頃に撮った映像です。とにかく顔がデカイ。実際にもデカイのですが、でも、ああいうアップは実に恥ずかしい。目もなんだか小さく写っています。
“ねえ、この写真って修整できないの?”
“これでいいじゃないですか”。
と、あっさり却下されてしまいます。
素のままでいい。たしかに私もこう思います。広告っぽいノリは私も好きではありません。でも、本人が気に入らない写真をトップページに掲載するのはどうなのかな。少しはカッコつけてもいいですよね。
“この写真どう思う?”
掲載された雑誌の写真を生徒さんに見てもらいます。
“あっ、先生だ。
昔はこんなお顔してたんですね”。
そんなに実物と違うのかなあ。少し落ち込んでしまった福澤です。
“正直に生きるのは勝手だけど、
正直に仕事をするのはどうかな”。
古くからの友人と激論になりました。 昨年末のことです。
“こんな不況だと、まともな仕事じゃあ儲からないよ。
みんなやってることだから、多少のごまかしはいいんだよ”。
最大限の努力はした。創意工夫もした。土日も返上で切磋琢磨した。その上で結果が出ないなら、それも人生、諦めもつくはずだと思います。
不況だと大騒ぎする人に限って努力の度合いが小さい、私にはそんな気がします。弁塾は別として私が関わるビジネスも不況の影響を受けています。いちばんの打撃は不動産です。昨年春のプチ不動産で上げた利益はすでに吐き出してしまいました。英語学校への投資は凍結、得意の旅行関係も今ひつと。NYのマンハッタンエンターテイメントは持ち直しましたが今年は去年の赤字分の補てんで精一杯です。
“先生は気楽でいいよな”。
とんでもない! 弁塾の指導は毎回が真剣勝負です。テキストや指導内容も毎回異なります。生徒さんから学費と時間を頂戴し、大いに喜んでいただくことが私の使命です。気楽そうに見えるだけで努力の度合いはけっして低くはありません。
大小問わず事業主には企業倫理が大切です。ここを間違えると人生も仕事も転落します。お金は稼げばいいのです。でも培った信用や愛情はいちど壊れてしまうと修復ができません。
激論をした友人がいま警察から事情聴取を受けています。私が出来ることは彼の家族を守ること。友人ならば、親友ならば、もう少し厳しい言葉をかけてあげればよかったと猛反省している私です。
“彼女を傷つけた。
すべては私の責任”。
タレントの陣内智則さんが頭を下げました。芸人ならばもう少し気のきいた弁が出来ないものかなあ、と感じてしまった私です。
彼の弁は何かが軽いのです。軽率そうに見えて実は軽率。そんな印象を抱かせたのは次の件(くだり)です。
“私の未熟さ、弱さがあった。
独身のように浮気をして、彼女を深く傷つけてしまった”。
後半の件が私にはどうしても気になります。
“独身時代は自由だよな。
浮気をしようが二股をかけようが問題ない。
さすがに結婚をしてからはおとなしくしなきゃならないけど、
俺ってバカだから浮気の虫が治まらなかった”。
陣内さんがこういう考えをしていたかどうかは定かではありません。会見での彼の動作、仕草、話し方を見る限り、彼に対して人間的な深みは感じられなかった私です。
さて・さて、世の男性が浮気をする場合、それには一定の法則があります。それは、
“獲得欲求が満たされてしまったとき”
です。釣った獲物にエサは与えないとは品性に欠ける表現ですが真実でもあるのです。男性を満足させて、安心させて、満たしてしまういいオンナ。こういう女性は自分が完璧だということをよく知っています。自分にも自信がある。 だから、
“私は浮気は絶対に許さない”。
と言うのです。
浮気をされる前からこう考えている女性が実はいちばん浮気の被害者になりやすい。
こういう考えにカチンとくる女性、こういう女性も 被害者になりやすい。
“納得がいかないというのが私の心境だ”。
続投を表明した民主党小沢一郎党首の発言です。
今度は民主党に一票を投じようと思っていた人たちにとって、
“選ぶ政党がなくなってしまったこと”
は実に納得がいかないはず。
納得がいかないのはこれだけではありません。
“国民の側に立った政治を実現する目的のため今後も頑張っていきたい”。
言葉の響きはいい。でも、これまで国民の側ではなく企業の側に立った政治を行ってきたから秘書が逮捕、起訴されることになったのです。これをどう改革するのか、納得できる説明がほしい。これが国民感情だと思います。
“政権をとって首相云々ということに未練も執念もない”。
ならば、
“過半数をいただいたときにはその責任を果たすのは当然だと思っている”。
という発言はどう説明するのでしょうか。未練はないが選挙に勝ったらよろしくでは国民は納得できません。
“やるならば企業献金をすべて禁止するしかない”。
こういう発言にも納得がいかないでしょう。企業献金がダメなのではなく癒着がダメなのです。公明正大に利益をあげた企業から公明正大に献金を受ける、このことに反対する国民はいないのです。
本人も納得がいかなかったイチロー選手は最後の最後に納得のいく活躍をしてくれました。小沢一郎氏にもこういう起死回生の一発を期待したいことろです。
“なんでもかんでも人権を持ち出すな。
見逃したら不法滞在はやった者勝ちになる。
自業自得だ”。
子どもを理由に特別在留許可を求めていたフィリピン人一家に対するバッシングの声です。
ルールを破って日本に入国し不法滞在が発覚する。こういう外国人に強制退去(deportation)が命じられるのは当然です。
問題は彼らが一定期間、日本に滞在し、正規の職に就き、“正常”な社会生活を営んでいる場合です。子どももいるとなれば話は厄介です。法に立つか、情に立つかで議論は二分するところだと思います。
さて、一家が納税をしていたこと、このことがあまり話題にならないことが私には少々気になりました。
“不法就労者からでも納税はしていただく。
でも不法滞在は許さない”。
こういう理屈が通ることが私にはピンときません。犯罪目的で不法に滞在するその筋の人たちと渦中の一家を同一視していいものなのでしょうか。
“不法滞在はダメですよ。
あなた方には強制送還を命じます。
日本で就労を続け納税もしていますね。
この点は評価しましょう。
日本で生まれた子どものことも考慮しましょう。
再入国の申請をすれば、一家が日本で居住することを検討しましょう”。
日本にはこういう結論が出るような土壌はないようです。
法務大臣が下した結論、それは、
“両親の訪日は許可する”。
裁量権とは何なのか、納税とは何なのか、考えさせられた事件でした。
“何が何でも人と同じことは言わないぞ”。
論理の飛躍があろうと独善的であろうと一切気にしない。とにかく普通とは違うことに特化する。こういう姿勢がアナタのスピーチをより面白くしてくれるのです。
新聞の記事を読んで内容を把握する。これを伝達するだけのスピーチはスピーチではありません。大切なのは次のステップです。
“どう切り込めば面白くなるのか?”
このことに徹底的にこだわること、それが一級弁士の責務です。アイデアを捻り出す作業に億劫ではいけません。ヒントはアナタの心の中、頭の中、これまでに体験したことに隠されています。これがアナタの宝ものなのです。
ひらめいた言葉を紙の上に書き出す作業。私も日々実践していることです。お酒を飲みながら友人と話してみることも有効です。とにかく他の誰とも違うアナタ独自の見解を無理矢理にでも引き出す。こういう日々の習慣がアナタを弁士として成長させてくれるのです。
ユニークな発想を心掛けていると、ユニークな言い方が自然に出来るようになるから不思議です。思考と言語はシンクロしているのですね。平凡な発想からは平凡な言葉しか生まれません。
この点、石原都知事はユニークです。
“こんなことを言うと叱られるかもしれないが、
変なものが間近に落ちるなんてあったほうが、
日本人は危機感というか、緊張感を持つんじゃないかな”。
定例記者会見での発言です。
“(日本人は)まあ大丈夫だ、まあ大丈夫だで来たわけだから”。
賛否は別にして都知事は“人と同じことは言わないぞ”が実践できている人だと私は思います。
私が最も魅力を感じる女性、それは、
“ぬくもりを感じさせる女性”
です。
美しく着飾る女性は魅力的です。美しいというだけで女性には価値があります。それでもぬくもりには劣ります。外見や性格は演出が可能ですが、ぬくもりはそうはいきません。
綺麗な女性が笑顔で囁けばどんな男性でも喜びます。ぬくもりを感じるかどうかといえば、それは別の次元の問題です。心の中のペニスが勃起するかどうか、それはぬくもり次第なのです。
ぬくもりを表現するツール、それが言葉です。何を言うかは大切。どう言うかも大切。誰が言うかはもっと大切です。でも、いちばん大切なこと、それはぬくもりを感じさせる言葉かどうか。
ぬくもりの正体は不明です。幻想かも知れません。
“男性が浮気をする原因はぬくもりにある”。
私にはこんな気がします。ときにはお金を払ってまでバーチャルなぬくもりを求めることさえあります。これが世の男です。これを破廉恥と考えると男の本質を見失うことになります。バーチャルと割り切ってまでぬくもりを求めるのです。尋常ではありません。
“綺麗な女性はモノにしたい”。
こう考えるのが男です。
“ぬくもりを感じる女性は大切にしたい”。
男はこうも考えるのです。
ぬくもりが何なのか、考えてもなかなか答が出てきません。それでも私が女性に求める感覚、それがぬくもりです。
能力がありながらなかなか芽が出ない。性格もおとなしい。見た目は地味。こういう生徒には 自信をつけさせることが先決です。
“芽が出ないのはアナタのせいではない。
これまでよき指導者にめぐり合わなかっただけだ。
今日から私が指導する。
一緒に頑張ろう”。
こういうタイプには熱血講師がいい。具体的な勉強方法など提示する必 要はありません。急ぐ必要もありません。対話から始めるのです。失った自信を取り戻すことにすべてのエネルギーを注ぐことです。勉強するのは指導者でなく本人です。本人が自分に目覚め明るい気持で学習に取り組むことが出来るようになるまで、温かく見守る。時には叱咤激励する。これが大切です。
千葉県もこのタイプです。
“千葉県には国際空港、デズニーランド、全国屈指の農漁業など高い潜在能力がある。
でも元気がない。
それは『頑張っていこう』と後押しする監督、戦略がないからだ”。
知名度抜群の森田健作氏がこう述べた時点で勝利は決定していました。時代の波が彼を求めていたのです。無所属で戦えたことや“元気モリモリ、千葉日本一”というキャッチフレーズも彼を後押ししてくれました。
“千葉県民は人が良すぎるんだ。
国や東京の言うことを言われるままにやってきた。
優秀なゴールキーパーではあっても、シュートがないんだ。
これからは国にモノ申さなきゃ。
チェンジだよ!!”
ヤル気を引き出す彼の言葉。一流です。
“Friendship is above reason, for, though you find virtues in a friend, he was your friend before you found them.”
以前、一ツ橋大学でも出題されたことのある文章です。こういう英文を口ずさんでいると心が癒されます。日本語とは違った言葉の響きが心地よいのです。 “友情は理屈では説明がつかないものである。というのも、たとえある友人が立派な人間であったとしても、その友人が立派な人間であることがまだわからないうちに、すでに友人になっていたからである”。
友人とは実に不思議な存在です。
“どうしてアノ人と友だちになったの?”
“わかんな~い。気づいたときにはもう友だちだったんだもん”。
これが本来の友人関係の姿です。愛人関係とは違います。
人には友人をつくる能力がある。そういう能力を与えられてこの世に生まれてくる。だから、どんな人と友人になるかは天から授かった力(divine power)に身を任せるのがいい。これが英文の趣旨です。
“この人と友人関係を結んでいれば得するかも知れない”。
こういう人には真の友人はやって来ない。
“この人と友人関係を結んでも得することはないだろう”。
こういう人にも友人はやって来ません。友情に値札をつけようとする人、打算的な理由だけで友情関係を結ぼうとする人には偶然の巡り合わせさえもやって来ないのです。
私は多くの友人に囲まれています。彼らの献身的な援助、助言、奉仕の大きさと比べると自分の施しがいかに小さなものか、そのギャップの大きさに日々、心を悩ませてしまう私です。
“何でもいい。
どんなことでもいいから私を楽しませてください”。
最初の指導で私が生徒さんにリクエストすることです。
“そんな! いきなり言われても困ってしまいます”。
“いくらでも待ちますから!”
たいがいの人は降参してしまいます。意地悪な福澤先生ですね(笑)。
難しいことは必要ありません。大切なのは心の底から聞き手を楽しませようとする、エンターテイメントの精神なのです。
“大きな声でハッキリ喋りましょう。
間も大切ですよ。
アイコンタクトにも気をつけてくださいね”。
こういう薀蓄(うんちく)をいくら並べ立てても面白い話は出来ません。薀蓄以前にすべきことがあるのです。それが聴衆分析(audience analysis)です。
“この男を楽しませるにはどうすればいいのか?”
この一点に的を絞り、聞き手を徹底的に分析すること。スピーチはこの時点からすでに始まっているのです。
聞き手の興味から遊離しないこと。話し手本人の興味からも遊離しないこと。聞き手と話し手に共通する範疇の話題を選ぶこと。それには聴衆分析がどうしても必要なのです。
昔、“ネルトン”というお見合いパーティの番組がありました。頭を下げて女性に右手を差し出します。
“お願いします”。
そして、返事はきまって、
“ゴメンなさい”。
スピーチが失敗する典型的な例です。
相手を知ることからスピーチは始まる。この感覚を皮膚に叩き込むこと。これが弁塾での最初の学習です。