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自分の気持を理解してもらおう、わかってもらおうと意気揚々と話を始める。でも話をすればするほど伝わらない現実が見えてくる。その瞬間に口からこぼれ落ちるコトバ、それが“わかってもらえなくても結構”。
すべての責任は話し手にある。これがスピーチコミュニケーションの大原則です。話し手である自分の側に非があるにもかかわらず一方的に話を打ち切る。自分から切り出した事実は棚に置き、相手の理解力不足を引き合いに出す。それが“わかってもらえなくても結構”です。なんと傲慢なのでしょう。
ネガティブな言葉を使うことが癖になっている人。そういう人は思考回路までもが閉鎖的になってしまいます。言葉と脳はたがいに密接な関係にある。だから投げやりな姿勢や卑屈な精神はダイレクトに口から発せられてしまうのです。自覚症状はありません。厄介ですね。
“人は人格で会話をする”。これが弁塾の考え方です。語彙が豊富な人、知識が豊富な人が即ち教養人だという考え方があります。でもこれは間違いです。言葉が拙くても博学でなくとも琴線に触れる話し方をする人はたくさんいます。
真の教養人は誠意を尽くし真心で説明しようとする人です。人格で話すことが自然体でできる人、そういう人の言葉がいちばん伝わりやすいのです。上から目線で聞き手を制御しようとする人、卑屈な根性が人格になってしまった人。そういう人が好んで使うフレーズ、それが“わかってもらえなくても結構”なのです。
“部長、明日は朝イチから現場に行くことになりまして・・それから例の企画の件は遅れてまして・・・それから仮払いの額の確認ですが・・・それから・・・それから・・・”。
“スマンが後にしてくれたまえ”。
“はい。それから・・・今月で退職したいのですが”。
“それを先に言え!”。
“それからクン・3秒後には人が散る”(ダルマンマの法則)。“それから”をよく使う人のことを私は“それからクン”と呼んでいます。“それから”はどこまで続くかわかりませんね。便利な言葉ですが聞く側には少々苦痛なのです。
スピーチも会話もゲッティング・アテンション(getting attention)が命です。聞き手の関心と興味を逸らさないように配慮する。その最大の敵が“それから”というフレーズです。
話をしているうちに大切なことを思い出すこともあるでしょう。そんなときは“○○さんとお話していて思い出したんですが・・・”。こう切り出すといい。“それから”を連発するよりもずっと効果的です。
気心が知れているから大丈夫? 実はこれがいちばん危険なのです。アナタのまわりの人たちはアナタが“それからクン”だと思っているかも知れませんよ。
以前は“それからクン”だった福澤先生からのチョットしたご忠告でした。
“仕事が面白くない? 何だったらやりがいがあるの? 何? わからない? アンタみたいな社員に給料払ってる会社も迷惑な話だね”。
銀座の母は叱ります。ガンガン叱って時にはポンポン頭もたたきます。相談に来た人たちはそれでも満足して帰っていく。料金まで支払って。
銀座の母がウケるのは相談者たちが信頼感を寄せているからです。占いや手相はあくまでコミュニケーションの道具。主役はあくまで銀座の母その人自身なのです。信頼を寄せているその人物に叱咤激励されたい。だから相談者たちは料金を払って並んでまで足を運ぶのです。
部下の叱り方に悩む経営者は銀座の母から学ぶべきでしょう。 “自分は部下からどれだけ信頼されているか? 約束したことはすべて守っているか? 部下に気を配り安心して仕事に打ち込めるよう創意工夫をしているか? いつも明るく朗らかでいるか? 部下の家族構成や記念日、誕生日をすべて暗記しているか?模範となるべき倫理観と道徳心を持っているか?”
実践できているならば自信を持って部下を叱ってもよろしい。叱り方など十人十色です。ガツーンと叱ってあげればいいのです。迷う必要はありません。
信頼を寄せていない人からは叱られることはもちろん、褒められることすら嬉しくは感じないものです。このコミュニケーションのツボを押えることなしに叱り方を議論しても人を動かすことはできません。経営者たる者、自分の胸に手をあてて考えればどうすべきかは明らかだと思います。自戒の念も込めて・・・。
心の奥底に潜んでいる“ノーマル志向”を取り除く。“普通でありたい・正常でありたい・変人だとは思われたくない・皆と一緒でありたい”。こういう感情をいったん洗い流す、リセットする。そして素のままのアナタ、ありのままのアナタに回帰する。これが名スピーカーの仲間入りを果たす第一歩です。
“Be yourself.”とは”素の自分を表現する“ことです。心の衣を脱ぎ捨てて裸になる。その姿を聴衆の前にさらけ出す。口から出てくる言葉と人格がピッタリ一致する。これが聞く側から見たスピーチの醍醐味なのです。
アナタの真の姿は他人とは違うはず。だからこそ聴衆にはそのことが新鮮に感じられるのです。“金太郎飴製造機”と化した日本社会で生活する。この過程でいつの間にか他人と同じ衣を身に纏うことに慣れ親しみ、遂には“ノーマル志向”に落ち着いてしまうのです。素のアナタは微塵も感じられない姿がそこにはあります。これでは個性溢れるスピーチが出来ないのも当然です。
“ノーマル志向”から解放されるための手段として行っているのが弁塾のブルセッション(bull session)です。正常なもの以外は皆、異常。異常の中の少数派が変態。こういうお仕着せの“ノーマル志向”から脱却する。これが本来のアナタを表現するための素直で正しい方法なのです。
“教養とは何か? どうやって身につけるものなのか?”。この質問には戸惑います。私自身、教養の意味がわからないままこのコトバを使っているからです。これを機会に教養について考えてみることにします。
中身のある文章が書ける人、書いた文章に品がある人、文にリズムと美しさがある人。こういう人も教養人なのではないかと私は思っています。“塾長日記ってドンダケ~”と言われてしまうそうですね。教養のある人の文章は一文一文が短い。このことも申し添えておきたいと思います。
さて・さて・私が思いつくままの教養人とは・・・
自分の魂を自力で治癒できる人。
哲学を茶化さない人。
小学生に全科目教えることのできる人。
心の年輪が顔に表れている人。
スピーチが上手な人。
達筆な人。
母国語を丁寧に使う人。そうしようと試みる人。
母国語以外の言語に堪能な人。
母国に生まれたことを誇りに思える人。
お金の遣い方がキレイな人。
冷静でありながら暖かみがある人。
職業に誇りが持てる人。
そして、
顔に教養と描いてある人。
教養とは実に奥が深いですね。教養ある福澤先生であるよう日々、精進しようと思います。
“気力は眼に出る。生活は顔に出る。教養は声に出る。悲しいかな、声は写真のモチーフにならない”。(土門拳:写真家)
“日本人の多くが自分が最も不得意な分野で勝負している”。かつて宮崎先生がこう述べたことがあります。なるほどたしかにそうかも知れません。
わが子の才能を見つけてあげること、引き出してあげることは親の仕事のひとつです。自分の子どもがどんな分野に向いているのかは日々生活していればわかるもの。わからないまでもヒントは隠されているはずです。かりに見つけることができなくとも、大人になったときには自力で模索することのできる教育だけは授けたい。これが親心というのです。
天賦の才能に目覚めた人は実に美しい。才能に目覚め明るく前向きに生きようとする姿は輝きを増しついにはオーラのような光を発するのです。運命のDNAを知り理想の人生を歩む。なんと素晴らしいことでしょう。こういう人に出会えただけでも私の心は躍ります。昨晩の出来事です。
ホンモノの光を輝かし続けられるかどうか、ここで道を誤る人が多いのもまた真実です。天賦の才能に目覚めた人には堕落という悪魔が牙をむくからです。俗世間を生きなければならないだけに少々厄介です。世間の人たちに喜びや癒しの奉仕ができないまま徐々に光を失っていく。天賦の才能が開花されないまま人生を終えていくのです。
さて、Newtonの別冊“よくわかる天の川銀河系”。こんな専門書をランドセルにしまい込んでいるのが我が家の坊主です。彼にはどんな人生が待ち受けているのでしょうか。 俗世間の誘惑に負けない子に育てるのは私の役目。父を見習うなよ!
“ Safety in numbers ”という英語があります。何事も数の多い方が安全だという意味です。日本語にも“勝ち馬に乗れ”や“寄らば大樹の陰”という諺がありますね。数の論理が有効なのは万国共通のようです。
内閣支持率が20%。支持率低下とはつまりクレディビリティー (credibility) の欠如した状態です。敵意むき出しの聴衆 (hostile audience) の前では弁塾の塾長が登場したとしても手の施しようがありません。麻生さんにタマゴや石を投げたりする人がいないだけ、この国の民衆はおとなしい。
支持率が低下したこの状況では喋るよりもむしろ黙ったほうが勝ちなのです。“政治家に100点は求めないでくださいね”。あらあら・麻生さん。あれだけ喋るなって言ったでしょう。こういう感じでしょうか。国民は政治家に100点以上を求めるのです。
政界再編成に向けて着々と準備がすすめられています。この際、信条、政策などはどうでもいい。後づけの論理がまかり通り未だ正体を現さない“大樹”の元に皆が群がり始めました。“去勢せよ”と思わず叫びたくなるのが今の永田町です。
“福澤さんねえ・キミだって分かるでしょう・選挙でどれだけお金がかかるのか・ねえ・負けるわけにはいかないんだよ”。父の時代からお付き合いのある現役政治家のボヤキです。
理想を掲げて去っていった元政治家がいかに多いことか。現役が皆詐欺師(fraud)だとは申しません。でも彼らの多くが嘘つきであることに間違いはないのです。国民を欺き自分をも欺く。それでも夜の営みだけには精を出す始末。ああ・情けなや。
この際、私は知り得るすべての事実を暴露し議事堂の前で割腹でもしようか。そんな心境にさえなってしまいそうな今の日本です。
日頃は指導をする立場の私が接客される立場に立つ。福澤先生はどんな心境でお酒を飲んでいるのでしょうか。 特別公開しちゃいます。 括弧の中が私のホンネですよ。
①
“背がお高いですね~”。
“ええ”。→“(ああ、またか。他に言うことないのかなあ?)
私の靴を見て“あっ・凄いっ。大きいっ。履いてみていいですか”と叫んだ人がいました。体が大きいとはよく言われますが、初対面で靴を話題にするのはお見事っ。こういうトークは新鮮で◎。
②
“おモテになるでしょう?”
“いやいや・それほどでも”。→(味気ない会話だなあ。俺の返しもイマイチ)
“モテるよ”と言っても白けそうだし“モテない”と言うのも悔しい気がする。だからついつい味気のない返答になってしまう私です。“父子家庭です”というと“凄いっ”との反応が。なぜ凄い? 意味不明な反応に◎
③
“ガイジンさんみたいですね。ハーフですか?”
“純粋な日本人ですよ”。(ほめてるつもりなのかなあ?)
顔立ちがチョッピリ日本人離れしている福澤です。面倒なので最近では“カメハメハ大王の親戚だ”と言うことにしています。真に受ける人も多い! すぐ信じる人に◎。
④
“どんなタイプがお好みなんですか?”
“優しいひとかな”。→(こういう陳腐な質問をしない女性がタイプなんだよなあ)
ウケを狙って“すぐにやらせて口が堅い女”って言ったら皆さんドン引き。会話が中断してしまったことがありました。巧い返しだと思うんだけどなあ。そんな自分に◎。
結局いつも私がひとりで場を盛り上げるのです。皆を笑わせ連れの先輩も楽しませる。帰宅する頃には自分がグッタリしてしまうのです。昼間も喋って夜も喋る。これって天命なのかなあ? ほんとうは私は無口なんだけど。→(誰も信じてくれない)
“I’m sorry. I cannot speak Enlish”って英語で喋ってるじゃないですかね。口にした瞬間に“笑い者”扱いされてしまう禁句中の禁句の英語、それがこの言い方です。
ノーベル賞を受賞するほどの頭脳明晰な方、日本の宝、世界の宝。そんな人でも勉強しなければ語学は上手くなれないのです。
英語は出来なくても大いに結構。モンダイナイ! でも、せめて堂々としていてもらいたい。これが私の正直な感想です。日本人は日本語で喋ればよいのです。臆することはないのです。母国語で堂々とスピーチをすればいいのです。
日本の英語教育メソッドが間違っている。だからそれを正せばよろしい。スピーチ教育、コミュニケーション教育に至ってはその土壌すらないのです。それが日本です。
小学校から大学まで授業はいまだに講義形式、ディベートの指導が出来る教師は一握りです。教師も被害者なのです。教育を受けないまま教師になってしまったからです。教師も不幸、生徒も不幸。これでは日本人が総スピーチ恐怖症になるもの当然です。
スピーチは生まれ持った能力とは一切関係ありません。医学や物理学、経済学、法学を修めるほどの努力も必要ないのです。ギリシアの時代から脈々と受け継がれた理論をしっかり勉強すればスピーチは誰でもしかも短期間に上手になります。
明治の時代に西洋からたくさんの学問が日本に入ってきました。当時の知識人は英語やドイツ語で記された書物を読みあさりそれらの学問を日本に根付かせたのです。
スピーチ・コミュニケーションの文献は99%が英語です。私はただ淡々とその研究を25年行っている、ただそれだけのことなのです。そういうオタクがまだまだ日本には少ないだけの話です。
?
“いやあ・アノ人の話は面白かっかたけど・ラ変活用と下二段活用の間違いが多かったね”。人のスピーチを聞いてこんな指摘をするのは国語学者だけでしょう。皆が注目しているのは文法の間違いではなく話の中身と全体から受ける印象です。
“間違いを恐れずどんどん話す”。母国語であればこれでよろしい。外国語となれば話は別です。大切なビジネス・シーンで発音がダメ、文法もダメ、おまけに表現もダメ。これだとチョイトまずい。“通じればいい”は努力をしたくない人には好都合な考え方かも知れません。
どうにかコトバは伝達した。相手もニコニコしてくれた。もしかして好印象? その結果、相手の反応は“No”。だからガイジンは嫌い? こういう結論になってしまうのです。
発音、文法、表現の未熟さを補ってくれる大切な要素。それは“なんとなくいい感じ”、つまり人柄です。体全体からにじみ出るポジティブな雰囲気がある人はスピーチでも会話でも得をします。損得でコミュニケーションを論じるのは実はタブー。でもこれは紛れもない事実なのです。人柄に愛嬌のよさ、容姿、服装のセンスが加われば鬼に金棒です。
発音、文法、表現がどれもダメ。加えて“通じればいい”と考えている人、開き直っている人は人柄もネガティブに映ってしまうものです。一方、拙いながらもその外国語をコツコツ勉強している人、頑張っている人。こういう人に“なんとなくいい感じ”が加わると印象はガラリと変わります。人柄パワーがもたらす驚きの科学反応です。拙いコトバでもミルミル通じ、遂には聞き手をも動かしてしまうから不思議です。弁力と“なんとなくいい感じ”は密接な関係にあるような気がします。
暴力団の司会をする仕事。これはダメ。関係者の司会は? 孫は? ひ孫は?
こう考えると血縁に暴力団が少しでも絡んでいる人とは永遠に交際ができなくなってしまいます。“司会はお断り申し上げます。アナタ様の18代前のご先祖はその筋の方ですので。”
たまたま知り合った人がたまたまその筋の方の親戚で、式の司会を依頼されたとします。おめでたい結婚式の司会です。結婚する本人はカタギの人物。私ならどうするか? 迷わずその仕事を引き受けます。これはダメなのでしょうか。ならばなぜ?
タレントのせんだみつおさんが暴力団関係者の結婚式の司会を務めこのことがいま話題になっています。“知らなかった”ということで一件落着です。仮に知っていたことを認めたら問題になっていたのでしょうか。司会をしたことには変わりありません。知らなければお咎めなし? ならばなぜ?
“(せんだ)本人の言葉を否定する材料がなかった”とはNHK大阪広報のコメント。なんとも歯切れの悪いコメントです。
歌舞伎町土屋組の息子と私は高校時代の同期です。何年も会っていませんが当時は大の仲良しでした。喧嘩に巻き込まれた彼を助けたお礼に家まで呼ばれご馳走になったことがあります。“歌舞伎町で困ったことがあったらいつでも組の名前を出していいからね”などと言われて気分よくしたことを覚えています。
この種のタブーをタブー視しないで議論する。線引きを明確にする。そんな風土が日本の社会にもあればいいなあ。そんな気がする福澤です。
“ふぎゃ~おぎゃ~”。赤ちゃんはよく泣きます。深夜、朝方ほどよく泣きます。“オッパイ飲んで・ウンチして”。これが赤ちゃんの行動パターン。満たしてあげさえすればまた寝ついてくれます。
お腹が空いているわけでもない。ウンチでもない。なぜ泣いている? こんなこともあるから厄介です。戸惑います。泣いている理由がわからないからです。抱っこして“よ~し・よ~し”。泣き止みません。“ベロベロバー”。もっと泣いてしまいます。さて・さて・困ったことになったぞ。これが父親になったばかりの私の姿です。
意図することが読み取れない。頑張っても頑張っても泣き止む気配はない。我が子の“希望”を叶えてあげることができない状態。これが、コミュケーションブレークダウン(communication breakdown)です。
数日後、私はあることに気づかされました。異常な声で彼が泣くときはいつも首をムズムズさせるのです。見ると首の付け根の部分が赤くハレています。爪でかいてみます。すると息子が泣き止んだのです。しかもニコニコしているではありませんか。“気持いいの?”
皮膚炎だったのですね。息子は“かゆいよ~。パパ~。かいてよ~”と叫んでいたのです。もっと観察してあげればよかった。愛情が足りなかった。“ゴメンネ。こんなパパで”。息子を抱き上げてギュッと抱きしめます。
私が子育てで学んだこと。それは観察することの大切さです。発信することも大切。でももっと大切なことは相手を観察することです。観察すること、観察してあげること。これも愛情です。
皆さんは家族、友人、恋人をしっかりと観察していますか? 私の息子が泣きじゃくっていたように彼らも泣いてはいませんか。大きな愛情でしっかりと観察してあげてください。 派手なクリスマスプレゼントを交換するよりも観察し合うこと。これが大切なのではないでしょうか。
さて、泣いていた息子も今日で11歳です。首の付け根を撫でてあげるとすぐに眠ってしまいました。
“弁塾に興味がある。勉強したい”。こういう方々と私はお会いすることにしています。私が出向くこともあればお越しいただくこともあります。まずは目の前で“生の福澤”をご覧いただく。これが私の方針です。
“他の学校で勉強しましたがダメでした。弁塾は大丈夫でしょうか?”
“大丈夫ですよ”という私の返事を期待していたのだと思います。そんな彼女に私はこう返答します。
“弁塾ならなおさらダメだと思いますよ”。
他の学校を猛烈に批判する。先生も批判しシステムも批判する。でも自分の批判はしない。遂には私に同意を求めるのです。
“アノ学校はダメですよね?”。
その学校がダメかどうか。そうなのかも知れませんし噂以上のことは私も分からないのです。確実に言えること。それは自分を省みる(reflection)ことなく他者の批判に終始する、こういう傲慢(arrogant)な姿勢がダメだということなのです。通ったからダメになったのではなく、通う以前からダメな人だったのです。手厳しいですがこれが真実なのだと思います。こういう趣旨で時間をかけてお話をすることも私の任務だと考えています。稀なケースですが年に数人はこういう方と出会います。傲慢な人から学費をいただくことはできません。成就する保証ができないからです。
“無料で指導させていただきますよ。ご安心ください。箱根にもいらしてください。お友達もお連れくださって大丈夫ですよ”。
私のこんな提案に対し彼女が残した言葉、それは、
“有難うございました。検討させていただきます”。
私がホッと胸をなでおろす瞬間です。
韓国人はイヌを食べる。だから野蛮だ。こういう考え方をエスノセントリズム(ethnocentrism) といいます。自分の生きている世界が正しい。人はこう信じる傾向があります。正しさの執念が他人への嫌悪に向けられることがエスノセントリズムです。
自分はイヌを食べない。それが正しいと思っている。だから食べるアナタは正しくない。こう考えてしまいがちです。違うからイヤ、違うから野蛮、だから排除しよう。こう思う人が多数派になることで不幸が起きてしまうことは過去の歴史からも明らかです。
仕事上のエスノセントリズムも厄介です。“アノ人とは仕事はしたくない”。理由は“嫌いだから”。 なぜ嫌いなのか。 自分の“正しさ”と違う文化をもっているから。こんな調子で嫌悪感が増幅されてしまうのです。
相手の話し方が嫌い。言葉が嫌い。態度が嫌い。容姿が嫌い。そして心が嫌い。嫌いを列挙することにかけて人はみな超一流です。こういう人が仕事上どれだけ皆から必要とされているかはビミョー、でも当の本人はそのことに気づいていないのです。
人を嫌う感情の源は実は相手ではなく自分自身の中に在るんだ。他人のことを勝手に嫌いになってストレスを溜めているのだ。こう気づくと気持がグーンと楽になると思います。このことは実は私自身も体験済みです。“アノ人が嫌いだ”と勝手に追い込み、負のエネルギーを使い果たしてしまう。これこそ人生の無駄遣い。
嫌いだという感情をチョットだけ封印する。チョットだけでいいのです。これだけでアナタのまわりの人がこれまでと違って見えてくるはずです。チョットだけ自己改革をしてみてください。弁塾の門を叩くのはそれからでも大丈夫なのです。
物事が理想通りにいかないと人は悩みます。そしてその原因を探ろうとします。辿り着くひとつの結論、それが“自分は話し方に問題がある”。
人間関係がなかなかうまくいかない。“暗いね”とか“あまり喋らないね”とか“面白みがないね”等と人から言われ続ければ誰でも凹んでしまいます。こう“指南”する人が饒舌(eloquent)であったりすると当の本人は二重に落ち込むのです。
“話し方さえ変えれば明るい未来が待っているのだ”。こう確信して学校の門を叩く。それなりに頑張る。それなりに上手にはなった。そのはず。担当講師にもにも褒められた。そしてどうなった?人間関係は元のまま。仕事関係も元のまま。異性関係も家族関係も何も変わらない。なぜ? こういう状況に悩む人たちと私はこれまで何人も出会ってきました。
“話し方を変えて今の自分から脱皮したい”。コトバの響きはよろしい。でも順番が間違っているのです。“今の自分から脱皮する。暗い自分から脱皮する。喋らない自分から脱皮する。面白みのない自分から脱皮する。そして、その結果、話し方が変わる”。これが理想の姿であり唯一絶対の法則なのです。 このことに気づくか気づかないかでその後の人生は大きく変わるのです。
仕事も熱心。人柄もいい。人間的な魅力に溢れ人望も厚い。問題は話し方だけ。こんな人に私は出会ったことはありません。仕事はダメ。人柄もダメ。魅力にも欠ける。人望もない。でも弁塾に来れば変わりますよ。これは嘘です。こういう嘘は私は大嫌いです。 こういう真実を遠慮なく堂々と言えるかどうか。これが講師の力量だと私は信じています。
話し方と人格が連動していることは2000年前に既にアリストテレスが指摘していることでもあります。人格を磨くことでそれに比例した話し方も身につくものなのです。この原理原則に立脚して話し方の指導、研究をすること。これが私の仕事であり役割でもあるのです。
真っ直ぐに生きる。これが私の流儀です。私は聖人君子ではありませんが自らの志の高さには誇りを頃持っています。妄想であろうとそれでもよし。在るがままの自分を偽装せずに素直に生きること。これが私にはいちばん心地よい(comfortable)のです。
偽装が嫌いなのですから隠すことはしません。それ故、誤解されることも人一倍体験してきました。その都度、自分が発揮できる限りの弁力を駆使し今日まで生きてきたのです。
私の心が折れてしまうのは言葉を尽くすチャンスを奪われたときです。仕事柄、折々の対処法は人一倍心得ているつもりです。弁解や謝罪を乗り切る絶対公式は私の脳に深く刻み込まれています。
問題はそんな対処法すら使うことを許されないとき、目に見えない圧力で口を閉ざされてしまうときです。正直に生きる私が日頃、想定していない魔の瞬間です。
時間が解決するという処世訓も心得ているつもりです。それでも友情や愛情に決定的な亀裂が生じてしまう現実に目を瞑り、通り過ぎるのをひたすら待つ。これは苦痛です。拷問にするら感じる瞬間です。
“自分の生き方は実は間違っているのではないか。先人から言い伝えられた処世術に素直に生きるほうがいいのではないか。もっと大人の所作を身につけるべきなのではないか。言葉には限界があるのではないか”。心の中の蝋燭が消え闇の中へと迷い込んだ私。そんな私を救ってくれたのは実にシンプルな言葉でした。“ほんとうに癒されました。ありがとう”。
言葉の素晴らしさをあらためて体感した福澤です。
“第一声、3秒あとには人が散る”。弁塾のダルマンマの法則のひとつです。
聴衆はアナタを見ています。話をする前からずっとアナタに注目しています。そして話を切り出したその瞬間に一定の判決を下されます。“この人もダメかな?”。
聴衆は身勝手です。ニコニコ顔でも残酷なのです。聴衆はまたせっかちでもあります。すぐに判断を下します。多くはネガティブな判断です。
だからスピーチは出だし(introduction))が大切なのです。聴衆とのファースト・コンタクトに全身全霊を注ぎ込む。これが出来ればスピーチはうまくいきます。
書店に並ぶハウツー本を見ると面白いことが書いてあります。質問をする(rhetorical question)、体験談を話す、数字を示す、名言を引用する(quotation)等々、様々な“テクニック”が紹介されています。
そんな悠長なことをしていてはダメなのです。口を開いて3秒、長くても17秒~18秒の間にアナタは聴衆に捨てられてしまうのです。誰もが振り返るような美貌の持ち主でない限り聴衆はいとも簡単にアナタを見限り、不適切なレッテルを貼るのです。
沈黙の法則がアナタの救世主です。壇上に“到着”する前に口を開く人がいます。これは最悪です。聴衆の聞く準備がまだ整っていないからです。壇上から聴衆の顔をジット見つめるのです。まだ口を開いてはいけません。黙るのです。そのときを待つのです。不必要にニコニコする必要はありません。アナタの素の顔、そのままの顔をさらせばいいのです。背筋を伸ばして壇上に立つ。そして黙る。繰り返しますがこれが大切なのです。これだけのことで会場の人全員がアナタに注目してくれるのです。
黙るが勝ち。これがスピーチを成功させる沈黙の法則です。
不治の病が少女を襲う。
余命わずか数ヶ月。
少女にはバラ色の人生が待ち受けていたはず。
そこに一条の光。
完治する方法があるという。
喜んだ。愛する人たちもみな喜んだ。
しかし、
天はさらなる残酷さを少女に与える。
唯一、適合したのは愛する人の血液だった。
どれだけの血液が少女の体に注ぎ込まれただろうか。
薄れる意識の中、男は最期の瞬間を迎える。
そして、少女も。
雪が降り積もる大樹の傍らに
ふたりの肉体は埋葬された。
寄り添って。しっかりと寄り添って。
詩人にもなれない。画家にもなれない。それでも芸術家ぶってみたくなる時があります。私は少しだけピアノが弾けます。ほんの少しだけです。鍵盤に手を置き、自分が思い浮かべた少女の話をメロディーにしてみよう。ポローン・ポローン。去年の秋からコツコツと柄にもないことに高じてきました。
弁塾期待の若手、Ryu先生のアレンジで出来上がった曲。それが“Eternal Love”。ウェブで公開するのはチョッピリ恥ずかしい? でも皆さんにも聞いていただきたい?顔を赤らめる私です。
“日本はサッカーが弱いですね”。
“そうですね”。
“ところで、なぜそうなのかご存知ですか?”
“いや”。
“自分のところに来たボールにいちいちお辞儀(bow)するからですよ”。
サッカーが話題になっているときに、こういうジョークは宴席を盛り上げてくれます。つい先日の出来事です。“さすが弁塾の塾長!機転がききますな”。
私はジョークの達人ではありませんし笑わせる才能があるわけでもありません。でも、ジョークをその場で思いついたかのように話すのは得意です。
このジョークは私のオリジナルではありません。スポーツ・ジョーク集で“仕込んだ”ものです。披露するタイミングがたまたま先日の会食だっただけなのです。
日本人はジョークが下手だといわれます。でもそれは間違いです。下手なのではなく“仕込む”習慣がないだけなのです。
ジョークやユーモラスな話をその場で(on the spot)で考え、即興で披露する。これでできれば超人です。プロの噺家でも“仕込み”で勝負しているのですから。
“仕込み”を増やす。これがジョークが得意になる唯一の方法です。この点、就寝前にムニュムニュ言いながらジョークを暗記するアメリカ人に軍配があがります。日頃からアンテナを張ることが大切なのです。
“日本人はサッカーが弱いですね”。
“そうですね”。
“ところで、なぜそうなのかご存知ですか?”
“いや”。
“ゴール寸前で写メを撮るからですよ”
↑は私のオリジナルです。面白いですか?
“学校にガイコク人が来た。そして一目散に逃げてしまうのが英語教師だった”。こういう話が冗談では済まされないのが日本です。
英語を教える身でありながら英語が使えない、話せない。おまけに発音も悪い。アレコレと言い訳を連ね、授業を英語で行うことには猛烈に反対するのです。
“文科省は何も分かっていない。学校によってはアルファベットのbとdの区別もできない生徒もおり英語で授業なんて無理”(現役高校教諭コメント/毎日新聞)。
こういう発言を堂々とする教師がいること自体、私には許せません。アルファベットの区別ができないのは教師であるアナタの責任なのですよ。生徒を批判する前に自己批判をしなさい。後付の理由で誤魔化すのはおやめなさい。
bedとdeadを生徒の前で発音してあげる。何度も繰り返す。宿題も与える。CDも聞かせる。こういう“音から入った英語教育”を行えばミルミル英語が上手になるのです。これを怠ったのは文科省と堕落した英語教師です。子どもたちに責任はありません。
現役英語教師にとTOEICの受験を義務づける。個人名を公開するかどうかは別にして学校毎に点数を公開するのもひとつの手だと思います。やろうと思えばすぐに実行可能です。保身のために生徒が犠牲になる。これではもはや教育ではありません。
“時給は? 社会保険は? 勤務時間は? 有給休暇は?” 弁塾の講師採用の問い合わせが増えています。不況(depression)の影響なのでしょうか。
リストラされた理由を語る人。会社が倒産した背景を語る人。日本の政治がダメな理由を語る人。皆さんそれなりの雄弁(eloquence)さを発揮し私を楽しませてくれました。でも、残念ながらどの方も不合格です。
自分の境遇をいくら語ってもダメです。必要なのは教育に対する情熱(zeal)です。情熱さえあれば立派な講師としてデビューする道が開けるはずです。名講師になれるかどうか。それはやってみなければわかりません。“身分と給与を補償していただければ何でもします”。こういう後ろ向きの人は開花しないと思います。言葉は乱暴ですが奴隷オーラが出ている方は弁塾には不向きです。自分で開拓するゾという覇気が大切なのです。
弁塾以外の事業で上げた利益をすべて投入し学費を無料にする。これが私の目標です。単なる夢ではなく実現しようと思っています。こういう考え方を粋に感じ、一緒に日本を盛り上げる。そういう方に弁塾の講師になっていただきたいのです。
延長してでも親身に指導してくれる講師。生徒の目線で一緒に悩んでくれる講師。共に学ぼうとする謙虚さがある講師。こういう講師が“いい先生”です。学歴や実力はあくまでサブ的な要素なのです。
思ったことをコトバに置き換える。この作業がエンコード(encoding)です。脳の中に蓄積された膨大な言語データ。その中から特定の(specific)コトバを選び出し、それらを組み合わせて音声として発する。私たちが行っている発話のプロセスです。
思ったことを素直に表現した。だから思いは伝わったはず。それでも相手の表情や仕草に違和感を覚えることがあります。相手の顔を見る。ジッと見てみる。やはり“何か変だ”。こう感じたら間違いなく“何か変”なのです。
伝わったはずのアナタの思いは実は伝わっていません。アナタが意図したこととは異なる別のメッセージが相手に伝わったのです。このことに気づかないまま会話を続行すると厄介なことになります。
“忙しいんでしょう?”
“それほどでもないけど”。
“忙しかったらわざわざ見送ってくれなくてもいいわよ”。
“えっ。それって見送るなっていうことか?”。
“そんなことないわよ”。
“だってそうだろう。変じゃん。なんでそんなこと言うんだよ”。
“なに怒ってるの”。
“怒ってなんかないよ”。
“怒ってるじゃない”。
“忙しいのにせっかく見送るって言ってるのに”。
“やっぱり忙しいんでしょう”。
“忙しくないって”。
“バカみたい”。
“ふざけるな!”。
喧嘩になってしまいましたね。アナタは忙しいであろう相手を気遣ってみた。でも選んだコトバとタイミングが悪かった。愛情溢れるアナタの真心は歪曲(distorted)して相手に伝わってしまったのです。相手にも非はあります。アナタのコトバの裏に隠された真心(intent)を読み取ることなく“見送るなっていうことか”と発話してしまったからです。これが喧嘩モードのスイッチをオンにしてしまいました。
コトバだけがひとり歩きし始めると実に厄介です。お互いが思いもしない険悪な方向へとどんどん導かれてしまうのです。
スピーチを成功させる絶対法則。それは、
“Thank you for coming”.
“Thank you for listening”.
このふたつのことを肝に銘じること。実にシンプルです。
自分の目の前に話を聞いて下・さ・る人がいらっしゃる。このことに感謝する。心の底から感謝する。アタリマエのようですが出来ていない方が多いのではないでしょうか。
“できれば避けたい。早く終われ。面倒だ。スピーチなんて大嫌い”。なんと傲慢(arrogant)な態度でしょう。相手の方は時間を割いてアナタに会いに来て下さったのです。雨の中、風の中、遠方から出向いてくださったのです。このことに感謝ができない人にスピーチの神様は微笑みません。会話であろうとスピーチであろうとプレゼンであろうと講演会であろうと例外はありません。どんな場合でもこの法則が当てはまるのです。
人の話を聞くにはエネルギーを消費します。下手なスピーチならなおさらです。それでも素直に耳を傾けてみたくなるスピーチがあります。感謝の気持が心に響くスピーチです。
外見は平凡。服装はチグハグ。声には特徴がなく、内容も乏しい。それでも聞き入ってしまうスピーチがあります。感謝の気持を体全体で表現しているスピーチです。
おおぜいの前で緊張してしまうと悩んでいるアナタ。スピーチが苦手だと嘆いているアナタ。頭の中が真っ白になるとボヤいているアナタ。自分のことばかり考えて聞き手への感謝の気持を忘れてはいませんか。
“来て、下さって有難う。聞いて下さって有難う”。心の中でこう唱えていさえすればアナタのスピーチは必ず成功します。感謝の気持はテクニックを凌ぐ(surpass)のです。
話の中身は大切です。当然ですね。もっと大切なのが話し方です。これもお分かりですね。そして最も大切なこと、それは“誰が話すのか”ということ。コミュニケーションにはwhat<how<whoの公式(formula)が成立するのです。
食事をしながら楽しそうに会話をする恋人たち。彼らの会話(what)は他愛のないものです。話し方(how)もごく普通です。それでも互い(who)に大満足することができるのはなぜでしょう? それは互いに好意を抱いているからです。好意を寄せている人の情報は常に正しく、好意を寄せている人には容易に説得され、好意を寄せている人はユーモラスに感じるのです。
尊敬している人の言葉は重く響きます。崇拝してればなおさらです。“しっかりおやりなさい”。こんなありきたりの言葉でもヤル気が湧き出てきます。“大丈夫ですよ”と言われればほんとうに大丈夫な気がしてきます。“出来ますよ”と褒められれば何でもできるような気がしてくるのです。
弁塾の指導では中身(what)を重視します。話し方(how)も重視します。最も重視する要素、それが人格(who)です。人から好かれる人物か。尊敬され、崇拝され得る人生を歩もうとしている人物か。入塾される生徒さんとそのことを先ずお話することにしています。
究極の弁力は無言だと私は思っています。一言も言葉を発することなく相手が歓喜し、行動し、幸福感に酔いしれる。達成不可能であろうこの大目標に向かって一心不乱に邁進する。それを実践する場が弁塾だと考えています。
“浮気がバレたらどうするか?”
① 謝る
②釈明する
③否定する
④黙る
アナタはどれを選びますか?
生徒さんにこんな質問をすることがあります。あくまで指導の一環です。だからから皆さん真剣に回答しようとします。 どれが正解なのでしょうか。
人生の解答はひとつとは限りません。時期、立場、環境が変われば解答も変わります。もしかしたら全てが正解なのかも知れません。日本の教育に毒されている人ほどひとつの解答を求めることが大好きです。
私がこんな愚問をするのには理由があります。生徒さんが考えている様子、発言する様子を観察したいからです。
“選んだ答によって指導法が変わりますよ。真剣に選んでください”。意地悪な福澤先生ですね。どんどんプレッシャーを与えます。“自信はありませんがコレが正解でしょうか?” か細い声が聞こえてきます。
自信がないときは皆、情けない表情をします。自信の無さは目にも表れます。声にも表れます。これがbad speechの典型なのです。
正しいか否か? そんなことを気にしていたら人を動かすことはできません。熟慮に熟慮を重ねて“これが正しいのだ。これが正解なのだ”、こう決断したら自信をもって発話する。反論されたり、打ち負かされることを恐れる心。これが弁を鈍らせる最大の敵なのです。
百科事典から飛び出してきたような人がいます。こういう人の弱点、それは誰も聞いていないことまでも余計に説明し、そういう自分に酔いしれてしまうことでしょうか。“自分は物知りだ。だからついでにコレもアレも教えてやる”。こういうオーラは迷惑ですね(笑)。
このタイプの人のスピーチはもっと迷惑です。知識に始まり知識で終わる。“ご馳走様。お腹一杯です”。上から目線のトークに人の心は動かされない。これが真実だと思います。
知識の量は問題ではありません。学者ではないのですから知識は人並みで結構。人並み以下でもノープロブレムなのです。限られた知識を最大限に活かし切る。自分なりに咀嚼する。そして独自の考えを堂々と発言する。これがスピーチの醍醐味です。
スピーチのナンバーワンになるのではなく、オンリーワンになる。これが大切です。他の誰とも違う角度から主張を展開する。“なるほそそういう考えもあったのか”。こういう印象を抱いてもらえるスピーチが人の心をうつのです。
日常会話も同様です。知識を羅列するだけのトークではすぐに飽きられてしまいます。リップサービスのうなづきに甘えてはいけないのです。少ない知識を自分なりに解釈する、アレンジする。相手の呼吸とシンクロさせながら楽しんでもらうことに専念する。これが上手な会話の極意です。
本年も塾長日記をご覧いただき有難うございます。毎日たくさんのアクセスをいただいています。これからも素の私を素のままに表現する。このコンセプトを忘れずに精進したいと考えております。2009年が皆さまにとって素晴らしい1年になりますように!