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アルプスにキリマンジェロ、ネパール。3つの山を制覇した生徒さんのスピーチに心躍る私です。
上高地の美しさをも凌ぐ光景が堪能できるアルプス。世界中の人が集い挨拶する喜び。氷河の迫力。タンザニアの麓までは広大な平原をジープで移動、目の前には無数のシマウマ、キリン、シカ。水牛の肉を使ったネパールの焼きそばと餃子。
経験した人のスピーチはそれだけで十分。加工を施したり悩む必要はありません。経験自体が話し手のクレディビリティー (credibility) を演出してくれるのです。
ユニークな経験談は上質のトロに似ています。焼いたりあぶったりする必要はない。そのまま頂く。これでいいのです。
話し手の情熱はダイレクトに聞き手に伝わります。美しい景色に感動した話し手の目は美しく、感動的経験をした人の語りはやはり感動的なのです。これが自然体のスピーチであり弁力の根本思想です。
息子を連れてアルプスに行きたい、キリマンジェロに登りたい、ネパールにも行きたい。私をそんな気分にさせたこと。それでスピーチは大成功です。
肉声だけで人を動かす醍醐味。これがスピーチでありプレゼンテーションなのです。
“日本とアメリカは違う。そもそも国力が違う。だから日本人は働き続けなければならない”。生前、父がよく口にしていたことです。
実際に勤めてみて私が感じたこと。それは無意味な残業でした。仕事は終わった。でもまわりの人間はまだ仕事をしている。編集長もまだ残っている。局長が帰る。すると部長が帰る。そして編集長が一言、“そろそろ我々も帰ろうか?”。
午後8時、就業終了時刻から既に3時間が経過しています。
仕事があって残業する。これは幸せなことです。好きな仕事を好きなだけすればいい。仕事がないのに上司に気を遣って会社に居残ること。これは愚かです。愚かだと分かりながらダラダラ会社に残る。かつての私もそうでした。
一方、“遊ぶために働く”と言い切るアメリカ人。9時ギリギリに出社し遅刻する人がいても“ Never mind ”。5時に帰宅。金曜に有給を取り週末3連休は恒例行事。不満があればどんどん会社を変える。実に羨ましい。アメリカ人にはこのままでいてもらいたい。彼らが日本人のように働き始めたら日本は勝ち残ることはできないからです。ヤル気のない労働者がいてもどうにか成り立つのがアメリカなのです。
日本人にとって勤労は絶対条件。でも無意味な残業体質だけはどうにかして変えたいものです。
テーマを決めて話し合う。これが討論 (debate) の入り口です。テーマの幅が曖昧だったり論点が定まらないと話し合いは空転します。そこで、議論する内容を絞りこみできれば1点に絞る。これをフォーカシング (focusing) といいます。
『朝まで生テレビ』や『党首討論』。論点が噛みあわない。だから“喧嘩腰”になる。これはこれで面白い。でも喧嘩と討論は異なります。
小学生の息子が友達と口論する。そして喧嘩が始まります。先生が仲介し、結論はいつも喧嘩両成敗。これでは不満が募ります。大人も同じようなことをしているのですから笑えます。でもこれが日本の現状です。
日本古来の“譲歩の精神”、“上下関係”、“曖昧さを美徳とする言語体質”や“事を荒立てない体質”等々。これらの性格が議論をする障害になっている点は否定できません。日本語はディベートには不向きだという考え方もあります。
今の日本が抱える問題は深刻です。もっと深刻なのがまっとうな討論をする環境にないことです。問題解決は先延ばしにされ将来への不透明感は増すばかり。このツケを払うのは我々国民です。
2大政党は理想だとは思いますが条件がひとつあります。それは討
私がケネディー大統領の就任演説 (The inaugural address) を暗記したのは17歳の夏、暗記したというより強制的に暗記させたれたという感じでしょうか。
演説の1行目から意味不明、“祝福する”の意味で用いられている observe を“観察する”と思っていたのですから笑えます。唯一、分かったのは“何となくカッコイイ”というケネディーの語り。就任演説の独特の雰囲気と聴衆との一体感、“これがホンモノのスピーチなんだ”。福澤青年とスピーチとの出会いです。
“意味も分からない英語を暗唱しても意味ないじゃん。”これが周囲の反応でした。“ケネディーの英語ばかり聞いていたらケネディーみたいな発音になっちゃうよ”等々、暗唱に打ち込む私に皆、懐疑的だったことを覚えています。
今振り返ると、これがデクラメーション( declamation )教育です。ギリシャ・ローマの以来の弁論術で用いられたトレーニング法、これがデクラメーションなのです。ヨーロッパでは、政治家、神父、牧師、教師、演劇家、声楽家たちの用いていた方法論ですが日本ではこの言葉すら知らない人が多い。
小学校教科書の内容を検討している文部科学省の専門家会議が、国語の朗読・暗唱用教材を増やすことなどを柱とした提言をまとめたようです。明治維新から約140年、日本の教育現場にもようやくデクラメーションが導入されそうです。実に喜ばしい。
“自粛”。よく使う日本語ですが私には難解に響きます。“ 自制、自律、自重、克己、自己批判、遠慮、注意、セルフコントロール”等々、辞書の定義も曖昧で難しい。
夏の全国高校野球大会で一般生徒の応援を“自粛”した桐生第一高校。一部の野球部員が強制わいせつ容疑で逮捕された事件を受けての“自粛”です。それでも吹奏楽部や応援団など約100名の応援は行われるらしい。何を基準に自粛したり自粛しなかったりするのでしょうか?
“厳しい批判を含めて様々な意見をいただいて配慮せざるをえなかった。自粛はやむをえないと思う”(星野栄二教頭)。
他人からの批判を逃れるため、これ以上問題を大きくしないため。そのために“自粛”は存在する。なんと便利な言葉でしょう。
桐生第一高校側にしてみれば参加できるだけてラッキー、でも手放しでは喜べない。これがホンネでしょう。とにかく事を荒立てたくない、事の本質に蓋をし時が経つのを辛抱して待つ。批判の矛先がこれ以上向かないように”自粛“する。
そういえば山本モナさんも自粛していましたね。大丈夫。時が解決してくれるはずです。“自粛”とは所詮そんなもの?
自分のスピーチを録音しプレイバックしてみましょう。さあ、今からアナタは映画監督ですよ。自分の声に耳を傾け映像を思い浮かべてみましょう。どんな映像が浮かびますか? 浮かんだイメージを紙の上に描いてみます。鉛筆でもペンでも何でも OK. 上手に描く必要はありません。とにかく思い浮かんだイメージをできるだけ多く描くのです。
これが TJ が提唱するムービー・テスト (movie test) です。紙の上は隙間がないほどイラストや絵でいっぱいですか? 余白や隙間があればそれは映像化 (visualization) できていない証拠です。アナタが映像化できないスピーチは聞き手も映像化できないのです。
スピーチには映像はありませんが無理やりにでも映像を導き出す。そして聞き手の脳裏をその絵で埋め尽くす。これが一級弁士の仕事です。漫才や落語はなぜ笑えるのか? あたかも映画を観ているかのように“画像”が鮮明に映し出される、だから聞き手は笑うのです。スピーチも同様です。
アナタは映画監督であり主演女優であり主演俳優なのです。さあ、今日からアナタだけの名作にトライしてみましょう。
醜い女性は見たくない。こんなことを言うと女性蔑視だと叱られそうです。人前で顔をさらけ出すのがスピーチ。醜い人はそれだけで NG なのです。
醜い女性が世界平和を語る? 何ともバランスが悪い。醜い女性が美を語る?滑稽です。醜い女性が恋愛を語る? 笑えます。
美人であれば OK なの? そうです。 OK なのです。美人が語れば何でも OK 。美人が語る情報は常に正しく、美人には常に説得され、美人には常にエンターテインされてしまう。これが男の性なのです。
“美人だって色々あるじゃないの。”眉間にシワを寄せて怒っている女性の姿が見えてきそうです。私の発言はハレンチで不謹慎かも知れませんね。どんな人が美人なのでしょうか。
“ウンチをしない女性”。これが美人の定義です。“ばかばかしい!”。たしかにばかばかしい。男はほんとうにバカですね。
男にとって永遠のアイドルは人それぞれ。容姿の好みも十人十色。でも共通する美人の法則、それは“うんちをしない女性”なのです。
醜い女性。それは簡単にウンチが連想できてしまう女性です。お尻の穴がただれパンツにウンチがついている女性。これは醜い。
“こんな変なことを言うのは福澤先生だけですよ。彼氏に聞いてみたけど違うって言ってたわ。”
ああ、なんと愚かな女性たちよ。男はこんな場面で本音は漏らさないのです。これが全世界30億を越える男の正体なのです。
スベスベの肌も大切。シワが少ないのも大切。プロポーションがいいことも大切。でももっと大切なのは“ウンチをしないこと”。
さあ、世の女性諸君。今日からウンチをしない女性を目指しましょう。
大量生産と大量消費。人件費の安い中国でモノをつくりそれを日本で売る。値段を見て納得、 Made in China を見て納得。安いけど脆い (fragile) 、安いけどダサイ、そして安いけど危険 (hazard) 。これまでの中国のイメージです。
脆い・ダサイ・危険。この国の人々がこんなレッテル (label) を剥がし始め品質管理が徹底されたとしたらどうなるか、日本と同じような労働力を持つようになったらどうなるか。
世界の三大発明:羅針盤、火薬、印刷。その元祖が中国であることを忘れてはいけません。本気で勝負できる環境さえ整えば彼らのパワーは強大です。
中国なんかに負けるはずがない”。ほんとうにそうでしょうか。環境問題や民族問題、知的所有権問題に加え歪な政治体制。それゆえ中国の発展には懐疑的 (dubious) な学者も少なくありません。
世界に人脈を張り巡らせている中国人です。想像を絶するスピードと迫力でそれらの問題を解決してしまうかも知れません。そんなオーラが今の中国にはあります。
予想をはるかに超えるパフォーマンスを見せてくれた北京オリンピックの開会式。これを見る限り“上から目線で中国を語る”そんな時代が確実に終わった気がします。
中国の湖南省馬王堆。2000年以上前の女性の遺体が埋葬当時のそのままの状態で見つかります(1972年)。周辺には5トンもの木炭が使われていたそうです。
炭の組織にあるミクロ単位の気泡。これがフィルターの役目をすることはよく知られています。炭1グラムあたりの内部表面積は300平方メートル、これは驚きです。もうひとつの秘密、それは気泡の中に有用微生物が住みついて有害な物質を吸い取り排出してくれること。この吸着力が臭いを取り除き水や土壌などを清浄してくれるのです。
究極の絶品料理。それは季節の食材を炭焼きでいただくこと。枯葉と小枝を皆でかき集めることからすべてが始まります。炭に火をつけるコツ、それは辛抱強く“待つ”こと。日々時間に追いたてられて生活している文明人にとって、この“待つ”作業が最大の敵かも知れません。炭の位置を変えたり突いたりすると炭の神様はヘソを曲げてしまうのです。じっくり“待つ”。炭全体が白くなるまで約30分。網の上15cmのところに手をかざし3秒我慢できる熱さが焼き頃です。
炭で焼いた海の幸に山の幸。“絶品料理を食すれば、その顔そのまま弁士顔”。
美味しい料理をいただいているときの顔がその人の最高の笑顔なのです。
“柔能く剛を制し、剛能く柔を断つ”を真髄とする柔道。単なる勝利至上主義ではなく精神鍛錬を目的とするスポーツです。
柔道がスポーツとしての道を歩む代償として定着した“技あり”や“有効”や“効果”。なかなか勝敗がつきづらい柔道にあってこれら判定基準は一定の役割を果たしてきました。指導、注意、警告も同様です。
せめて準決勝以上は4人の総当り戦にして勝敗はすべて一本勝ちのみにする。こうすることで本来の柔道の醍醐味が楽しめるのではないでしょうか。準決勝で敗退した柔ちゃんが負けていたとは到底思えません。名前は忘れましたが判定で柔ちゃんに勝った相手は試合終了直後、手を叩いて小躍りしていました。これが今の国際柔道の姿なのでしょうか。
柔道の国際化には大いに賛成です。日本発祥のこの柔道をもっともっと世界に広めるためには日本がイニシュアティブ (initiative) をとっていく必要がありそうです。
狩猟民族が生み出した単にカゴの中に玉を入れるスポーツとは次元の異なる柔道。この精神と真髄をもっと世界に発信しようではありませんか。
ネクタイ売り場に行く。女性の店員が近づいてくる。その女性に選んでもらう。そして一言、“センス悪いね”。ちょっぴり意地悪ですがこんな会話を交わしてみるだけでもたくさんのことが学べます。
ムッとする人:“センス悪いね”の言葉にカッとなり心の中はパニック状態なのかな。お客さまの前で素の自分が出てしまう。これでは接客業は勤まりません。
苦笑いする人:このパターンがいちばん多い。心の中ではかなりムカついているのでしょうがその気持をグッと堪えている様子が手に取るように伝わります。苦笑いしつつも会話が途切れないようにできればグー。でもこういう人が少ないのが実情です。
引きつった笑顔の人:笑顔を装いながらも目だけは笑っていない。実はかなり頭に来ているのかも知れません。“好みがありますから”と迫ってくることも。勝ち気な人、自分に自信がある人がこのタイプでしょうか。
反論する人:“そうですか。私はいいと思うんですけど。”ショッピングはディベートではありません。こういう勘違いをしている人も意外に多い。
平常心の人:笑顔・笑顔・笑顔。私の意地悪な質問にもまったく動じる様子もなく淡々と接客ができる人。こういう人なら迷わずネクタイを購入します。何本でも!
超一流の接客ができる人。それは顧客のネガティブな言葉に惑わされることなく会話ができる人です。 ”センス悪いね”が放つネガティブ・オーラをプラスに転じる接客、これができる人が超一流。
凡人はネガティブな言葉に翻弄され、接客をしていることすら忘れてしまうのです。
アメリカの物価に慣れて帰国すると日本の物価や価格に疑問を持つようになります。疑問というより疑念と言ったほうが適切かも知れません。
いちばんの疑問はマンションの価格です。価格は適正なのか? 需要と供給のバランスで売買は成立します。 売れている以上はそれが適正価格なのでしょう。“徒歩5分・20畳強のリビング・ルーム・テラスから見えるレインボーブリッジの夜景”。こんなマンションなら住んでみたい?
マンションが出来上がる前に完売してしまうこともあります。日本独特の現象です。希望者を募って行われる抽選会。まるで宝くじにでも当たったかのように喜ぶ若夫婦の姿。こんな光景もよく見かけます。
投機目的のハワイやマンハッタンの高級コンドミニアム。これらの物件が着工前に完売するのはわかります。確実に値上がりする根拠があるからです。この法則を日本のマンションに当てはめるのは危険です。
新築時にいちばん高く、古くなるにつれて価格が下がる。これが日本の不動産の特徴です。ローンを組んで買ったら最後、儲かるのは業者と銀行、主役であるはずのオーナーの行き場はありません。10年・20年・30年、価格は下がり続けローンが払い終わる頃には誰も見向きもしない、これが日本の現実です。
つい数年前にブームになった品川周辺の高層マンション群。業者間では“品川湾岸戦争”と呼ばれるほどこの地区のマンションが飛ぶように売れたのです。“徒歩5分・20畳強のリビング・ルームから見えるレインボーブリッジの夜景”。
住んでみてわかる高層マンションの落とし穴。朝の通勤時のエレベーター渋滞を誰が想像したでしょうか。値崩れは既に始まっています。
日本のマンションの価格。私は販売価格の半額が適正価格だと思っています。
私にとって最大の悩み。それは頭痛です。いつやってくるかわからない頭の痛み。ひどいときは歩くことすらできない、そんな激痛が私を襲います。
いちばんのお気に入りが大正製薬のナロン錠。これを2錠飲んで横になる。1時間もすれば痛みはひいてきます。自宅はもちろん、カバンの中、財布の中、車の中にもナロン錠を入れておく。痛みがさらにひどいときには額に熱さまシートを張ってからナロン錠を飲む。そして拳骨で額をコンコン叩く。
鎮痛剤で有名なノーシンやバッファリン。私の体質には合わないようです。理由はわかりません。顔の表面に蚊に刺されたような湿疹ができてしまうのです。しかも痛みは治まらない。私の体にはナロン錠がベストなのです。
頭が痛くなりそうな、そんな気配を感じるときがあります。それがあくびです。頭痛の前兆があくびなんて変な体ですね。あくびが頻繁にでる。眠くもないのになぜかあくびがでる。“ナロン錠を飲まなくても大丈夫かな?”などと思っていると案の定、頭痛が始り後悔することになります。あくびが出たらナロン錠の用意する。これが私の日課なのです。
医者に診てもらってもCTスキャンで調べてみても原因は不明です。おそらく遺伝的なものなのでしょう、息子も母も叔父もいとこも皆、頭痛持ちなのです。
母親が子どもを叱る。
“何やってんのよ。勉強しなさい”。
“わかったよ~”。
子どもは勉強しない。
とりあえず言ってはみた。でも意図した通りには子どもは動かない。コミュニケーション・ブレークダウン (communication breakdown) です。
“ちゃんと言ったのにダメなのよね、うちの子は。何回言ってもダメなんだから”。
“すべての責任は話し手にある”。これが大前提。子どもが意図通りに動かない責任は子どもにあるのではなく母親にあるのです。“私に非はない。私はちゃんと言った。だから動かない相手が悪い”。この横柄 (self-centered) な姿勢が人と人の関係をますます悪くするのです。ダメなのは子どもではありません。母親自身なのです。
ダメな人の言葉で子どもを動かすことができるのか? できるはずがありません。話し方を変えてみる? 工夫してみる? おだててみる? 褒めてみる?
こんな”工夫“がますます人間関係を悪くする可能性すらあるのです。言えば言うほど逆効果、しまいには子どもを叩く・いたぶる・いじめる。そして逆切れされついには殺される。ああ、恐ろしや。
ピンポーン。父親が帰ってきました。テレビゲームをしていた子どもは一目散に自分の部屋にダッシュ。そして教科書を開く。
弁力があるのは母親? それとも父親?
テーブルにひじをつく。ナイフを床に落とす。フォークも落とす。ぺチャぺチャ音を立てて食べる。“コラっ”と息子を叱っている私自身、携帯片手に食べ物を口に運んでいます。逆に息子に叱られる始末。ファミレスでの出来事です。
私の父は鬼のように厳しい人でした。とくに厳しかったのが食事のマナー。私自身、食事のマナーは心得ているつもりですし息子にも厳しく教育してきたつもりです。
そんな私たち親子ですが銀座の高級店に行くと人が変わったように”良い子“に変身します。自分が食べる姿を見たことはありませんが、おそらく恥ずかしい食べ方はしていないはず。少なくても足を組んだりテーブルにひじをつくようなことはしてはいません。マナーの良さを褒められることもしばしば。私ではなく息子の話ですが・・・。おそらく私も大丈夫・・・。
お店の雰囲気、客層、オーラ、音楽。それらすべての要素が人の食べ方・マナーに大きな影響を与えている。これは紛れもない事実だと思います。店の環境と自分の態度をシンクロさせ、それを無意識に行っている。毎度・毎度ファミレスで食事をしていると“ファミレス仕様”の食べ方になってしまう?だとすれば恐ろしいことです。でも、ファミレスに罪はありませんね。ごめんなさい・デニーズ様。悪いのは私たち親子なのですから。
ファミレスがダメだとは申しませんが・・・ウムム、悩むところです。
“今日の夕食はどうする?”“何? 牛角だって?” 背筋を伸ばして・さあ・品よく焼肉を食べまひょか。
9秒69。記録に残り記憶にも残るボルドの走りでした。驚いたのはゴール前の“余裕”です。両手を広げた“余裕”の走りからすると記録はまだまだ伸びそう、そんな印象を持ったのは私だけではないと思います。
“余裕”はスピーチにも大切です。“余裕”のある語りは聞いていて実に気持がいい。どうすれば”余裕“のあるスピーチができるのでしょうか?
聞き手の反論にも動じない豊富な情報収集力。どんな質問にも即座に答えることのできる万全の準備。これらが自信を生み出す原動力であり、その自信が“余裕”を生み出してくれるのです。
心の底からそう信じているか、発言内容に誇りと愛情を持っているか。太陽が西から昇ろうとも揺るぎのない信念を持ち続けることができるか。これも”余裕“を生み出してくれる要素です。頑固で結構。この際、独断的でもいい。これくらいの強い気持が大切なのです。
ウソをつかない。これが“余裕”を生みだす最も大切な要素です。ごまかそうとする気持、偽ろうという気持。それを隠そうと思えば思うほど顔の表情から“余裕”は消えてゆくものです。うそ偽りない心の叫びそのままを伝えようとする姿勢。この姿勢がアナタの大きな味方になってくれるはずです。
ボルトの走り同様、“余裕”のあるスピーチは感動と勇気を与え聞き手の心に深く刻みこまれるのです。
“おかわりいかがですか?”
“はい、いただきます。”
ごく普通の会話ですね。
“おかわりいかがですか?”
“まだ、いいよ。”
これもよくある会話です。
違いはどこからくるのでしょうか。レストランであろうが居酒屋であろうが、夜の街であろうが、思わず“はい”と言いたくなる女性がいます。断りたくなる女性もまたいます。
容姿・声色・しぐさ・目線。これらの要素をすべて満たしていても、それでも断りたくなる女性がいます。“タイミング”の悪い女性です。
テーブルでの話が盛り上がっているとき? これはダメ。 私が話をしているとき? これもダメ。なんとく・アトランダムに? これもダメ。
私がおかわりしたいとき。これが正解です。“ああ、福澤先生・超~ワガママぁ”。そうです。男はワガママなのです。
人前ではワガママな様子は封印する。怒ったりはしない。“よい人”を演じようともする。これが男の見栄でありプライドなのです。笑顔で“また来るね”。そして二度と来ない。
男がヘソを曲げてしまう理由。それは“タイミング”だったりするのです。
”ス・イ・マ・セ・ン。おかわりくださ~い”。アレっ。誰も来てくれないの? トホホ。
北京オリンピックに出場する選手に“せいぜい頑張って”と述べた福田首相です。この言葉をどう受け取るか。それは聞き手次第、外野の新聞記者や石原都知事が出る幕ではありません。“せいぜい”が嫌みと思われがちなのは事実かも知れません。かりにそうだとしてもこの言葉を受けとった選手たちが喜んでいればそれでOK、嫌みかそうかの議論は不要なのです。
寡黙なわりには他人の発言に妙に神経質な日本人です。こういう揚げ足取りが日本人をさらに寡黙にさせてしまいます。“こう思われたらどうしよう”、“誤解されたらどうしよう”。
明らかな暴言は例外ですが言葉には敗者復活戦という武器があります。“そういう意図ではありませんでした”と。言い直すなり、誤解を解くチャンスはいくらでもあるはずですが社会がそれを許してくれない。厄介です。言い訳のチャンスも奪われる、開き直れば叩かれる。だから謝罪する。謝罪すると今度は反省していないと疑われる。先導するのはメディアです。
コミュニケーションが行われる際、辞書の定義は重要ではありません。発信する側と受信する側の意図(communicative intent)が合致すれば、それで意思疎通は完了。第三者がガミガミ言うべきことではないのです。
“帝王切開手術中に女性が死亡した事件で執刀した医師を業務上過失致死と医師法違反の容疑で逮捕した。胎盤から子宮がはがれなかったため、大量出血の恐れがあることを認識しながらはさみで無理にはがし女性を死亡させた疑い。また医師法が規定する24時間以内の警察への届けもしなかった疑い”。
2006年2月18日のニュースです。“大野病院医療事件”としてこのニュースは報道されました。人の命が失われたこと。これは事実ですが逮捕の段階ではこの医師はあくまで容疑者 (suspect) です。にもかかわらず民放各ワイドショーでは連日この事件を報道、容疑者を犯人 (criminal) 扱いにしたのです。
事件か事故か。その差はあまりにも大きい。判断を下すのはあくまで裁判所です。これが法治国家のルールのはず。ワイドショーに登場する無責任な“裁判官たち”。彼らは偏った思想でコメントを垂れ流し容疑者を裁いてしまう。逮捕イコール犯罪者。法が裁く前にメディアが裁いてしまうのです。
医療事件を立証するのは難しい。事実これまで多くの医療事件が闇の中に葬り去られてきました。
事実の裏にある真実、真実の裏にある事実。これらを冷静且つ公平に報道する仕事、これがメディアです。倫理、道徳に無頓着で破廉恥な人物がワイドショーの“仮想裁判官”になることに私は大反対です。
“気合と根性だけではダメよね。精神論だけではやっぱり勝てないよ。欧米では専属のトレーナーが選手の体を科学的に分析してやってるわけでしょう。日本は遅れてるよね”。
前日の2試合連続の延長戦、投げたイニング数は合計で21。その上野投手が先発したアメリカとの決勝戦。私同様、不安に思った人も多いはす。
“魂の投球”とはまさしくこのことです。スピードはないもののコーナーを突く丁寧なピッチングで女王アメリカを撃破、日本に最初で最後の金メダルをもたらしてくれました。
箱根の森で観た決勝戦。“体が壊れてしまうゾ? あっ、打たれた! もうダメだ。止めてくれ。もういいから。銀でもいいよ・上野!”。
観ているだけで私の体まで痛くなる、そんな投球でした。それでも勝つ。これは凄い。20秒ルールにも負けず、微妙な判定にも負けず、そして自分にも負けない魂の結晶はもはやスポーツの域を超えた芸術です。
上野投手よ。君は美しかった。世界でいちばん輝いて見える女性。それが君だ。クレオパトラよりも楊貴妃よりも君がいちばん美しい。不可能を可能にしてしまう不屈の精神。そうだ。精神なんだよね。気合と根性を舐めていた私を許してくれ給え!
空気が澄み渡る箱根の朝。日の出とともに鳥たちが一斉に鳴き始めます。朝晩はグーンと気温が下がり秋の気配が漂う箱根です。 新弁塾館1階の吹き抜け上部にある個室に 1 台、そして2階別室に2台、真新しいベッドが搬入されました。2階別室はすべて白で統一。家具も白。壁も白。もちろんベッドも白。“こんなに白ばかりでいいのかなあ?”と思えるくらい白一色で統一されたお部屋です。これで最大7名の宿泊が可能になりました。大人数の場合はこれまで近隣の東急ハーベストクラブを利用していましたが今後は移動することなく合宿、研修を行うことが出来るようになります。
“先生。炭の火付けは上手になりましたか?”宮崎先生のチェックが入ります。“外で食べるのもいいですけどバーベキューをしましょうよ”。私は炭の火付けが下手。これまですべて人任せだったのです。検定好きの宮崎先生が私に命じたミッション、それは“バーキュー検定”に合格することでした。“そんな試験があるの?”。実はアメリカから帰国してから私はずっと火付けの練習をしていたのです。これがなかなか難しい。“生徒さんに笑われますよ”。宮崎先生の激が飛びます。
さあ、明日からバーベキュー・ディナーが始まります。皆さんの前でチャント焼けるかな? 用意した食材は飛騨牛、新潟産の地鶏、餅豚。地元の海の幸に山の幸。 食材で勝負っ!
“先生はどうやって英語脳をつくったんですか?”こんな真剣な質問に戸惑う福澤です。
世間では脳が大流行。書店に並ぶベストセラーには必ずと言っていいほど脳の文字が刻まれています。『英語脳を新たにつくらなければ英語はできるようにならない』。なるほど。こんな本が売れるのだね。
私が英語を勉強するときに右脳と左脳のことを意識した覚えはありません。日本語と英語の周波数の違いを意識したこともありません。英語が好きだった。たから英語に触れる時間が人より長かった。ただそれだけのことです。
世間では暗記を馬鹿にする風潮があります。でも私は暗記をして英語を覚えました。暗記・暗記・暗記。そして暗記した表現を先生にチェックしてもらった。ただこれだけです。
“そんなことしなければもっと英語ができるようになりましたよ”なんていう声が聞こえてきそうです。余計なお世話です。
英語の勉強には人一倍苦労しましたが、後悔などしていません。効率のよい勉強方法などには興味がないからです。苦労したことはむしろよい思い出です。
英語の勉強法に迷いは禁物です。コレだっと思った方法でやってみる。ダメだっと思っても続けてみる。浮気はしない。決めた方法と心中する。それでいい。
英語脳とは無関係に英語ができるようになった人は星の数ほどいるのです。福澤もそのひとりなのですよ。
“思いを伝えるのがどうも苦手のようで・・・いろいろ本を読んでみたのですが・・・なかなかうまくいかないのです。”
こういう悩みを持つ人は多い。“なぜ本を読むのですか?” 私はいつもこんな質問をします。日本人共通の弱点。それは書物に頼ろうとするクセです。もしかしたら日本人だけではないかも知れませんが、とにかく書物に解決の糸口を見出そうとする人が実に多い。それでも苦手意識は消えない。そしてもっと本を読む。
思いを伝える方法は実にシンプルです。それは伝えてみること。ややこしいことは考えないでとにかく口に出してみる。どれだけ伝わるか、相手がどう反応するか等々。それは伝えてみて初めてわかることです。 “誤解されたらどうしよう?” そのときになったら考えればいい。思いを伝えた後の展開は誰にもわからないのです。
どうなるかわからないその後の展開を楽しむクセをつける。このクセが身につくと人生はまわりはじめます。その後の展開が新たな展開を呼び込み、予想もしなかった幸運にもめぐり合えるのです。伝えることで生じるであろう不運や不幸は一時的なこと。そう思えるようになればもう安心です。
伝えることをためらい続けると気持ちが萎え、遂には妄想に縛られるようになります。妄想は新たな妄想を呼び遂には死を迎えることになるのです。
さあさあ、上を向いて伝えてみましょう。そう・そう・その調子。どんな展開が待っているやら・楽しみですね。
パブリックスピーキング (public speaking) を“演説”と翻訳したのは福澤諭吉です。演じて説明する。名訳だと思います。
演劇やミュージカルを観て陶酔する。時には笑い、そしてまた時には泣く。フィクションだとは分かっていてもバーチャルな感動を求めて私たちは劇場に足を運ぶのです。プロの俳優さんや女優さんと比べると我々一般人は演じることが苦手です。
“どう? この洋服似合う?”。男性のアナタはどう反応するか。“ウン・ウン・ウン。タバコ吸ってくるわ。” 演じるどころかこれでは無視したも同然ですね。
反省すべきは男性だけではありませんよ。“これっておじさん臭いかな?”。女性のアナタはどう反応するか。“いいんじゃない。おじさんなんだから。”素っ気無いっ!
舞台俳優とは言わないまでも少しでいいから演じる要素を取り入れる。 チョッピリ大袈裟に褒めてあげる。照れる気持をグイと抑え演じてみる。
演じることはイケナイこと。こう考えている方はいませんか。思いもしないことを言えばそれは嘘。演じることとは嘘をつくことではなく、少しだけ、チョットだけ誇張すること、こう考えれば抵抗感がなくなるのではないでしょうか。
日常生活は実に単調です。単調だからこそ無理やりにでも演じる要素を取り入れる。演じた先のことは考えず、演じることにエネルギーを使う。そうすることで台詞(説明)は自然に後からついてくるのです。
福澤諭吉の翻訳は時代を先読みしたものだった気がします。
我が家の教育方針。それは“ルールを守ること”。
ルールを守る者、尊重する者には温かいスープとパンが与えられます。毛布と本も与えられます。そして自由も与えられます。
ルールを破った者は厳罰に処されることになります。最も重い刑は玄関前での正座です。冷たい石の上で長時間正座させられる。これは辛い。
温情もあります。それはルールを破った場合、発覚する前にすすんで自己申告をすること。そうすれば執行は猶予されるのです。
ルールを決めるのは私。私が我が家の王様なのです。けっして暴君ではありません。民主的で慈悲に満ち溢れた、民に愛される王様です。
元首として私は常に襟を正し、息子である民の模範となるべく日々精進しているつもりです。民の声に耳を傾け、時には共に風呂に入り背中も流す庶民的な王様、それが私です。もちろん演説が上手いと評判です。
さて・さて・隣の国が騒がしいことになっているようです。太田ナニガシという男がルール破ったとか。なにやら歯切れの悪い釈明をしています。ルールをつくった人間が自らルールを破る? これは醜い。民は悲しみ、怒り、生きる術を失い、そして遂には非行に走ることになるのです。
メール1通で婚約を破棄。これを不服として盛岡市の女性が相手の男性に200万円の慰謝料を求めた訴訟の控訴審判決で仙台台高裁は26日男性に30万円の支払いを命じました。
2人は一旦婚約したものの男性は“ひとりの方が気楽。大変勝手なのですがお付き合いはやめさせてください”とのメールを送信、その後、女性が慰謝料請求などを求めるメールを送ると男性は暴力団員との関係をちらつかせるメールを送信。このことから法廷の場で争うことになったようです。
口頭では伝わりそうな言葉でもメールではなかなか伝わらない。かりに内容は伝わったとしても真意(true intent)までは伝わりにくい。“ひとりの方が気楽。お付き合いはやめさせてください”。口頭で言っていれば裁判にはならなかったかも知れません。
さて・さて・日本人が大好きな“頑張る”という言葉。私自身、指導の中でよく使う言葉です。これをメールで使うとどうなるか? “ムカつく”、“突き放された感じがする”、“冷たい印象を持つ”。弁塾の生徒さんの告白です。
私自身、メールで“頑張ってください”は使わないようにしています。でもこの言葉がこれほど嫌われているとは予想外でした。
“対面しているときに頑張れと言われても違和感はありません。むしろ嬉しいかな。でも、メールで頑張れって言われても何か素っ気無い感じがしますよね。そんなときに限ってメールの文章が短かったりすると落ち込むこともあります”。
コミュニケーションの理想は対面。できなければ電話。メールを使うなら即、電話でフォロー。これが鉄則のようです。
枕(pillow)は私にとって大切な安眠ツールです。ベッドがなくてもOK,布団がなくてもOK,でも枕がないと寝ることができません。海外出張にもmy枕を持参したこともある、それくらい枕フェチな私です。
機内ではなかなか寝付けない私ですがそのいちばんの理由が枕。フワフワした柔かい枕が苦手なのです。硬ければ硬いほどいい。去年の冬、酔った私は札幌の豊平川の土手で寝込んでしまいます。小雪が舞い散る中、川岸の石にジャケットを敷いて寝たアノ感覚。今でも忘れることができません。これが人生で最高の枕です。
枕が好きな割には寝付くとすぐ手放すクセがあるらしい。家族の”証言”です。枕が必要なのは寝付くまでの数分間、いや、数秒間かも知れません。朝になると枕はいつもベッドの下に落ちています。
高さも大切です。厚めの枕を2重にする。これがコツ。高くて首が痛いくらい、これでちょうどいいのです。普通の人なら寝付けないような極めて不自然な体勢、これが私には最高に心地がいい。稀に頭が高いまま朝まで眠り続けることがあります。起きると首が痛い! 痛みは数日間続きます。それでも懲りない私です。
枕カバーは白。これは絶対条件です。ホテルなどでピンクやブルーのカバーを見ると血圧が上がります。クロゼットの中を探し白い枕が見つかるとホッとします。温度も大切です。温まったカバーはダメ、ひんやりした感じが大好きなのです。だから夏の枕よりも冬の枕が大好きです。
理想の枕。それは南伊豆下賀茂温泉に行けば見つかります。老舗温泉宿伊古奈で使われている枕です。ここの枕は”絶品”です。私の条件をすべて満たしてくれるのです。“おかみさん・元気ですか~。待ってて~。もうすぐ行くからね”。
いま日本で今いちばん忙しいのは小学生かも知れません。夏休みの宿題は大丈夫かな?
“おい息子よ・宿題はどうだい?”やってないのはアタリマエ。我が家では宿題のプリントを捜すことからすべてが始まります。“プリントはどこ? ドリルは? 自由研究のテーマは?”。やってない息子もダメですが把握していない私はもっとダメかな。“今日中に終わらせよ!” これが息子に与えたミッションです。
午後10時、仕事先から電話を入れてみます。“調子はどうだい?”どうやら半分くらいは終わったらしい。コレが彼の凄いところ。宿題ゴトキで泣きを入れる子どもではありません。この調子でヤレば朝には終わるはず。午前1時過ぎ、私が帰宅するとプリント、ドリル類は既にクリアー。あとは私が丸付けをするだけです。“パパ・まだ自由研究が残っているからやっていい?” そこには黙々と板に釘を打っている息子の姿が。“お前・今年もパチンコ台・つくってるの?”
息子の自由研究はパチンコ台、今年で3年連続です。毎年バージョン・アップし今年の“作品”は盤面に大きなドラえもんの姿が! こんな夜中にトン・トン・トン。近所迷惑ですね。“釘を打ってから調整するのが大変なんだよ?” ビー玉を使って玉の動きを調整する彼の目は真剣そのものです。
早朝5時。ミッション完了。パチンコ台を抱きながら眠りについた息子の額にチュっ。明日から新学期です。