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“日記が更新されないとき、それが私の最期”。かつて私は塾長日記の中でこう述べたことがあります。心配した生徒さんからたくさんの連絡をいただきました。私は無事生きております。ご安心ください。そして有難うございます。
指導と会議の合間に仮眠する以外は外出することすらない最近の2週間でした。深夜0時を回ってからのビジネスミーティングは今の私には荷が思かったのか、日記を更新する情熱がほんの少しばかり萎えてしまったというのが実情です。体重は7キロの増。偏ったホテルでの食事が原因です。
新会社を設立して英語産業のM&Aを行う。そんな中にあって株価の暴落は衝撃でした。筆頭の出資者がリタイア、残された我々は決断を迫られます。深い闇の中で目隠しをされた状態で果たして何処をどう進んだらいいのか。これまで歩んだ方向に手探りで進む以外に道はありません。撤退するも地獄、進むも地獄、ならば進もうではないか。
そんな中にあって豊富な人材だけが唯一の救いです。非力な私の“不足分”を補う勇士たち。膨大な資料を枕にしてホテルの床に寝転ぶ者、ソファに腕組みをしながら眠ってしまう者、パソコンの画面に釘付けになる者。私以外のメンバーは24時間、ホテルの一室に篭りきりで作業をすすめています。彼らの不屈の精神には脱帽です。
白けた英会話産業に一石を投じること。これが私たちの目的です。経済活動だけが狙いではありません。荒んだ教育を正し英語を真剣に学ぼうとする人たちが勉強しやすい日本をつくる、これが私たちが自らに課したテーマなのです。
“ The road ahead will be long. Our climb will be steep. We may not get there in one year or even in one term. But, America, I have never been more hopeful than I am tonight that we WILL get there. ” ( 私たちの前には、長い道のりが待ち受けています。目の前の斜面は急です。目指すところに、 1 年ではたどりつかないかもしれない。大統領として 1 期を丸ごと使っても無理かもしれない。しかしアメリカよ、私たちは絶対にたどり着きます。今夜ほどその期待を強くしたことはありません ) オバマ氏有利の報道が過熱する中、私が恐れていたこと。それは“ほんとうに黒人を大統領にしていいのか”というアメリカ人の心の奥底にあるであろう本音、それがマケイン支持の引き金になるのではないかということでした。それはまったくの杞憂でした。
日本の学校を出た人なら誰でも判るようなプレイン (plain) な英語、そんな英語で夢と希望を語りつくしてしまう。これがオバマ氏のスピーチの凄さです。
否定表現を3回繰り返し、そして But 肯定。これが人を鼓舞・激励する基本法則です。オバマ氏の演説は常にこの法則に忠実です。英語独特の強弱のリズム、このことが響きのよさと心地よさを演出しています。音読してみれば一目瞭然です。
圧倒的なクレディビリティー (credibility) を演出する背景にあるスピーチライターの底力、そのエネルギーがアメリカ人一人ひとりの心を揺り動かした勝利演説。就任演説 ( The inaugural address) の執筆作業は既に始まっています。
“迷ったら3日待て。3日後にやろうと思ったらやめてみよ”。亡くなった父の言葉です。矛盾したような教訓 (lesson) ですがこれが私の五臓六腑にグサリと刻まれている言葉です。
人生に迷いはつきものです。迷った挙句“よ~し。やるぞ~”。こう心に決めたら“やめてみよ”。これが父の言葉の不可解なところです。これでは前に進むことはできません。迷ったら一体どうすればいいのか。
父独特の迷いの公式。それはつまり迷いが生じた時点で行動する価値がない、あるいは事がうまくいかない可能性が大だということです。迷いの根源は邪念です。あるときは金銭の問題、あるときは面子や見栄、またあるときは虚栄 (vanity) 、それが邪念の正体です。それらを天秤にかけ数日考えてみる。すると邪念の気持ちはミルミル増幅し“やってみるか”といいう結論に達するのです。そして失敗する。しかもその多くは大失敗 (blunder) であることが多いのです。
迷った時点で“やらない”という選択肢が賢明なのだ。これが父の意図したことだと私は解釈しています。地獄と天国を何度もくぐり抜けた父の人生訓です。
人生には苦労すべき苦労と苦労すべきでない苦労があると思います。苦労すべき苦労は魂を向上させ苦労すべきでない苦労は魂を磨耗させてしまう。
迷いとの付き合い方で人生は確実に変わります。鋭敏な感覚に磨きをかけ邪念を一瞬で打ち砕く。この技術を身につけた賢者のみが幸福の扉を開けることができるのです。
“生身の自分をさらけ出す”。これが私の仕事感です。隠したいことほど包み隠さず公表し克服した経緯を説明します。今となってはそれらは笑い話です。自慢することも私は大好きです。自慢するのも生身の私だからです。短所も長所もまとめてドーンと明らかにする。このことで皆が楽になるのです。私のことが嫌いな人、そういう人は私の周りには集まりません。スタッフはみな生身の私を粋に感じる私のファンなのです。挫けたり悩んだりする暇はありません。
“駆け引きはしない”。これも私の仕事感です。裏工作や根回しはあまり得意ではありません。私を批判する人とは徹底的に戦います。言葉を使ったバトル、ディベートに負けたときはボス猿である私は群れを離れる覚悟です。見栄、プライド、虚栄心、これら陳腐な感情がいかに生産性に乏しいものなのか、時間をかけて説明します。不正は許しません。こういう姿勢が私にとってもスタッフにとってもいちばん心地いいのです。
“能力は問わない”。これも私の仕事感です。ヤル気はあるけど能力は今ひとつ? 私が大好きなタイプです。能力がないように見える人は実は潜在能力が開花していないだけできっかけさえ掴めばブレークすることもあるのです。彼らを鼓舞・激励して立派な仕事人に鍛え上げる。これが経営者としての楽しみのひとつでもあるのです。
仕事感にホンモノもニセモノもありません。自分独自の仕事感を確立する。そしてそれがブレない。この姿勢を生涯貫くことで組織の安寧が保たれるのだと思います。
“いったん始めたことは最後までやり抜く”。これが日本社会の根底に脈々と受け継がれている哲学です。私のDNAにも物事をやり抜くための司令塔が埋め込まれているような気がします。
日本が独特な点、それは途中でやめようとする人への処遇です。反応はきまって冷ややかです。“落伍者”、”負け犬“。これが定番のレッテル(label)です。
いったん箸をつけた食べ物は美味しくなくても完食せよ。これでは辛すぎます。始めてみたら自分には合っていなかった、やってみたら思うようにいかなかった。気が変わった。こう感じる瞬間は誰にもあるはずです。そんな心の叫びに正直に生きることを邪魔する悪魔、それが“落伍者”や“負け犬”等のレッテルです。
集団から抜け出した人への処遇はさらに冷ややかです。実際に裏切り行為に及んだわけでもない。それでも去った人へのレッテルはきまって“裏切り者”なのです。悪口、グチ、暴露のネタは尽きることはありません。“やめた人の悪口はやめよう”と発言するのは少数派、擁護しようものならその人までもが“裏切り者”の烙印を押されてしまうのです。
集団の中にあって単にわがままなだけの人もいます。強烈な個性や能力を発揮する人もいます。その境目は微妙です。だから人心を掌握するのは難しいのです。舵取りをうまく行うのはリーダーの仕事です。来る人は拒まず、去る人は温かくおくり出すことが素直にできるリーダー。これが私にとっての理想です。
八丈島に住んでいる生徒さんが私の知人のまた知人だったり、馴染みの居酒屋の店員さんがコンビニでアルバイトをしているところと遭遇したり、あるいはまた仲たがいして20年会っていない友人とヒルトンのラウンジで隣り合わせだったり等々。人と人はどこかで繋がっている。そんな気がします。理屈を超えた縁と縁とは実に不思議なものです。
“ Accidents will happen when they are least expected. ”という言葉があります。“事故とは最も予期しないときに起る”。出会いや再会も同様、最も予期しないときに起るのでしょうか。
昔一緒に英語を勉強した友人と電話で話をする機会がありました。実に30年ぶりの“再会”です。自信に満ち溢れた彼の声。事業家として大きく成長した映像が私にはハッキリと見えました。
我々は生まれてから死ぬまで宇宙の法則に従って生きているのだと思います。私は特定の宗教の信者ではありませんが、人と人を結びつける偶然の出会いや再会は理屈では到底説明することはできません。
知るべきことを知らされることもあれば、知るべきではないことを知らされることもあります。それらに一喜一憂することなくあるがままを受け入れる。宇宙の法則に素直に従い、同時に邁進・精進することも忘れない。そういう生き方がいちばん幸せなのだ。こう感じる今日この頃です。
ダメな人がミスを犯す。その人の評判はますます低下します。“やっぱりアイツはダメ人間”。一方、優秀な人がミスをするとどうなるか? 意外や意外、高感度がアップするのです。“あんな人もポカをするんだ。何だか親近感が沸いてきたぁ”。
人は高学歴や高収入、ハンサムや美人といった優れた点に惹かれます。その一方で抱く感情、それが反感です。“冷たい感じ”、“冷淡な感じ”、“近づき難い感じ”。クレディビリティー(credibility)が高く信頼されるはずの話し手。そんな話し手がクレディビリティーの高さ故にかえって印象を悪くしてしまうことがあるのです。
“頭脳明晰な人がいかにバカを演じることができるか”。リーダーに求められる絶対条件のひとつです。
劣等感や嫉妬という感情は想像以上に厄介です。事業主であろうと上司であろうと教師であろうと人の上に立つ者はこのことを甘く見てはいけません。自分にも届きそうな感じ、ヤレば出来そうな感じ、そして卑屈に感じたり羨ましいと感じたりさせない雰囲気を演出すること。これがリーダーに求められる真の“能力” です。
“うちの社長はバカだよな。俺たちが頑張らなきゃ潰れちゃうよ”。こんな会話が居酒屋で交わされている会社は安泰です。ほんとにバカならばとっくに倒産しているはずです。
完全無欠の社長が時折見せる可愛らしいミスの数々。こんな頼りなさを演出することも社長業の仕事なのかも知れません。
“もう一度説明していただけますか?” こう言われた経験は誰にでもあると思います。懇切丁寧に説明した。早口ではなくゆっくり説明した。それでも相手は理解してくれなかった。なぜ?
説明が長かった? 具体性に欠けていた? 聞き手に事前の知識が欠けていた? 理由は様々だと思います。でもここで視点を変えてみましょう。見えなかったものが見えてくるはずです。
“もう一度説明していただけますか?”とはつまり相手は聞く耳を持っているということ。ここが見逃せない重要なポイントです。聞き手は“不甲斐ないアナタ”にもう一度だけチャンスを与えてくれているのです。これは有難い。“もう一度云々”とはつまり敗者復活戦、チャンスを生かすも殺すもアナタ次第なのです。
“もう一度説明するの? しっかり聞いてよね”。こういう人は自分が敗者復活戦に進出したことすら分かっていない愚か者なのです。未熟さ故に自分の未熟さに気付いていないのです。
“なるほど・なるほど”。このほうがずっとアブナイのです。“とりあえずアナタ様のお話は聞きました。もうそろそろ終わっていただけますか?” こんなことを口にする聞き手はいませんね。でも心の中ではそう思っているのかも知れないのです。
上手に説明するにはどうしたらいいのでしょうか。“難しいことは分かりやすく。分かりやすいことは面白く”。これが絶対法則です。具体例の引き出しをたくさん持っている。これも大切な要素です。自分の失敗体験も交えながらユーモアたっぷりに話ができれればベストです。
“もう一度説明していただけますか?”。これは失敗したチャンスを成功に導いてくれる聞き手からの贈り物なのです。
良いところも悪いところもまとめて受け入れる。それが師弟関係における弟(てい)の師に対するあるべき姿勢だと私は思っています。
自らの経済的基盤を支えてくれる人。これを師とするなら、その基盤が崩れたときはどうなるのか。
自らの道徳感、倫理観の規範となる人。これを師とするならば、その規範が崩れたときはどうなるのか。
自らの人生の羅針盤となる人。これを師とするならば、それが壊れたときはどうなるのか。
師は完全無欠に映ります。超えられそうで超えられない。“もしかしたら生涯越えることはできないかも知れない”。それでいいのです。閉塞感と虚脱感があるからこそ弟は弟であり続けられるのです。
師とは完全無欠に見えるだけで実は初めから幻想です。だから幻想に一喜一憂する必要もなければ幻滅する必要もない。これが不動心です。
師のよいところだけ頂戴し悪いところは拒絶する。損得勘定で師弟関係を結ぶ。こういう人は幻想と幻滅の世界をさ迷い歩くことになります。アメーバのような人生。これは不幸です。師とは受け入れるべき存在であって選別、識別するものでないのです。
自らが抱いた幻想と直に向かい合い、人生軸は絶対にずれることがない。そして精進、邁進する。この姿勢を貫く覚悟が出来ている弟。私はこういう弟になりたいのです。
私が抱く師弟関係。おそらくこれも幻想です。これでいいのです。幻想だからこそ、これでいいのです。
会合でのことです。“Is it OK?”とみかんジュースをRobertに手渡しします。彼の反応はThat’s just what I wanted”。いつもコーヒーばかり飲んでいる彼のことです。“みかんジュースがちょうど飲みたかった”はずはありません。こういう“気が利いた”言葉がスラスラ口から出てくるかどうか。これが日本人にいちばん求められているコミュニケーション能力だと思います。
“焼肉美味しい?”
“うん。美味しい”。
よくありがちな日本語での会話です。こういう話し方が悪いとは申しません。でも相手の問いかけにオウムのように返答するだけでは何かが物足りないのです。
“焼肉美味しい?”
“舌がネンザしそう”。
こんな過剰に反応する必要はありません。でも馳走している側の立場からすれば”舌がネンザしそうだ“は嬉しく響くはずです。
“大袈裟だなあ”。
“だってほんとうにそうなんですよ”。
“舌がネンザしたら食べられないでしょう”。
“だからね・それくらい美味しいの。わかる?”。
“連れてきてよかったよ”。
“○○さんて色々なお店知ってるんですね。さすが○○さん”。
ここまで言えれば立派です。相手もさぞ喜んでくれることでしょう。聞き手が心地よく感じる言葉。その引き出しの数は多ければ多いほどいいのです。私自身の反省の意味も込めて!
話を聞いてくれる。笑顔で受け止めてくれる。批判や悪口を言われることはない。とにかく気分よくさせてくれる。そして褒めてくれる。これってホストクラブなの?
自分好みの先生に褒められると嬉しいものです。外国人と話しているだけでウキウキしてしまうかも知れません。“ああ・こんな私でも英語が話せてる。先生もうなずいてくれた。気分サイコー”。お酒を飲まなくても酔えちゃう場所、それが昨今の英会話スクールです。
語学の勉強にはある程度の辛抱が必要です。継続も必要です。先生たちがそんな本音を漏らすことはありません。暗い話は胸にしまい込み夢の世界に誘う (lure)。先生の仕事は“お客様”を酔わすこと。“英語ってチョー楽しい”。こういう気分にさせることが英会話の先生のお仕事なのです。
ホストクラブが悪いのではありません。ホストクラブ化した学校、これがダメだと申し上げたいのです。お金をホストにつぎ込んで落ちていく人の姿。甘やかされた英語学校に通い英語が苦手なままでいる生徒の姿。タブって見えるのは私だけでしょうか。
“3ヶ月で日常会話をマスターしたいのですが大丈夫でしょうか”。こういう質問をしてみれば学校のすべてが分かるはずです。“そうですね。努力次第ですね”。こういう返事が返ってくる学校はホストクラブでまず間違いありません。まともに返答していないからです。
日常会話とは何なのか? どういう日常会話なのか? マスターとはどんな意味なのか? 英語の勉強はどうすればいいのか? 発音はどうしたら上手になるのか? こういう核心に触れた内容を懇切丁寧に説明してくれる学校、それがホンモノの学校です。
説明をしてくれる職員がどれくらい上手く英語を話すのか、英語ができる人に同伴してもらうとよいでしょう。ホンモノの学校ならば職員の方でも英語が上手なはずですから。
“お水の仕事って華やかで楽に見えるけど実際にはたいへんなことが多いんですよ”。
“だよなあ。イヤな客でも相手しないといけないもんな”。
“プライベートの時間だって削られますし”。
“わかるわかる。そうだよなあ”。
“深夜に電話してきたり・・・”。
“うわ~”。
“しつこく食事に誘ってきたり”。
“ひどいね”。
“イヤミ言っても気付かないし”。
“鈍感なヤツがいるもんだなあ。オレがガツンと言ってやろうか?”。
“!!!!!。”
男ってどうしてこんなにバカなんでしょうね。福澤先生も男です。↑の男性の気持は手に取るように分かるのです(笑)。そんな自分が・ああ・悲し。
男はね・自分のことを言われてるなんて考えもしないんですよ。この世にぉギャーと生まれた瞬間に鈍感な生き物としての生命活動が始まっちゃうのです。これが男なんです。女性の皆さん、お分かりいただけました?カワイイでしょう。男は生まれつき鈍いんです。
男の“専売特許”は鈍感さだけではありませんよ。勘違い、妄想、自意識過剰、うぬぼれ、お山の大将。これらはみーんな男の特徴なんです。医者であろうが弁護士であろうが宇宙飛行士であろうが大統領であろうが男はみんなバカ。例外はないのです。
バカな男の真骨頂。それは頼まれると断れないことでしょうか。プライドが許さない。だから頼まれたことは意地でも解決しちゃうのです。男のDNAに刻み込まれた何かがビビットと反応してしまうのかな。どんな女性であろうと頼まれると行動してしまう。それが男なのです。
さて・さて↑の会話の続きをお楽しみください。
“ガツンと言ってくれる? お願いしていいかな?”
“もちろんだよ。オレがハッキリ言ってやるよ”。
“電話番号はね×××××”。
“わかった。この番号にかければいいんだね。ぼくに任せて”。
男ってほんとうにバカですね。自分の携帯番号を言われても気付かないんでから。
日本にはチップ(tip)の習慣がありません。そのかわりにあるのがサービス料やご奉仕料。お茶すら運んでくれないお店に支払う“チップ”は最低でも10%。これなら欧米のように額を客の側が決めるほうがいい?
さて、tipとは元々“To insure promptness”(迅速な対応を保証する)の意味です。通常よりもテキパキ働いてくれた人。そういう人へのお礼として私はチップを渡すことにしています。
ヒルトンの正面に車を停めると私はカギをポーターに預けます。地下の駐車場に行くよりも時間がセーブできるからです。そして即仕事に向かいます。ホテルはサービスが売りの公共施設だと私は思っています。チップは欠かせません。
デートときだけはゆっくりメニューを眺める私ですが普段の私は違います。メニューは見ずに食べたいものをどんどん注文します。私が食べたい料理を私が好きな味付けで用意してくれる。こんなレストランが私は大好きです。チップは欠かせません。
弁塾は体力が勝負です。昼間は指導、深夜はデスクワークの毎日です。マッサージは欠かせません。お小遣いの大半はマッサージに消えていきます。西荻窪、目黒、箱根に私の体を“熟知”しているマッサージ師がいます。皆、一生懸命です。混雑していなければ時間を延長してくれます。チップは欠かせません。
チップの習慣がない日本だからこそチップが欠かせない。私の考えです。渡すほうも貰うほうもお互いにハッピーになれるチップなら最高ですよね。
妙なサービス料やご奉仕料はもう御免です。今こそ100円札を復活させ日本をチップ大国にしてみては?
スピーチとは“魂の叫び”をコトバを使って表現することです。オバマ氏のスピーチを聞けばこのことが大袈裟ではないことがわかります。 日本の中学レベルの英語でアメリカの政治、世界の平和について語れてしまう。これぞスピーチの醍醐味です。
日々指導していて感じることがあります。それは明確な主張(claim)を持っていないように見える人が意外に多いということです。“言いたいことはあるんですけれどそれがコトバにはならないんです”。コトバにならないのですから私に伝わらないのは当然です。
“言いたいこと”について生徒さんと話し合ってみます。指導の一貫です。これは避けては通れない重要な指導です。”言いたいこと“の欠片 (fragment)をヒントに生徒さんの脳をツンツン突いてみます。脳を刺激するのです。使うのは目には見えない(invisible)心の針。この針が指導の重要な道具です。この作業を私は”知的尋問“と呼んでいます。
“知的尋問”は数時間続くこともあります。そしてひとつの結論に達します。“言いたいことがなかなかコトバにならない”と悩んでいる人、そういう人は初めから明確な主張を持っていない人だということ。この気づきは生徒さんにとっては衝撃です。思わず泣き出してしまう人もいます。でもその涙はどれもダイアモンドのようにキラキラと輝いています。
自分が動物並みの発想しか出来ていない。自分の“魂の叫び”とはサルがキ・キ・キと叫ぶようなものだ。自分はパンツをはいたサルなのだと気づかされる。その瞬間に人は人として大きく成長するのです。これを放置するとパンツを脱いだホンモノのサルになってしまうのです。
“選ばれましただって? 選んでくれって頼んだ覚えはねえぞ。うちの店は初めっから一流でいっ。青い目のガイジンに日本料理の心意気がわかるはずがねえ”。
江戸っ子気質の大将のボヤキが聞こえてきそうです。ミシュランガイドへの掲載を内定の段階で断ったお店もあったらしい。
お酒はあまり飲まない私ですが食には貪欲です。美味しいという噂を聞けばそのお店に直行します。ネットでの検索も大好きです。
口コミを見て私が思うのは皆さん評価が手厳しいということでしょうか。最後の晩餐は新橋のあら皮と心に誓っている私です。間違いなく世界でいちばん美味しいステーキを提供してくれる別格無比のステーキレストランです。それでも“食べログ”での口コミ評価は5点満点中3.39。私の中では5点満点中の100点です。
飲食店の口コミでよく見かけるコストパフォーマンスという言葉。私にはピンときません。安くて美味しい店ならいつでも好きなときに行けばいいのです。値段が高くて手が届きそうにないお店には夢があります。なかなら行けないからますます行きたくなる。だから競馬の予想にも力が入るのです。もちろん仕事にも(笑)。
誕生日や記念日、クリスマスには雰囲気のよいお店を予め予約します。高級店には勢いで行く。1カ月のお小遣い(allowance)を1度の食事でパーッと使ってしまう。これが私の流儀です。
ミシュランガイド2009。あら皮の評価は今年も☆1つでした。
歌舞伎町の裏通りのそのまた裏通り。酔っ払っているときほどそんな小道に自ら入って行くのが男です。
“この店怪しそうだな”。
“そうだな。行ってみようか”。
“やばくねえ”。
“そうだな”。
“でも。入ってみようか”。
“そうだな。チョッとだけな”。
真っ暗な店内から出てきたのはデップリ太った怪獣のような女性でした。ビール2本と乾き物で計3万5千円也。昔の福澤先生の恥ずかしい姿です。
さて・さて・男性にモテないと悩んでいる女性の共通点。それは”怪しさ“の演出がイマイチなこと。男って生き物は未知のもの、不可解なもの、”怪しい“ものが大好きなのです。明るく美人で品がある。そんな素晴らしい女性であっても”怪しさ“が足りなければ魅力は半減してしまうのです。それが男心の本音です。
女性誌を飾る“モテル女の10箇条”。こんな記事に騙されてはいけません。“男性は恥らう女性が大好き”。“怪しさ”を感じさせない女性が恥らってみたころで男にはただ滑稽に映るだけなのです。
男とは森の奥へ奥へと進んでいく狩人に似ています。いつでも捕獲できる目の前のウサギには興味が沸きません。正体不明の未知の生き物。そんな噂を耳にした瞬間に男の闘争心に火がつきます。
モテル女性は”怪しさ“の演出を心得ています。男を森の奥へ奥へと誘い出す。捕獲を諦めかけたちょうどそのタイミングを見計らって尻尾だけをチラッと見せるのです。この技が実に巧みです。そしてスーっと森へと消えていく。もはや狩人の心は未知の獲物に釘付けです。
“最近調子はどうですか?”
“いや~。忙しくって・忙しくって”。
忙しくもないのについつい口に出してしまうコトバ、それが“忙しい”。忙しくもないのに“忙しブリっ子”を演じてしまう。忙しいと表明するだけでなぜ安心してしまうのです。
私も以前は“忙しい”が口ぐせでした。“忙しいから今日はダメ”、“こんな忙しいときにどうしたの?”、“いま忙しいのにタイミング悪いなあ”。
自分が忙しいことを表明して相手がどう感じるのか、答は歴然です。”忙しい“というコトバを聞いて心地いい人はいないのです。
“頼みたいことがあるんだけど”。こう言われらたらどう返答したらいいのでしょうか。 “忙しい”は問題外。“何ですか?”。これもダメ。相手がなぜアナタにコンタクトしてきたのか、このことを少しだけでも考えればどう返すべきかは分かるはずです。
人から依頼されたその時点でアナタはひとつの覚悟をしなければなりません。それはアナタが選ばれた人物だということです。見ず知らずの人に依頼をすることはありません。相手は熟慮を重ねた上であえてアナタを指名したのです。
“なんでもOK。いつでもOK”。こういう返答には異論もあるかも知れません。でもこれが唯一ベストな返答方法なのです。頼まれたことを相手の意図通りに遂行できるかどうか。それはやってみなければわかりません。出来るかどうかは別として依頼してきた相手と心をシンクロさせる。一緒に解決法を考える。解決できそうな人を紹介する。時間を惜しまず一緒に糸口を探るのです。
アナタが忙しいのは宿命です。人から必要とされることに喜びを感じそしてアナタも成長する。なんと素晴らしいことでしょうか。
我が子にはぜひ弁護士になってもらいたい。これが私の勝手な希望でした。“パパ。ぼくね、天文学者になりたい”。早いもので息子も間もなく11歳。誕生日プレゼントは望遠鏡がほしいらしい。“よっし。いいのを買ってあげよう”。
私の息子は夜空を見るのが大好きです。きっかけはマウイ島ハレアカラの山頂から見た満天の星空でした。難しい天文学の本をおねだりするようになったのもこのことがきっかけです。弁護士にならないのは父としてチョッピリ残念。でもこればかりは仕方がありません。自分の人生は自分で決めるのです。彼には立派な天文学者になってもらいたい。
さて、この世に超能力などあり得ないとは思うのですが、息子にはチョットした才能があるようです。“生まれた瞬間を覚えている”という彼の言葉は信じがたい。それでも息子の不思議な“力”にはしばしば驚かされるのです。頭痛持ちの私ですが彼が私の頭に手をかざすと数分で痛みが去ってしまうのです。こんなことを度々経験するとどうしても偶然とは思えなくなってしまうのです。父子家庭同然の我が家にあって仕事の打ち合わせに彼を同行させることも珍しくありません。“パパ。あの人には気をつけたほうがいいよ”。しばらく経つと“あの人”の正体が判明したりする。こんな経験も一度や二度ではありません。
“パパ。綺麗な星空を見れば世の中のすべての問題は解決するんだよ。空を見れば答が書いてあるよ。悩んでないで・ほらほら・一緒に見ようよ”。
魅力的な女性の写真の背景色だけを赤、白、灰、緑に変え、それぞれ4枚の写真を男性に見せる。男性たちが選んだのは何色の写真?
赤いシャツを着た女性と青いシャツを着た女性の2枚の写真。男性がデートに誘うのはどちらの女性?
女性をデートに誘う場面を想定させる。男性がお金を使う気になったのは何色の女性?
ニューヨーク州Rochester大学のAndrew Elliot教授らが行った実験結果が“The Journal of Personality and Social Psychology”に発表されました。その結果は赤でした。男性から見ると赤いドレスを着た女性がhotに映るようです。“女性が男性に対して抱いてきた印象、つまり男は性の領域ではケモノになるという考えが裏付けられた。女性には思慮深さと洗練さをもって接していると男性は考えようとする。しかし男性の女性に対する好みは少なくともある程度までは原始的であるようだ”。
教授の実験結果はスピーチ理論とも噛み合います。赤とは情熱、エネルギー、興奮、生命をイメージする色。服装に赤の要素を取り入れることはスピーチの常識です。“赤い人”のほうが躍動感を演出できる。だからスピーチでは無理やりにでも赤を取り入れる、これが鉄則なのです。
初対面の人の前でお話するとき私自身も赤を意識します。ネクタイは赤と決めています。赤の無地ではなくても赤の柄・色がデザインされているネクタイを着用するのです。 赤いスーツは持っていませんが(笑)。
弁塾のトレードマークは赤いダルマです。ダルマ自体に深い意味はないのですがおそらく私の無意識下で選んだ色、それが赤なのだと思います。
?"パパ・急な仕事が入っちゃって遊びに行けなくなっちゃった。今度またね。ゴメンネ。こんなパパ許してね”。こんな柔な会話は我が家ではあり得ません。“おい・息子よ。急な面接が入った。終わるまで待て。以上じゃ”。これが日常です。何だか乱暴な親のようですね。自分でもそう思います(笑)。でもこれでいいのです。
“大人の都合で予定は変わるもの”。我が家ではこういう感覚が日常です。大人並みの人権、平等、民主主義を子どもに与える。このことで親子の関係はかえってギクシャクしてしまう気がするのです。
本音で申し上げましょう。私の流儀、それは不条理の意味を息子に叩き込むこと。“世の中は理屈に合わないことで満ち溢れていて、時には自分の思い通りにならないこともある”。親が子どもに詫びるなど言語道断、親の都合が最優先されることを子どもに知らしめるのです。
私が冷たい親かといえばそうではありません。溢れんばかりの愛情を息子に注いでいるという確信があるからです。与える愛情も大切です。もっと大切なもの、それは“示す愛情”だと私は考えています。自分の生き様を見せるのです。いいことも悪いこともそのまま見せる。不条理で苦しむ私の姿も隠さず見せる。傷つきながらも乗り越え生き抜こうとする生の私を息子に見せるのです。これが私流の“示す愛情”です。
子育てに模範解答はないと思います。自分流の哲学で子育てをする。それでいい。お仕着せの子育て論を他人から拝借して自分をごまかす。なんと愚かなことでしょう。
“パパも失敗するんだね。安心したよ”。このことで私の威厳が損なわれることはありません。
目がキラキラと輝いている人は心まで輝いているように見えてきます。こういう人はスピーチで得をします。内容が乏しくてもついつい聞き惚れてしまうのです。そして印象も高まる。目から発する印象は想像以上に大切です。
“旬(しゅん)のネタを瞬(しゅん)時に掴み、春(しゅん)の気持でいざ出陣”。ダルマンマ110の法則のひとつです。話し手自身がワクワク・ドキドキできること。これが春(しゅん)の気持です。こういう気持は聞き手に伝わります。“目で語る”ことができているからです。
“The eye is the mirror of the soul”(目は口ほどにものを言う)。心の中の真実はなかなか隠せないものです。人前で話すのは苦手。でも仕事だから仕方がない。こういう思いでスピーチやプレゼンをしてもなかなかうまくいきません。
目の輝きをアップさせるには夢中になることを見つけること。これがいちばん大切です。人は興味のあることに集中すると瞳孔が開いた状態になるからです。アメリカの心理学者E.H.Hessの実験は有名です。女性のヌード写真を男性に見せると瞳孔が20%も開いたそうです。
私は生徒さんを積極的に食事に誘います。その生徒さんがいちばん好きな食べ物をご馳走するのです。皆目を輝かせてくれます。“美味しい”と生徒さんが叫んだその瞬間の目の輝きを私は自分の脳に刻み込みます。この“データ”が実に役立つのです。
美味しい食事と楽しい会話をしているときのアナタの目はキラキラと輝いているはずです。スピーチを成功させるヒントは実はこんなことろに隠されているのです。
“俺の彼女はブスだけど性格がいいんだ”。こういうことを口にする人がいます。謙遜とはいえ自分が好きになった女性のことをブスを言い切ってしまう。こういう姿勢に私はかなり違和感(curious)を覚えます。
ブスだけど性格がいい? 私には不可解です。“醜いけど性格はいいから許せ?” こういう意味なのでしょうか。醜いというディスアドバンテージを補うだけの性格とはいったいどんな性格なのでしょうか。浮気しても仏様のように接してくれる究極の存在? そんな女性が醜いはずはありません。
“俺の彼女はブスで性格もあまりよくない。でも好きなんだよなあ”。これなら理解できます。人間味溢れるコメントです。でもこういう風に語る人はいません。
自分が惚れた女性のことを“世界一の美女”と言ってしまう。誰にも遠慮することなく堂々と主張する。これが私流です。理由なんでどうでもいい。そもそも絶対的な美の基準などないのです。絶対が存在しない以上自分の判断だけが唯一の基準なのです。
おブスさんかどうかは外見の議論です。性格云々は内面の議論です。同時に論じること自体がナンセンスです。自分に自信がない。だから彼女にも自信が持てない。だからついつい“ブス発言”をして妙に謙虚ぶる。相手の女性に失礼です。これこそ世の中全体の女性を敵に回す女性蔑視だと私は思うのです。
私は“世界一の美女”とデートをします。食事もします。旅行にも行きます。だから私は世界でいちばん幸せな男なのです。
口の形や舌の位置を賢明に勉強する。それでも英語らしいは音がなかなか出せないのはなぜでしょうか。
英語は息の言語です。お腹の底から一気に吹き出すパワーと音量。これが英語的な発声です。ボイス・プロジェクション(voice projection)が命なのです。騒々しい居酒屋でもネイティブ・スピーカーの声は遠くまで届きます。うるさいくらいに感じることもありますね。これが英語の音なのです。
鏡を見ながら口の形を確認する。口の中に割り箸片を入れて練習する。発音記号を勉強する。こういう練習をしても英語らしい音にはなりません。発音の練習以上に発声が大切だからです。
rice(米)とlice(シラミ)の例を引き合いに出し発音の練習をすることがあります。でも実際の会話でriceのことをliceと言ったとしても “米”の意味で通じます。一定の文脈(context)で会話が成立しているからです。発声が悪いとriceともliceとも通じない。この方がもっと切実です。
口の中でモゴモゴ言うことをマンブリング(mumbling)といいます。日本語の発声で英語を話すとこのような発声になってしまうのです。
日本に着たばかりのアメリカ人が日本人の英語を聞いて“日本語は英語に似ているんだね”と言ったジョークがあります。 機内で話されるアテンダントの方々の英語を聞いているうちにこれがジョークではない気がしてきました。
日本人は英語の発音が苦手だといわれます。でもそれはpronunciationの問題というよりも発声の問題であることが圧倒的に多いのです。
“あの女優さん綺麗だよなあ。スタイルもいいし”。
“・・・・・・・・・・”。
“お前もああいう服着てみれば”。
“私はアナタ好みにはなれないの。このままのあたしを好きになってくれないならもう付き合いたくないっ”。
“なに怒ってるんだよ。俺があの女優が好きなのはお前に似てるからだよ”。
“(えっ。ぜんぜん似てないと思うけどなあ)”。
よくありがちな男女の会話。それは“なに怒ってるんだよ”で会話が途切れてしまうパターンです。これで終われば万事休す。気まずい雰囲気がレストラン中を漂うことになるでしょう(笑)。この男性のすごいところは間髪いれずに“お前に似てるからだよ”と言い放ったこと。これはお見事だと思います。ホンネでなければなかなか出てくるコトバではありませんね。
↑の男性が放ったコトバは一種の“殺し文句”だと思います。無意識に自然に口からスーッと出てくるコトバ。これが会話に花を添えてくれるのです。
“こうちゃんだとホッとしちゃって話しすぎちゃった”。こういうことを言われるとやはり嬉しいもの。こうちゃんとは私のことです。食事をしながら私が聞き役にまわる。会話が一息ついたところでの“ホッとしちゃった”の一言はやはり“殺し文句”です。自分がホッとされる存在でいることのできる満足感が体中を駆け巡る、そんな気持になれるコトバです。
世の中には人工的な“殺し文句”に長けている人もいます。これでは人の心を動かすことはできません。予期しないタイミングで交わされる予期しないコトバ。こんなコトバが自然に出てくる人間になりたい。そう感じた今日の夕食会でした。
“英語の問題だけでなく聞かせるっていうペイアテンション(pay attention)を持たせる力もないとダメなんですよ。何人に魅力を感じてもらえるのか、そこが問われると思うんです。要は独創性が重要だと思うんですね”。
渦中の長井秀和さんが帰国しました。彼の活躍があまり報道されていないのは残念です。“ニューヨークで舞台に立ちました”という単なる既成事実をつくるために渡米する芸能人が多い中、彼はガチンコで勝負してきたのです。立派だと思います。
“日本にいるときからネタはつくっていました。こっちの人間が笑うような理屈の通ったネタをですね。アメリカ人はエンターテイメントは自分たちがナンバーワンだと思ってますから。だから絶対こっち来て自分の実力を証明するしかないなって思ってました”。
彼が初めてステージに立ったのは今年の4月20日。韓国人ルームメートのキムチネタはComedy Clubの観客を大いに沸かせていました。英語がどんどん巧くなっていく様子はその後の動画からも明らかです。
“日本はアメリカの影響をすごくうけている国だと思うんです。映画の宣伝といえばジョージ・クルーニーやキャメロン・ィアスが来たりして。それを見てると日本はいつまでもよいお客さんでいるのかなって。それが嫌だったらアメリカに来てアメリカ人を納得させる形で自分の主張を伝えるべきだと。そう考えているうちに、あ、それはアメリカの土壌で勝負出来るようにならないとダメだなと思いまして”。
弁力とお笑いのコラボに興味がある私を大いに刺激してくれた長井秀和さん。彼がコメディー界の野茂秀雄になることは“間違いない?” (Daily Sunから一部引用)
Googleが絵文字の世界標準化に乗り出すことになりました。携帯での絵文字は日本発の文化として世界に浸透しそうです。
“仕事用メールに絵文字はタブー?”。ヤフージャパンがこんな意識調査を行いました。その結果は57%が“とても抵抗がある”、28%が“抵抗がある”と抵抗がある人の率が80%を超えたようです。
対面でのコミュニケーションを100とすると電話では35、メールのみだと3~15だと考えられています。伝達する内容などによって数値は大きく変わりますがメールや文字だけでは意思疎通が制限されることは私たちの体験からも感じていることです。
文字での不足分を補ってくれるのが絵文字です。絵文字もアルファベットも漢字もすべて文字には違いありません。メッセージを伝達するための手段 (means)です。手書きの時代には面倒だった絵文字が携帯で気軽に使えるのであれば普及・浸透するのはもはや時間の問題です。絵文字が浸透するのは理にかなったことなのです。
新しい文化が受け入れられるまでには時間がかかります。絵文字も同様です。仕事とプライベートとを厳格に分けて考える日本人、その日本人がビジネスで絵文字を使うことにはまだまだ抵抗があるのでしょう。
中国の寧夏衛北山地区には驚くほどの数の先史岩画が残されています。初期の岩画は今から2万年前の旧石器時代晩期にさかのぼります。人類は昔から絵文字を使っていたのです。
“地位も名誉もお金も手に入れた。でも私はスピーチだけは苦手なんです。努力はしました。人並み以上、いや、それ以上の努力をしたつもりです。それでもダメなんです。スピーチ以外のことであれば大概のことには自信があります。でもスピーチだけはどうしても巧くならないんです。これまで多くの先生方に指導をしていただきました。言われた通りの勉強を一生懸命したつもりです。継続することの大切さも心得ているつもりです。継続して頑張った。そして、先生、私は今63歳になってしまって、そして、未だにスピーチが苦手なのです”。
こういう切実な声を目の当たりにすると身が引き締まる思いです。
“平凡な才能”に恵まれた私自身、かつては話し下手な少年でした。今でさえ自分が饒舌な人間だとは思っていません。
私がスピーチが上手なのだとすれば、それは単にスピーチ・コミュニケーションの体系を学問的に修め、同時に実践トレーニングを積んだからに他なりません。生まれつき才能に恵まれていたわけではないのです。
大切なのは正しい方法で勉強をすること、この1点に尽きるのです。ホンモノの学問は私たちを裏切ることはありません。これが王道を往く者だけに与えられるご褒美なのです。
日本はスピーチやコミュニケーションの分野の研究が遅れています。日本人が日本人らしく自信を持って生きていくためにはこの学問を避けて通ることはできません。
島根からやってきた63歳の紳士。彼の心の中に新たな光を授けることができた、そんな1日セミナーだったのではないか。私は書斎で今こう考えているところです。