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” 他人事のようにと、あなた、おっしゃったけどね、私は自分自身を客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです”。福田首相が辞任(resignation)会見で最後に発した言葉です。
福田さんは最後の最後まで福田節を貫いてくれました。こんな切り返しができるならまだまだヤレるのでは、そんな気がした私です。小泉さんならどう切り返したか? 安部さんなら? いろいろ想像したくなるところです。石原都知事なら“君、どこの記者だ!”と返したかも知れません。福田さんの返答は私の中では名言です。
言葉を慎重に選ぶこと。政治家にとっては命の次に大切なことです。破廉恥な発言が飛び交う今の永田町にあって、福田さんは一貫して言葉を選ぶ政治家だったと私は思います。慎重すぎて誤解されたり皮肉っぽく聞こえることもしばしば。これが国民には無責任、他人事のように映りました。
“首相こそが景気低迷の元凶だ。” これまでのメディアの主張です。責任の矛先をすべて首相に向ける。そのことによって国民のストレスは発散されるのかも知れません。ただ、景気低迷の真の原因がどこにあるのか、我々国民も今一度、“客観的に”見つめ直す必要がありそうです。
福田さんは全首相からバトンを受けて就任した一走者です。これまでのツケを独りで背負い最後の直線を全力で駆け抜けたのです。批判するのは大いに結構。でも福田さんだからこそここまで日本をリードできた、こういう評価がまったく見受けられないのは残念です。継続すれば辞めろと言われ、辞任すれば無責任と言われる。どちらにしても叩かれる。
一国の首相が熟慮して出した結論に拍手を送ろうではありませんか。次の総裁がおそらく自民党最後の首相です。その人がどんな発言をするのか、慎重に・冷静に・客観的に見つめようと思います。 慶喜役を買って出るのはいったい誰なのでしょうか。
“自分の会社は成長し続ける。黙って会社に従って働いていれば楽な暮らしができるようになる。解雇されるなどと考えるのは不謹慎”。こんな神話に翻弄され続けてきたのが日本のサラリーマンです。
日本人は我慢することに慣れきってしまいました。“苦しみに耐えること”が美徳であり、けっして楽しんではならない。歯を食いしばって苦悩する自分を美化し周囲はそれを賞賛する。
“忍耐の先には必ずや明るい未来が待っている”。ところが忍耐の先には更なる忍耐が待っていたのです。これは辛いはず。でも大丈夫。忍耐が美徳だからです。
人口の8割以上が農民だった江戸時代。今の日本は7割がサラリーマンです。“生かさぬよう、殺さぬよう”と扱われていた当時の農民が今のサラリーマンに姿を変えただけ。だとすれば日本は未だに江戸時代。恐ろしや。
高校時代の親友と久々に酒を交わしました。男47歳、独身。元新聞記者。長身でハンサム。長年勤めた会社を辞めたらしい。“ようっ。リーマン生活にピリオドだな。おめでとう”。これが素直な私の言葉でした。“起業するんだろう? オマエのためなら何でも協力するぞ”。
辛い・辛いと愚痴をこぼして辞めたリーマン生活。ここまでは私の理解の範囲内。それでも彼は新たな就職活動を始めたというのです。これには驚きました。なぜそこまで我慢する?
起業は自分には不可能という新たな神話が彼を翻弄しているようです。 親友として私が出来ること。それは愛情いっぱいに彼の人格を壊してあげること。こう確信している私です。
華がある人とはどんな人だろう。生徒さんとこんな話で盛り上がりました。
華の意味は人それぞれ。無理に定義する必要もありません。でも気になります。深夜の箱根の森を見つめながら華のある女性について考えてみました。
さて・さて・女性のアナタに質問です。“男性は女性のどこを見ているのか?”。顔? 胸 ? 脚? それともヘアースタイル? どれも正解だと思いますが私がいちばん気になるのが女性の後姿です。“えっ、福澤先生って背中フェチなんですかぁ。”そうなのかも知れません。でも私を含め多くの男性が女性の背中を見ている、しかもジロジロと。これは間違いありません。
正面から女性を見ること。男性にはこれがなかなか出来ないのです。初めてお会いした生徒さんのお顔はしっかり拝見しますよ。でも顔以外のパーツをジロジロ見ることはシャイな私にはできない。でも背後からなら堂々と見ることができるのです。
正面から見る女性の姿。小奇麗にしている方が実に多い。皆さんオシャレだと思います。タンクトップと短パンで下品に歩いているニューヨークの女性と比べると日本の女性の皆綺麗なこと。でも、後姿で勝負できている女性は少ない。これが私の正直な印象です。
下着からはみ出したお肉は見えてないかな? 首のうしろの手入れは? 産毛やニキビは? ストッキングに泥は撥ねていませんか? 姿勢は?
お顔のメークが完璧であればあるほど男性はその後姿とのギャップに落胆してしまうのです。私にとって華を感じさせる女性、それは後姿が美しい女性です。
I realize that I am not the likeliest candidate for this office.( 自分が大統領という職にドンピシャの人間でないことは認識しています。 ) I don ' t fit the typical pedigree, and I haven ' t spent my career in the halls of Washington. ( 大統領にふさわしいとされてきた典型的な経歴はないですしずっとワシントンで働いて来たわけでもありません。) But I stand before you tonight because all across America something is stirring. ( けれども私はいまこうやって今夜、みなさんの前に立っています。それはアメリカ中で今なにかが渦を巻いているからなのです。)
キング牧師が I have a dream の演説を行ったその日からちょうど45年。8万人の聴衆を前にオバマ大統領候補が45分間の受諾演説を行いました。自ら人種差別主義者を名乗るアメリカ人はもういません。それでもアメリカ人の心の中には大きな迷いがあるのです。黒人を大統領として受け入れていいのだろうかという迷いです。
バスの中でさえ黒人と白人が隔離されていたのが45年前。そして今、黒人が指導者として欠かせない時代がやってきました。このことに迷うアメリカ人はもういません。オバマ氏が民主党の大統領候補になる。このことに迷うアメリカ人もいません。でも黒人が大統領になることが現実味を帯びてきた今、アメリカ人は大きな決断をしなければならないのです。
人種問題は大統領選の隠れた争点です。オバマ氏は“自分がドンピシャの人間ではない”という言い方をしました。自分が相応しいという言葉はあえて選択しなかった。多くのアメリカ人の迷いに配慮した言葉です。“何かが渦巻いている”の“何か”にはおそらく人種のことも含まれているのだと思います。
原稿を書いた人物はオバマ氏の側近で若干26歳。物凄い国です。
行動力とリーダーシップは人の上に立つために欠すことのできない能力(competence)です。行動力がない人、リーダーシップがない人はどうなるか? 皆評論家になるのです。 “あれじゃダメ、これじゃダメ”と批判ばかりする。行動はしない人だからリーダーシップはのぞめません。批判はネタとしては面白い。ゴシップ(gossip)や噂も同様。だから評論家は組織の人気者だったりするのです。
さて・さて・自民党の総裁選には7人の評論家が立候補しました。かなり悪質な評論家です。徒党を組んで国民を欺こう(deceive)としているからです。
政策論争ですって? 彼らは野党ではないのです。自分たちの政策がニセモノだったからこんな日本になってしまった。このことを棚に上げてまた論争ですか? 実にばかばかしい。
もっと悪質なのが裏で糸を引く長老たちです。表の顔は政治家。でも実態はチンピラ同然です。7体の人形を自由に操り自分たちの失政を葬り去ろうとする。その絶好の舞台が総裁選なのです。
メディアは今回の総裁選を面白おかしく取り上げることでしょう。これから起こるであろう数々のドラマ、そのシナリオは既に書きあがっているのです。でもチンピラにしてはかなりの腕前です。
最もドラマティックな結末。それは締め切り間際に8人目の立候補者が現れその人物が総裁選を制してしまうこと。民主党小沢党首もビックリする超どんでん返し。最後の候補者ミスターXは登場してくるのでしょうか?今回登場しなければ次回か?
電話相談は私の楽しみのひとつです。顔が見えない分、皆さん様々なホンネを漏らしてくれたりします。多くの悩みが実は悩む必要がないということ。この“気づき”に目覚める方も多く嬉しい気持です。
“人から暗いと言われる”。切実な悩みですね。私だったら相当凹んじゃうかも知れません。“暗い”と言われるからにはかなり暗いのかな。でも電話口ではまったくそんな感じがしません。不思議ですね。“先生とお話していると明るくなれるんです。”ああ、そうですか・これは有り難い。
“要するに盛り上がってないわけですよね。アナタと一緒にいて楽しくない。もしかしたらアナタ自身も楽しくない。暗いとか明るいとかいう問題ではなくとにかく楽しくない。まあ・面と向って『暗いですね』なんていう人も無頓着な人ですが。”こんなことを“明るく”お話するのが電話相談です。
“最近、夫婦の会話がなくって”。これも意外に多い悩みです。夫婦の会話なんて目的ではなくって結果ですよね。お互いにラブラブならば会話は自然の成り行きのはず。“失礼なお話ですがセックスレスなのでは?”電話なのでこんなことも聞いちゃいます。“会話はないけどセックスはあるんです。”あらあら・たいへん失礼いたしました。人生色々ですね。
“噛んじゃうんです”なんていう悩みもありました。アナウンサーではないのですから、少しくらい言い間違えてもいいじゃないですか。そもそもこの“噛む”というのは業界用語です。噛んだら言い直せばいい。こんなことで悩む必要はないのです。
さて・さて・私の恋の悩みは誰に相談すればいいのかなぁ。”悩む必要なしっ!” どこからか声が聞こえてきました。まあ・いいかっ。今日も深夜の電話相談・頑張ります。
“くそ教育委員会”と発言するとすかさずメディアが報道する。大阪のモンダイが瞬く間に全国区のモンダイになってしまう。橋下知事の手法は巧みです。
“暴言が話題になったらシメタもの。その後の対処が分かれ道”。弁塾の『ダルマンマの法則第八番』はコミュニケーションのキホン中のキホンです。
暴言をあえて意図的に演出してみる。ワンフレースでポーンと言う。できれば刺激的なコピーがいい。するとメディアが自分からノコノコとやって来る。そしてマイクを向ける。その時がチャンスです。暴言だと非難されたことには一切触れずに言うべきことだけをズバリ言う。妙な反省はしない。一種の自作自演ですがリーダーにはこんな能力も大切なのです。
思わず口から出てしまった。これは暴言ではなく失言の類です。慎むべきはこの種の失言のほうです。失言とは要するに“うっかり発言”。宗教、倫理、道徳に反する失言は”うっかり”では済まされません。そういえば自民党は暴言も失言も両方得意のようですね。
さて、暴言なら何でもOKというわけではありません。賛否が6対4くらいで分かれる暴言がいい。この頃合いがチョイと難しいのです。“真意は分かるけどネ・ちょっと乱暴かなあ。もう少し別の言い方があるような”。こういう反応が出れば万全です。
暴言をもっと効果的に使う方法があります。暴言にユーモアを加えるのです。これで効果は倍増します。眉間にシワを寄せながら暴言をコミカルに描いてしまう。これで橋下知事も一級弁士の仲間入りです。
“私もニューヨークに行きたいんです”。涙を出しながら懇願する生徒。隣には鬼の形相をした父親の姿。ヒルトンホテル・マーブルラウンジでの出来事です。宮崎先生と英検1級の専門塾を立ち上げ経営が軌道に乗り始めていた頃の話です。
“日頃、娘から先生の評判は聞かされております。信頼申し上げております。でも大学生の身分でニューヨークに行くなんて無茶な話です。娘は海外に行ったことがないんです。”
反対する父親の演説は続きます。
“塾の正式なイベントでないことも承知しております。先生も渡航費をお支払いになるんですよね。この点は感服いたします。でも、なぜ娘にそんなに関わるのか、どうして立ち入るのか、その点が私には疑問です。自腹を切ってでも娘に関わろうとするお気持ちが私には分かりません。しかも先生は独身でらっしゃる。”
心配する父親の気持ちは手に取るように分かります。
“娘さんは私のアドバイスに耳を傾け、宿題をこなし、努力に努力を重ねて英検1級に合格したんです。立派です。なぜ娘さんに関わるのか? 簡単です。愛情です・愛情ですよ。お父様、『ミス・サイゴン』はご存知ですか。今ニューヨークで話題のミュージカルです。娘さんは仲間たちと一緒にその台詞を覚えているところなんです。2時間以上のミュージカルの台詞です。隅から隅まで暗唱するんですよ。全部暗唱して、そして最前列で生を観る。こんな凄いことをやってのける娘さんに誇りを感じませんか? 将来私が家庭をもったら娘さんのような子どもを育ててみたい。そんな気持ちでいっぱいです。”
ニューヨーク海外研修合宿の参加人数は延べで65名。ひとりひとりの顔を思い浮かべながら今この日記を書いている福澤です。
和菓子は太らない? これはウソ。 今日だけ特別? これもダメ。 食べないと力が出ない? 気にしない。 色々な言い訳を自分で用意して108キロまで増えてしまった体重です。弁塾のHPに掲載されている私の写真。丸々と太っていますね。ああ、恥ずかしい。
昨夏から本気で始めたダイエット生活。95キロ付近までは減量することができました。朝は食べる。昼も食べる。夜はフルーツを少々。間食はしない。これだけで体重はミルミル減りました。適度な運動も大切です。指導がキャンセルになったときはプールでウォーキング、これも効果があったと思います。
ニューヨーク滞在で3キロくらい太りました。でも今の私なら大丈夫。ダイエットをするリズムが身についたからです。いかにして90キロまで落とすか、これが問題です。“テレビの画面からはみでない顔になる!” TJ塾長が私に課したミッションです。夢は学生時代の87キロ。実現できる夢だと思っています。
ダイエット最大の敵。それは子どもが買ってくるコンビニのお菓子です。“パパ、食べる?” 彼が差し出したのは天乃屋さんの『歌舞伎揚げ』。 私の返事は迷わず“ノー・サンキュー”。1枚食べるとまた食べたくなる。1袋全部食べないと満足しない。 不思議なお菓子ですね。調べてみると1袋は114グラム。765キロカロリーだとか。運動だけで消費するのは至難の業ですね。ガマン・ガマン。“パパ、90キロになったらね、『歌舞伎揚げ』をお腹いっぱい食べようね。叙々園で焼肉も食べようね”。
天乃屋さんの商品には事故米が使われていないと知り、チョッピリ安心した福澤です。
ワイドショーで落合恵子さんが“国民は劇場政治にウンザリしてるんです。”とヒステリックに繰り返していました。滑稽に感じられたのは私だけでしょうか。 ごめんなさい・落合さん。アナタを侮辱しているわけではありませんよ。
総裁選はたしかに茶番です。でも国民の多くは心の底では茶番を楽しんでいる、茶番も劇場政治も実は大好きなのではないか、そんな気がします。自民党の支持率(approval rating)が驚くほど上昇しているのがその証拠です。
“政策論争が大切だ”。メディアはこう言います。そもそも自民党と民主党の政策ではドコがドウ違うのでしょうか。国民にはよく分かりませね。だから“誰がやっても変わらないのでは?”というような白けたムードが蔓延(prevail)するのだと思います。
“政策なんかどうでもいいから物価だよ物価”。これが大衆の本音だと思います。政治家と庶民の間には明確なギャップがある。だからそのギャップを感じさせない雰囲気の麻生さんが支持される、これで理屈が通ります。
決戦投票になって最後の最後に麻生さんが負ける。今となってはそんなシナリオは必要ありません。すべては支持率次第なのです。自民党が描く茶番のシナリオは実にレベルが高い。国民の様子を覗いながら次から次へと新ネタを披露するのです。
小沢さんが無投票で代表に選出される。そのタイミングを計って絶好のタイミングで辞任した福田さんとシナリオを見抜けなかった民主党の面々。この茶番勝負は自民党の勝ち?
江戸の時代から語り継がれる茶番の底力。これを舐めてはいけないのですよ・落合さんっ。
UAの機内で大喧嘩をしたのが今から8年前、以来ノースウェスト航空を利用してきた私です。プライベートも仕事もとにかくノースウェスト。間もなくデルタと統合されるためノースウェストで飛ぶのは今回が最後になりそうです。
思えば色々なことがありました。スーツケースの重さが50キロを超えてしまったことがありました。“Stones or something?” 大量に購入したスピーチの本の重さです。勉強のために買った本だということがわかり超過料金を見逃してくれたノースの職員の方。感謝・感謝です。
機内食が余っているからといって私におかわりをすすめてくれたのもノースのアテンダントでした。“You must eat more.” このmustはどんな意味なのでしょう。軽い義務かな? 機内で発熱したときに毛布を何枚もかけてもらったことも思い出です。シャンパンをボトルで戴いたこともありました。機内で一滴もお酒を飲まなかった私に配慮してくれたのかな。男性のアテンダントの方でした。
“英語が上手いですね。”と言われて“I’m an American.”と思わずウソをついてしまったこともありました。ノン・ネイティブだと悟られるのが悔しいのは今でも変わりません。
機内でなかなか眠ることのできない私を変えてくれたのもノースです。カプセル型のシートは衝撃的でした。JALよりもANAよりもいち早くフラットシートを取り入れたのがコンチとノースだったと思います。ファーストクラスを廃止しKLMと統合した頃からノースは変わりました。
数々の思い出を胸にホノルル経由でニューヨークに向かいます。今回は超短期、現地に数日滞在して日本に戻ります。
ハリケーンIKEの影響が心配でしたが定刻通りJFKに到着しました。成田・ホノルル・ミネアポリス・デトロイト・JFK。その間に出された機内食は計6回、出されると食べてしまうのが私の性分です。こんな自分がイヤ・イヤ。3キロくらい増えたかなあ?
ハイウェイーから見えてくるマンハッタンの夜景。身が引き締まります。この小さな島が世界経済の中心であり弁塾理論の屋台骨だからです。移民の数は日に2000人、皆それぞれの夢を抱いてこの地にやってくる。私もそのひとりです。
相手の気持を察する姿勢、思いやり、真心。多くを語らずともお互いが理解しあえる風土。一歩譲って相手の面子を重んじる心。これら粋な文化を否定しすべてが欧米化してしまうことに私は危惧を覚えます。
“言った者勝ち”。これがニューヨークです。彼らに日本的な感覚はないのか? 日本人の真心は通用しないのか? この疑問が弁力思想をアメリカに移植したいと私が考えたきっかけです。
日本式、アメリカ式、どちらの方が気持が楽か? どちらの方が素直な自分になれるか? どちらの方が心地いいか?
“対人に怯え、スピーチに怯え、自分が言い負かされることに怯えているのは実は日本人よりもアメリカ人なのだ”。このことに気づいて以来、日本古来の意志伝達方法の素晴らしさをアメリカ人に伝えることが私の使命だと思うようになりました。 勝手な思い込みかも知れません。でも私は本気です。
アメリカで花開いたコミュニケーション理論に日本的な味付けを施す。できることならば両者を融合してみる。何が出来上がるか? それはやってみなければわかりません。
日本のメディアを通じて知るアメリカと現実のアメリカには大きな隔たりがあります。渡部恒雄氏の『今のアメリカがわかる本』を読むとアメリカの真の姿が見えてくるような気がします。どうしてブッシュが2004年に再選されたのか? 誰もが感じる疑問です。
“人間の先入観やイメージというのは極めて重要な意味を持つ。ジョージ・W・ブッシュという人間が米国民の半分には大変魅力的な好人物(likable)であったことが皮肉にも彼の政権の抱える問題点をかなりの程度、覆い隠す効果があったのだ”。
当時アメリカのメディアがクローズアップしたのはイラク戦争、テロ、経済、雇用。しかし選挙の決め手になった最大の要因は実は道徳的価値観(moral value)だったのです。“真面目なアメリカ人は宗教を通じて一度信頼したブッシュ大統領の人格と言葉を信じている”。
“ブッシュは庶民的で安心感を与える人物なのだ。ずっと敵方にからかわれてきた知性の欠如についても、むしろそれは庶民のイメージにはプラスだった。(中略)ブッシュ陣営はこの庶民的で好かれる本人の魅力と反インテリを意図的に選挙キャンペーンに使ったふしがある”。
日本も同様です。かつてどの首相も手を出すことの出来なかった拉致問題(abduction)。この問題を巧みに利用して好人物を演出したのが当時の小泉首相でした。国民は小泉という人物の情熱(zeal)と人格を信じたのです。2005年の解散総選挙で自民党が圧勝した原点はここにあります。この人ならば庶民の望む生活を実現してくれるだろう。こんな期待を抱かせてくれた人物が小泉純一郎という人物なのです。
裕福な金持ちでもない。傲慢なインテリでもない。等身大の好人物に見せること。このシンプルな法則に早く気づいた党が日本の与党になるのです。
日本でもお馴染みのプレミアム・ロースト・コーヒー。ニューヨークのMacでも人気があるようです。レジ前に掲げてあるチラシに“感心”してしまいました。“Iced to meet you”.だって。なるほど面白い。こういうのは駄洒落(pun)って言うのかな。思わずコーヒーも注文してしまいました。
さて・さて・支払いはクレジットカードで。小銭が貯まっちゃいますからね。“Under the table”。 “今ナンテ言ったのかな?” Macの店員さんはたしかに“アンダー・ザ・テーブル”って言っています。 思わずテーブル下を覗き込む私。列に並んでいる人が皆苦笑しています。アレっ? そうかっ。カウンターの下にカードをスキャンする器械を見っけ。なるほど・これでスキャンするのね。了解っ。
せっかく留学したのに付属の語学学校で英語を学んでいる人がいます。教室に閉じこもってハロー・ハワユーの繰り返し。これはもったいない。街を歩けば英語を学ぶチャンスはいくらでもあるのです。
学校で会話を学ぶ。悪いことではありません。でも、テキストをそのまま暗記しても習ったのと同じ場面に遭遇することってあまりないですよね。“通じなかったらどうしよう”と悩むのではなく、通じなかったときに使える言い方を数多く身につける。これが大切だと思います。
日本人がよく使う“Pardon?”。これだと相手は同じ言い方を繰り返してきます。聞こえなかったと思うんでしょうかね。相手の英語が分からなければ“Put it simply”、こう言えばやさしい英語で返してくれます。“Simply?”でも十分通じます。チョット堅いですが“rephrase”という言い方もあります。“困ったときの英会話”をどれだけ使えるか、これが日本人には大切ですよ。
“I should have done it.”(こうしておけばよかった)。嫌いな言葉のひとつです。嫌いなのに心の中ではブツブツ言ってしまう。これが私の悩みでもあります。
人生に後悔(repent)はつきものです。数えたらキリがありません。だから考えないようにする。そして前へ・前へ・前へ。こう生きてきた私です。考え込むよりも行動する。これが良いことなのか悪いことなのか。タイミングが遅くて失敗することはあまりないような気がします。その反面、タイミングが早すぎて墓穴を掘ることが多い、これが私の人生です。
亡くなった父のことをいま思い出しています。70数年の人生は激動の連続でした。寝たきりになった晩年の6ヶ月、この期間に父は人生のすべてを告白してくれました。後悔と懺悔。強く生きてきたはずの父の目にはいつも涙が光っていました。冷静沈着だったアノ父でさえも運命には逆らうことができなかったのです。人生の微妙なタイミングと悪戯。これを制御することができるとしたらどんなに気が楽なことでしょう。
人生には節目があると思います。厄介なこと、それは今この瞬間が節目かどうかは誰にも分からないということなのです。映画“Field of Dreams”がこのことを私に教えてくれました。
“He will come.”。Heとは誰なのか? 何なのか? 今は分からない。それでも人生を歩んで行きさえすれば必ずやHeは現れる。
“進め・進め・進め”。私の心の中で聞こえてくる声があります。これが正しい声なのか? あるいは悪魔の囁きなのか? 摩天楼の光を見つめながら私は今ひとつのことを考えています。
魂の叫びをダイレクトに言葉に変換する。これがスピーチライターの仕事です。国家には希望に溢れる未来を語ってくれるリーダーが必要です。
“ What I do is to sit with him for half an hour. He talks and I type everything he says. I reshape it, I write. He writes and he reshapes it. That ' s how we get a finished products. ” (演説作成はオバマ氏と30分話し合うことから始まります。オバマ氏が話したことを私がすべてタイプする。推敲し草稿を仕上げる。オバマ氏も手を加え推敲する。こうやって最終的な原稿が出来上がるのです/News Week Jan 6 2008)
Jon Favreau (ジョン・ファブロ)氏26歳、 Obama 大統領候補のスピーチライターです。スピーチライターは政治家の分身と言われるほど重要な職業です。言葉で歴史が変わる。演説で国が動く。このことを熟知しているのがホワイトハウスでありアメリカです。
歴史を大きく動かすような名演説が日本で生まないのはなぜか? 日本語という言語がそもそも演説には向いていないという悲しい説を唱える人もいます。私にとってこれは大きな研究テーマです。
官僚や秘書官が書いた原稿をそのまま読み上げる日本の政治家。彼らに人生を託す気になれないのは私だけではないはずです。この際日本の政治家に高尚な演説は求めません。せめて暗記だけでもしてくれれば国民の印象は大きく変わると思います。
500年後の日本が演説大国になる。こんな夢を実現することが使命だと勝手に思っている私です。
政治家が失言をする。メディアが叩く。その政治家がわびる。今度はわび方を叩く。失言叩きは延々と続くのです。
失言叩きにはいくつかのパターンがあります。 まずは“心からわびていない”と迫るケース。“アレは心からわびた顔ではありませんね~”。文化人気取りのコメンテーターはいつもこんな風に言いたい放題。こんなテレビ人に限って政治家の前では結構おとなしかったりするから笑えます。“心からわびた”顔が一体どんな顔なのでしょうか、モンタージュ写真でもいいからぜひ見てみたいものですね。
?“わび方が足りない”。これもよくあるパターンですね。“足りない”と言われ続ける本人はどうすればいのでしょうか。メディアはわび方の巧拙などには無頓着です。とにかく”足りない“の一点張りで失言を叩き続ける。“100グラム足りませんでしたか?”。こんなギャグが通じる日本ではありませんよね。
“以前にもコンナ失言がありました”。これもよく見かけるパターンです。視聴者が忘れていた失言から初耳の失言まで完全網羅。失言は一覧にされ“前科”は一目瞭然です。
一旦失言をすれば叩いて叩いて叩きのめす。これが引き金になって自殺に追い込まれても知らん顔。失言は命より重いのでしょうか? 日本のメディアは異常です。
“失言叩きは視聴率が取れるんですよ”。ああ、それが日本のメディアの本性なのですね。失言大王の麻生さん!景気対策の秘策はもしかしたらアナタがもっと失言をすることかも知れませんよ。
相手の目をしっかりと見つめること。アメリカ社会の鉄則です。強いアイコンタクトこそが自信の証、信頼の証だと考えれているからです。日本は違います。アイコンタクトはあくまで控えめ(reserved)がいい。
封建時代に培われた習慣、それは今でも日本人に心理的な影響を与えています。“社会的地位の高い人の前ではあまり目線を合わせないほうが無難かな”。こういう考え方は今でも残っています。お見合いの席でも目線を合わせることはしませんね。むしろ見ないほうが丁寧であり好意的な印象を与えることすらあると思います。アメリカ式の法則を日本に当てはめようとする。このこと自体にそもそも無理があるのです。
相手から見つめられると私は疲れてしまいます。これが正直なところです。照れ屋なのかも知れませんね。そんなとき私は目を逸らします。そして間を置いてからまた相手の顔を見るのです。
日本で大切なこと。それは“相手が心地よいと感じる頻度でアイコンタクトをすること”です。この頃合いがなかなか難しいのです。まずは相手をよく観察することです。日本人が目を逸らすのは悪意があるわけではありません。無意識に行っている動作なのです。
私は常日頃、“私を見てください”、“僕を見てください”という言葉を相手に投げかけることにしています。これは意識的に意図的に行っている行為です。遠慮深い相手にプレッシャーを与えないよう、やさしく朗らかに語りかけます。こうすることで相手は私のことをよく見てくれるようになります。““相手が心地よいと感じているかどうか”、それはその人の顔の表情を見れば一目瞭然です。
こんな私でもアメリカに行けば相手を睨みつける自分に変身します。アイコンタクトを使い分けるのです。日本に帰国した数日間はこの習慣が残ります。そしてまた日本モードへと衣替えをするのです。
唐突ですが男は繊細で単純です。古今東西、この法則に例外はありません。試しに上司であろうが恋人であろうがとりあえず“すご~い”と言ってみてあげてください。男性はそれだけでこれまでの人生をすべて肯定されてしまった気分になれるのです。ほんとうです。両目を大きく開けて“すご~い”。大袈裟すぎるくらいが丁度いいのです。躊躇せずに一気に言ってみましょう。
夜の街に繰り出すと“すご~い”を連発する女性がいます。これはダメ。“すご~い”は伝家の宝刀、多様は逆効果なのです。使うのは最初だけ。いいですネ。
“すご~い”に気をよくした男性は延々とウンチク話を始めます。女性にとってはここが我慢のしどころでしょうか。ウンチクは下手なスピーチのようなモノ、いつまで続くか分からないのです。“そうなんだ~”、“あら・あら・びっくり”、“そしてどうなったの?”等々、うんちくを聞きながら相槌を打ってあげるのです。繰り返しますが男性は繊細です。社交辞令や中途半端な反応には敏感に反応します。悟られないように上手に接してあげてください。
さてさて、長~いウンチクが終わりました。ホッとしているアナタ。ダメ・ダメ。油断は禁物ですよ。 “素敵ですね”と一言添えてあげましょう。この言葉が男性のプライドをくすぐるのです。“何々さんて素敵ですね”と名前を入れると一層効果があります。
“男の人ってこんなに単純なの? そんなはずない?”。こんな疑問を抱いているアナタ。疑っちゃダメですよ。最初に言ったでしょう。この法則に例外はないのです。世の男性は金太郎飴。み~んな同じ生き物なのですから。
最強の言葉。それは“わあ~・こんなの初めて~”。これで決まりです。男性は”初めて“に弱いのです。間違っても”この店来たことあるぅ“なんて口走ってはダメですよ。ウソも方便、この一言で男性は世界で一番幸せな男になれるのですから。いいですネ。
“不要なモノは捨てる”。響きからして何となく嫌な感じがする言い方ですね。食べ残し(leftover)ですらモッタイナイと感じるのに、食べる前から捨てるのは抵抗があります。
“緊急需給調整対策”? 要するに採れすぎた野菜を捨てちゃう(discard)ことです。作物が取れすぎると価格は暴落する。これが豊作貧乏です。農家は売れば売るほど赤字が増える。それを回避するために廃棄を行い、廃棄した野菜の平均価格の40%を政府が補てんするシステムです。今年のターゲットはキャベツです。
こういう根本的な問題を政治家が解決しなければならないのに、農水省がしたことはインターネットでの解決策募集。“どれも具体性に欠けますね”なんて暢気に構えているから許せません。業者と手を組んで事故米を市場に流すことには一生懸命な農水省です。すべきことが違ってませんか。
キャベツがトラクターに踏み潰される映像をテレビで観る。おもわず“もったいない”と叫んでしまいますね。野菜が高ければ文句を言い、廃棄しても文句を言う。これが私たち消費者です。農家にとって豊作は死活問題です。燃料費の高騰も見逃せません。
消費者の立場に立って考えても農家の立場に立って考えても“廃棄”に勝るアイデアが浮かばない。これが私のストレスです。
そうだ。ギャル曽根さんに力を貸してもらおう。農水省主催のキャベツの大食い競争を行うのです。優勝者にはキャベツ1トンを進呈する。私が真剣に考えた結論です。
我が家では“キャベツ月間”を始めました。今日から1ケ月間朝も夜もキャベツを食べるのです。皆野菜が大好きです。キャベツダイエットっていう方法もあるかな?
贋作は知っていても贋造(がんぞう)という言葉は知りませんでした。牛乳の品質をごまかすために工業用の物質メラミンを混ぜる行為です。農薬(pesticide)や抗生物質(antibiotic)、細菌の検査ばかりに注目する今の時代の盲点をついた犯罪です。
ペットフードを食べて死ぬイヌやネコが相次ぎ昨年アメリカで大問題になったことがあります。メラミンを含んだ中国産の原料を使った商品でした。これも深刻ですが、まさか人が口にする食べ物にまでメラニンを混入させる行為は許せません。
森永乳業はヒ素化合物を粉ミルクに添付、これを飲んだ13000名もの乳児がヒ素中毒になり130名以上の命が奪われました。1953年頃の日本です。当時の患者は今でも脳性麻痺、知的発達障害、精神疾患などの重複障害に苦しんでいるといいます。
資本主義経済の基本は利益の追求です。コスト削減の裏で繰り広げられる不適切な行為、これを禁止、抑制するために各種法令が整備されることになります。“まずは利益追求ありき”の姿勢を野放しにすると違法行為を行ってでも利益追求に走ったり、中には法の盲点を突いた倫理(ethics)に欠けた行為を行う企業も現れてきます。日本の高度成長期はまさにこの状況でした。
中国商品をボイコットすることは簡単ですが根本的な解決にはなりません。国土の狭い日本、輸入に頼らなければならない日本。経済成長をするアジア諸国を叩くことよりも援助、連携がより大切なテーマです。
子育てで悩む。ひとりで抱え込む、相談できる相手もいない、分かってもらえない。そして時間の多くが奪われる。
生まれたばかりの子どもはよく泣きます。お腹が空けば泣き、機嫌が悪ければ泣き、そしてときには理由もなく泣く、それが赤ちゃんです。子育ての予想外の大変さ。私も体験したことです。
雪の降る日でした。カギを持たずに帰宅した私は玄関先で待たされることに。ドアを叩いても電話をしても反応はない。生後間もない息子が泣き止まず妻がパニックになっていたのです。このことが引き金になって初めての夫婦喧嘩が始まります。
“アナタが帰ってきたなんて気づかなかったわ。寒いくらいでどうして待てないの? 私はそれどころじゃあないのよ。”
カギを持っていない私が悪いのです。でも、当時はそうは思えなかった。仕事から帰り体はクタクタでした。たしか90分の授業を7回こなさなければならない月曜日のことだったと思います。これが私のイライラを増大させたのです。“カギくらい開けてくれたっていいじゃないか。何考えてんだよ”。
いちばん辛いのは夫婦のどちらか一方が子育てに理解を示さないことです。父子家庭の身になってはじめて子育ての辛さが理解できるようになった気がします。
母親が子どもの命を奪う事件がまた起きてしまいました。断じて許される行為ではありませんがどうにかして回避することはできなかったのか、子を持つ親のひとりとして胸が痛くなる思いです。同じような事件が今後も繰り返されるのでしょうか。
人それぞれが育ってきた環境や性格によって形成される価値観(values)、一定の職業に従事することから生まれる価値観、これらはなかなか変わることはありません。
人は価値観に基づいて行動します。男女の関係が親密になればなるほど、この価値観を共有できるかどうか、相手の価値観を受け入れるだけの度量がどちらかの側にあるかどうか、このことが大きなテーマになってきます。
相手の価値観を変えようとする行為。たとえ相手のためであったとしてもそれは余計なお世話です。だから私は相手の価値観に立ち入る愚は犯しません。厄介なのは自分と相手の価値観が180度違う状況にある場合です。どうやってその溝を埋めたらいいのか。
私は相手への愛情の深さと価値観の違いを天秤にかけどちらが重いのかを考えようとしました。世間一般の女性にはこのことが破廉恥な行為に映るかも知れません。それでもあえて素直な気持を綴ることにします。
愛情の深さに疑いの余地はまったくない。価値観の違いは大きな愛情で包み込む。このことは実行できていたはず。ならば問題はないのでは?
自分とは違いすぎる相手の価値観を受け入れること。そのことで私の中に芽生えた心は皮肉にも怨念と憎悪の気持でした。深い愛情と憎む気持が同時に成立してしまう感覚です。子どもを授かるという縁があった妻にでさえも感じることのなかった感覚でした。 言葉を司る仕事をしている私自身が自分の気持を封印してしまうのはなぜなのか。 自問自答をする日々が続いています。
私は異常なのでしょうか。それとも相手を受け入れるだけの度量がない単に陳腐な男なだけなのでしょうか。
ニューヨーク ME 社の Bobby から携帯に突然の電話。“ Hi Koji, how are you doing? ”社長直々の電話です。しかも“ Do me a favor ”といきなりのお願いにビックリです。“ We need tickets for Tigers. ”財界の VIP が日本に来ていて阪神戦のチケットが取れないで困っているようです。
阪神 VS 横浜戦ならどぅにかなるかな。“ No problem. Don ' t worry. Leave it to me. ”
自信たっぷりの私に Bobby も大喜び。“ No worry about the price. ”幾らでも払ってくれるらしい。社長の Bobby が言うのですから間違いありません。とにかくベストシートを入手すること、これが私のミッションです。大阪の業者に連絡を入れてみます。“ネット裏とかいい席は売れちゃったんですよね”。ガーン! “幾らでも払いますからどうにかなりませんか?”
さて・さて・困ったことになりました。 Yahoo のオークションサイトを覗いてみますが6連番のチケットは見つかりません。球団に電話しても”どちら様ですか”と無視される始末。ああ・どうしよう!
金券ショップ・阪神・タイガース・ VIP 席等々、ネットであらゆるキーワードを叩いてチケットを探します。寝ている息子を叩き起こし検索を手伝わせます。こんなとき男の子は助かります。彼が見つけた業者はチケットゾーンさん。“あっ。ネット裏の3列目だ。8枚売ってる”。深夜3時32分。パパの手伝いが出来たことに息子は得意満面です。
翌朝、大阪のヒルトンにもご協力いただきチケットは無事 Bobby のお客様まで届けることができました。
“公のためにはある程度自分を犠牲にしてでもというのがなくて、自分さえよければという風潮の中でなかなか空港拡張ができなかったのは残念”。問題が大きくなった後の中山成彬国交通相の発言です。始めからこう言えばメディアの餌食にはならなかったでしょう。
成田空港の反対闘争には歴史があります。紛争の歴史です。“ごね得”と言われても仕方がない側面も否定できません。それが中山氏の本音でもあったはず。それなら堂々と説明したらいい。タブーに一石を投じ臆することなく議論したらいい。大臣が自分の発言を易々と撤回するほうが情けない。私はこう思います。
“不平不満を並べて承知せず相手の譲歩のみを得て得をすること”、これを一言で言えば“ごね得”です。こうやって空港建設に反対し続けた人もたくさんいたのです。
タブーに触れれば摩擦は覚悟しなければなりません。摩擦をから逃れ、本筋の議論を避けようとする政治家が日本には多すぎます。
落選すればタダの人だと言われますが、当選してもタダの人のはず。それでも職に執着する理由は何なのか? 議員会館では毎日のように“ゲンナマ”が飛び交っています。私がこの目で何度も目撃したことです。落選すれば甘い汁を吸えなくなる、お金は与党に集まります。大臣にはもっと集まります。そしてそのお金を政治活動に使うのです。
大臣が発言に責任を持つことは大切です。もっと大切なことは持論を説明する勇気です。批判に屈しベソをかきながら辞任していく政治家の背中はもう見たくありません。
“嬉しいときにはハハって笑う。悲しいときはシクシク泣く。8(ハ)×8(ハ)=64。4(シ)×9(ク)=36。足して100。これが人生ですよ。人生には喜びが64、悲しみが36と決まっている。悲しいときもあれば嬉しいこともあるのです”。
少しだけ疲れ気味の私に、この“足して100の法則”を教えてくれたのが宮崎先生です。私はこういう話が大好きです。根拠も何もない、なぜ掛けたり足したりするのかもわからない。でもそんなことはどうでもいいのです。今の私には十分な言葉です。心にズッシリ響きます。
“福澤先生はいつも元気でなければダメなんですよ。先生に励まされ勇気を与えられている人はたくさんいるはずです。元気でい続けることが先生の使命なんですよ。僕が出来ることなら何でも協力します。膝枕でも何でもしちゃいますよ”。
言葉は人と人を結びつける接着剤のようなものだと私は思います。言葉の使い方ひとつで人の気持はガラリと変わる。頭の中にある概念をエンコード(encode)したものが言葉です。概念と言葉は同一(identical)ではありません。教養のある人ほどその概念が的確に相手に伝わる言葉の選択をしている、そんな気がします。
私はスピーチコミュニケーションのプロです。知識で私に優る学者は地球上にはいない。過信ともいえるほどの情熱と気迫は私のトレードマークです。それでもある不安から逃れることができない。教養溢れる的確な言葉を人々に与えることができていないのではないかという不安です。この苦悩から脱却するにはまだまだ精進が必要です。
”足して100の法則”を今の私に与えてくれた宮崎先生。これぞ教養人の証です。有難う。
自分が正しいと信じていることを貫き通す人。こういう人を“気骨ある人”といいます。英語のbackboneにはない勢いと品性が感じられる言葉、それが“気骨”です。響きもいい。私が大好きな日本語です。
“私は気骨があります”とは言いません。“あなたには気骨があります”。こうも言いません。“気骨”は現場に居合わせない第三者に対して使う言葉です。亡くなった人に用いる褒め言葉でもあります。
頑張ろうとする人。そんな人をバカにする風潮があるように思います。“どうせダメだろう”。“気骨”ある人が成功するとその人を妬む。失敗すると“それ見たことか”と見下す。“気骨”がある人から“気”と“骨”を無理やり奪い取る。そして丸裸にする。そんな社会では“気骨”ある人は育ちません。
教育にも“気骨”が大切です。愛情溢れる情熱で人格を壊してあげること。これが“気骨”のある教育です。脳細胞が破壊されるような衝撃と感動を与え生徒をリードする。時間を気にすることなく徹底的に指導する。これができなければ教育の現場にいる資格はありません。生徒に迎合する教師と叱られる喜びを知らない生徒。これは不幸です。
“気骨”ある人間関係を築こうとすると摩擦が生じます。摩擦が新たな摩擦を呼び込むこともあります。摩擦が心の琴線に触れることもあります。“気骨”ある人の心に隠されてる琴の音色。この音色に魅了される感動が人を動かす源なのだと私は思います。