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国語教育の充実に反対する人はいないと思います。要はその内容です。小学校の国語の授業では主に①読む学習②書く作業③漢字の学習が行われています。息子が通う小学校では「書く作業」に力点が置かれているそうです。「読み書き」と「漢字」を重視する伝統(tradition)は昔から変わっていません。
さて、言葉の学習は「読み書き」だけではないはずです。「読み書き」を重視するあまり「話す・聞く」が軽視されているとすれば問題です。時代が求める“コミュニケーション能力”とは「読み・書き」だけではないのです。
英語教育では「聞く・話す」が重視されるのに母国語である日本語教育を語る際には「聞く・話す」があまり議論されていないこと、これが今の国語教育の盲点ではないでしょうか。日本語の「発音」指導も大切だと思います。
母国語だから「話す」のは大丈夫、という発想がいちばん危険なのです。ズシリと重い日本文化を品格のある日本語で表現できること。これが今の日本人に求められている国語教育なのです。
沖縄では“寿命(life span)が延びるくらい美味しいもの”を「ぬちぐすい」と呼びます。苦味のきいたゴーヤ、豚足、豆腐料理など長寿国沖縄の元気の源は沖縄料理にあります。
その沖縄に異変が起きています。男性の平均寿命が1985年までトップだったのが2000年の調査では長寿ベストテンから滑り落ち全国平均を下回りました。65歳の人の平均余命は男性が18.45年、100歳以上の長寿者は10万人あたり39.5人といずれも全国一位です。
沖縄県の平均寿命を引き下げたのは15~45歳の死亡率が全国平均を上回ったことが一因です。米国の占領下で戦後生まれの若い世代(generation)は生活習慣が大きく変化しました。車社会の影響もあるでしょう。学校給食で残されるおかずナンバーワンはゴーヤチャンプルだそうです
厚生労働省の発表では全国の平均寿命は女性85・52歳、男性78・56歳で2000年の調査よりさらに女性0・92歳、男性0・84歳延びています。この数字が幻想であることは沖縄の現状を見れば明らかです。
ドイツ人医学者エルヴィン・ベルツ博士。温泉研究のため箱根・熱海・伊香保を訪問、『日本鉱泉論(明治13年)』を著しました。当時の日本政府に温泉場改革の提案を行った人物です。博士が著した『ベルツの日記』には西洋の文化を無条件に受け入れようとする日本人に対する手厳しい批判が記されています。
“不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。「いや、なにもかもすべて野蛮でした。」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです。」という日本人さえいる。このような現象は急激な変化に対する反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させることなのだ。”
迷走する今の日本。ベルツ博士の言葉がズシリと響きます。(参考資料/ウィキペディア)
競馬をネタに教育をする私に家族が猛反発、息子だけが私を応援してくれます。
発端は競馬です。皐月賞の前哨戦、弥生賞が行われます。私が印をつけた本命、対抗、穴、押さえ1頭の計4頭で三連単を購入すると何通りになるか、この計算を私は息子にさせてみたのです。「正解したら小遣い(allowance)をあげるゾ」、と言うと息子は目を丸くさせ”勉強“に取り組み始めました。
順列・組み合わせはまだ習っていませんがさすが我が息子、正解は24通り。ピンポン!大正解。 弥生賞は武豊のアドマイヤオーラで鉄板だ。 1着を固定するとさて、何通り? 予想倍率は何倍? 1万円儲けるにはいくら賭ければいい? 私の質問にポンポン回答する息子。ついでに弥生の意味まで教え睦月から師走まで全部暗記させてしまいます。結果は? もちろん的中!
日常生活の中から勉強の材料を見出す、これぞ教育の真髄、などと思うのはダメでしょうか。「パパ最高!」と言ってくれるのは息子だけ。
風邪で寝込んだだけで誰でも背中や腰が痛くなるものです。寝たきりの人にとって「床ずれ」は深刻です。
晩年の父は寝たきりでした。昼は母が、夜間は会社の若手が交替で徹夜の介護をしました。肺気腫が悪化していましたがタバコが3度の食事より好きな父です。寝たきりの体勢でプクプク煙をはく父の背中をさするとアー、アーと喜んでくれます。全盛期の父からは考えられない弱弱しい声です。「床ずれ」防止専用のクッションも購入しましたが寝返りをすればそれも役に立ちません。人の手でさするのがやはりいちばんです。
「床ずれ」に悩む寝たきりの患者。全国で12万人にのぼることが明らかになりました(読売新聞)。深刻です。 床ずれは悪化すれば皮膚がただれて組織が壊死することもあるそうです。
墓前で父が吸っていたラークマイルドに火をつけ墓石を“さすって”あげました。「お前は人と人をつなぐ仕事をしなさい」という父の言葉を肝に銘じ、今日も頑張ろうと思います。
“良い人らしさ”を演じ絶大な人気を誇って当選した故美濃部亮吉氏。1967年から1979年の12年3期、私の小学生入学から高校卒業までの期間に渡り都知事をつとめた人物です。温和で品のよい語りが印象的でした。
外環道や首都高速での開発では住民運動の側に立った政策を実施、結果として現在の慢性渋滞(jam)を招きました。老人医療の無料化など福祉(welfare)を充実、支持を得ましたが高度成長期を背景にした政策だという評価もあります。
前宮城県知事の浅野史郎氏。彼も“良い人らしさ”を感じさせる人物です。石原都政に批判的な層の受け皿にはなるでしょう。ただ、東京育ちの私としては他県のモト知事の支持には抵抗があります。
今は“チョイ悪おやじ”の時代。よい人”代表の浅野氏よりも“チョイ悪”代表の石原氏に軍配が上がりそうです。
余計なお世話かも知れませんが大学で学生を相手にするほうが浅野氏にはお似合い?
日本の土壌は酸性です。カルシウム(calcium)分が欧米の30%程度といわれています。飲料水、野菜、穀物、果物等に含まれるカルシウムの量が少ないのです。カルシウムが豊富に含まれている魚を食べていた時代にはそれなりのバランスが取れていましたが今の日本人の食生活ではカルシウム不足は深刻です。
カルシウムといえば骨を連想しますが骨はカルシウムの貯蔵庫に過ぎません。体の中でカルシウムを必要としているのは細胞(cell)自体なのです。血液中のカルシウムが不足すると骨から溶かし出されて細胞に取り入れられるのです。
さて、カルシウム不足がもたらす症状は様々です。ホームで足を踏まれたという理由で乗客をホームに突き落とす事件が起きました。加害者はごく普通の会社員でした。カルシウム不足が背景にあるとすれば事は重大です。
かつて機密費の問題で「忘れてしもうた」と答弁した塩爺。サンデープロジェクトの番組で発言した“証拠”を突きつけられても“忘れた”の一言で押し切ります。忘れてしまったのだから仕方がありません。
またかつて「なぜ同じ答弁を繰り返すのですか」と迫る管直人氏の質問に小泉首相は「だってあなたがいつも同じ質問を繰り返すからじゃないですか」とやり返しました。
塩爺と小泉首相の共通点。それは追い込まれたときのコミュニケーション能力です。ウソが明らかであってもそれ以上の追求をさせない臨機応変な対応。これも立派な弁力です。詭弁と言われようがお構いなし。とにかくその場をしのいで最悪の状況は脱する。塩爺も小泉首相もこの点で秀でていました。
松岡農相の事務所費経費問題。ナントカ還元水の答弁では弁塾でも落第点です。今頃、どこかもホテルの一室で自民・民主の手打ちが行われていないことを望みます。
マイケル・ジャクソンとツーショットが撮れる「プレミアムVIPパーティー」40万円也。賛否はさておき、この種の“高額”なパーティーは今後のビジネスモデルとして注目です。
かつてアラン・ドロンと食事ができるツアーがありました。彼が人気絶頂期だった頃です。ツアーは毎回満員盛況、リピーターが多かったそうです。
私が40万円払うとすれば“タイガー・ウッズと食事ができるツアー“でしょうか。5分でいいからゴルフの指導をしてもらえるならもう少し払ってもいいかも知れません。
映画が全盛期だった時代からテレビの時代へと変わり、今はネット時代です。憧れの人との距離は確実に縮まりつつあります。
団塊世代の財布を当てにした豪華ツアーの広告が目につくこの頃です。私がリタイアーする頃には憧れの人と過ごすツアーが当たり前の時代になっているかも知れません。
お歳暮のルーツは中国。日本では江戸時代にその習慣が始まります。組合をつくっていた当時の武士たちが組頭に贈り物をする習慣として根付いていきました。「『日本歳時記』には「我が力に隋って財物を賑わうべし」と記されています。商人の世界でも1年間の親交を感謝する意味から得意先に贈答を行っていたようです。
明治時代になって官吏が権力を持つようになると官吏に対し高価な贈り物をするようになります。お歳暮は自分の生活の安寧を約束してもらうという性格を帯びるようになったのです。お歳暮に込められていた贈答思想は100年で違った意味を持つように変わっていきました。
「日本は賄賂社会なのか?」と外国人に聞かれたことがあります。誤った認識だとは思いますが見方を変えればお歳暮や贈り物は賄賂なのかも知れません。ビジネス・シーンで“お土産”持参で訪問、相手から”Why”と聞かれた私は「習慣だから受け取れ。受け取らぬならば切腹するゾ」とやり返したことがあります。意外にウケた記憶があります。アメリカでの話です。
間もなく始まる地方選挙。相変わらず“季節はずれのお歳暮”が飛び交うのでしょうか。
連敗した横綱朝青龍を始めて見ました。八百長疑惑のプレッシャー。初日に負けたせいで今日の立会いには“勢い”がありませんでした。負けられない、今日こそ、という意識が過剰になると最強の横綱でさえ平常心を失ってしまうのです。
弁力も同様です。失敗できない、緊張してはいけない、という意識が強い話し手に弁力の神様は微笑むことはありません。上手に話そう、と考えることも平常心を失わせる大きな要因になります。
弁力には“勢い”が必要です。失敗しようが緊張しようが、あるいはまた下手であっても“勢い”さえあれば話し手に吸い込まれていくものです。“勢い”に“魂”が加われば磐石です。
ここで言う“勢い”とは単なる猪突猛進とは異なります。緻密な計算の基に意図された“勢い”、これが一流弁士の真骨頂です。
最強の横綱がこれで終わるはずはありません。この先さらに強くなる朝青龍劇場は今始まったばかりです。
授業中に教室を走り回る子供は“ダメな子”なのでしょうか。だとすれば私の息子は“ダメな子”だということになります。
昔は親の“縛り”がありました。先生の言うことは全て正しいという前提(assumption)で学校教育が成り立っていた時代です。子も親も先生に全幅の信頼を寄せていました。
息子を問い詰めてみると意外な返事が返ってきました。「教え方が下手だから反抗してみただけだよ」。親の“縛り”が解き放たれた今の時代、子供たちは本来の姿を見せ初めてきました。
「そんなことじゃあダメだぞ。先生に失礼だ。先生なんだから教え方が下手なわけがないだろう。立派な大人になれないゾ」とでも言えば済む話ですが、それでは本質は変わりません。
“縛り”をいれることは簡単ですが、この“縛り”が長年、教師を甘やかして(spoil)きたのも事実です。「全ての責任は話し手にある」というコミュニケーション理論の本質から考えれば“ダメな子”の存在は“ダメな教師”の存在を肯定することにもなります。
「走った子供が悪い」ではなく「走らせた私が悪い」と感じてくれる教師が今の時代に求められる教師なのです。
住宅やビルが雑然(messy)と立ち並ぶ日本。美しい国とはいえません。伝統(tradition)と風格があるヨーロッパの町並みと比べてみると違いは歴然です。これまで建築基準法に違反しない限りどんな建築物であろうと“自由”に建てることができた国が日本です。景観よりも経済性が優先(priority)された結果です。
2003年、国土交通省がやっと動き始めます。「美しい国づくり政策大綱を策定、2005年に「景観法」が施行されました。これにより区域内の建築物の変更命令を出すことができるようになりました。景観計画は住民が提案することも可能です。
京都市議会は13日、建築物の高さ制限、屋外看板、点滅電飾広告の前面禁止などを含む議案を可決しました。これにより“美しい京都”への第一歩を踏み出したといえるでしょう。
全国が注目する京都の都づくり計画。不動産価値の低下等、痛みを受ける人たちに納得してもらうという課題も今後の大きなテーマになります。
ホリエモンが私に残してくれた言葉。「東大に合格できるくらいの学力がなければ何をやってもダメ」。私には非常に衝撃的なコメントです。
私の得意科目は数学でした。算数かな。論理思考の背景は数学の学習量だと自分では思っています。今は亡き叔父が週2回、数学の家庭教師をしてくれました。優しく教えてくれる普通の教師ではありませんでした。デキルまで答えを教えてくれない教師なのです。図形や角度の問題などは1時間でも2時間でも考えさせるのです。小学生の私に微分や積分をも真剣に講義する叔父でした。ボロボロの『自由自在』は私の宝物です。
得意の数学と少しばかりの英語力。それ以外、学力らしい学力を身につけないまま私は社会人になってしまいました。国語、歴史、地理、理科、科学等などの不足分は仕事と並行して補う日々が今でも続く私です。
学力偏重で人間性が歪む、というのはメディアが作り出した幻想だと私は思っています。
「目」を見れば人の気持はおおよそ推し量ることができます。言葉で嘘はつけますが「目」は違います。「目」は人の本音を素直に表現するのです。
アイコンタクトをすれば聞き手が好意的な印象(favorable impression)を抱くかといえばそうではありません。“視線の多さ”は相手に圧迫感を与える危険性もあるのです。この点、アイコンタクトに関する大きな誤解があるようです。
ホンモノのコミュニケーターとはアイコンタクトを使って「暖かさ」や「魅力」を表現できる人です。自然体で「目」と「目」の触れ合いを表現する、これが聞き手を魅了する「目」の使い方なのです。大切なのは心温まるアイパワーなのです。機械的な“視線の多さ”だけで人を動かすことはできません。
メルボルンで行われているシンクロナイズドスイミング世界選手権。昨年のアジア大会で中国に破れて以降、「目」で審判の心をつかむ方針だとか。「審判がいれば絶対に見ます」「目を見て審判に気持を当てていきたい」「目線を合わせるのは苦手だった」とは選手の声。
日本選手がアイコンタクトに“開眼”するのは進歩です。自然体で「目」と「目」の触れ合いが表現できれば打倒ロシアの道も開けてくるかも知れません。
間もなく4年生になる息子。難関中学を目指して四谷大塚に通っています。パパと同じ学校がいい!と言う彼ですが早稲田中学から明治学院大学に行くという“異例”のパターンには少々疑問符が?四谷大塚に通い始めたのは小学校1年からです。お休みしても当日のプリント類や資料が郵送されてきます。先生のお手紙や自学自習の方法なども同封されていてビックリ。さすが“老舗”の塾です。大いに学校経営の参考になります。
息子はNOVAにも通っています。こちらは四谷大塚とは大違い。何回休もうがお構いなし。フォローがないどころか「休むなら電話してくれ」と逆切れされる始末。弁塾近くの目黒校に転向しようにも人数が足りず開講されるまで数ヶ月待たされます。その間の授業料の返金もなく連絡もなく謝罪も何もない状況。契約や解約を巡る7000件超の苦情があるのもうなずけます。
弁塾が目指すのはもちろん前者。後者のNOVAを反面教師のサンプルとして学校経営に生かそうと思う私です。
/松本は一心に日本に来て一緒に暮らさないかと持ちかける。日本の父と中国の父。2人の父への愛情に一心の心は揺れる。苦悩の末、一心は「私は日本人の子でも中国の子でもありません。この大地の子です」と答え中国に残ることを決意する。/
『大地の子』の一場面です。私が最も感銘を受けた作品です。一心役を演じた上川隆也さんがドラマ『悪いやつら』で悪役を演じていました。「おい、一心、お前なにやってるんだ」と画面に話しかけてしまうほど『大地の子』でのイメージが強く焼きついています。
山崎豊子。元新聞記者だけあって取材に費やされる労力は尋常ではないはずです。そうでなければこれだけリアルな作品は書けないでしょう。
キムタク主演の『華麗なる一族』も山崎作品です。最終回の瞬間視聴率が44.9を記録、私もその瞬間を共有した一人です。オリジナルは読んでいません。鉄平が実の子だったという結末は残酷過ぎます。作家山崎豊子。天才ですね。
富山から越後湯沢経由で東京に戻ります。新幹線での前面禁煙が今月の18日からスタート、移動がますます辛く(torture)なりました。
移動と寝る直前が唯一、読書ができる時間です。本とラテとタバコがあればそれだけで満足できる私です。私の人生の三点セットです。タバコを吸わないと読むスピードが落ちてしまうからアラ不思議。機内でタバコが吸えた時代は成田からニューヨークまで10冊以上読破できました。最近では持ち込んだ本がカバンの中に入ったまま。1冊読めればいいほうです。
「一級弁士はタバコを吸わない」と息子は言います。君が正しい!
タバコを吸わなければ長生きする? 本当かな? 本当なら、そりゃあ、止めます今すぐに。
私の主治医、駒場東大裏の木島先生談。「タバコは吸ってもいいけど、太っちゃダメ」。なるほど。
タバコを止める。お酒は飲まない。仕事は休みなし。家庭では皆のアッシー。食事は要制限。こんなんで私は長生きできるのでしょうか?
宿場町の旅籠屋や茶屋なので水桶と手ぬぐいを用意、手足の汚れを拭き旅人の疲れを癒す。これが「おしぼりサービス」の始まりです。相手をもてなす習慣として定着している日本独自の文化といえます。
おしぼりはおやじの必需品です。ビニールに入ったおしぼりをパーンと開けるのは団塊世代のおやじ。顔を拭くのはチョイ悪おやじ。首まで拭くのは最低おやじ。大概この3つのパターンに分類できます。私ですか? 私はおしぼりでテーブルを拭くクセがあります。これって何おやじ? 潔癖症っていうわけではありませんが、なぜかテーブルを拭いてしまいます。でもおしぼりの匂いを嗅いだりはしませんよ。
おしぼりでメガネを拭いているおやじも見かけますね。鼻水をかんじゃうおやじ、コレって最低ですが稀にいます。ピカピカの頭をおしぼりで念入りに磨いちゃうおやじもいます。おやじはおしぼりが好きなのです。
日本橋の日本料理屋ざくろ。おしぼりが必要なタイミングを絶対に逃さないカンペキな接客。着物を着た上品なお姉さま方がおしぼり運びに大忙しのお店です。
実の子を捨てる、放置する、投げ捨てる、中には焼き殺す親もいる時代、新しい命を大切にしようとする夫婦には寛大(generous)な判決が下ることを私は期待していました。最高裁が引用したのは62年の判例、「出産した女性が母親」という考え方です。「出産した母親が」ではなく「出産した母親も」という解釈はできないのでしょうか。
裁判官は「立法による速やかな対応が強く望まれる」と言及しました。私が裁判官なら「立法による対応が成されるまで判決を猶予する!」と言及します。これってダメですか? 私は法律の専門家ではありませんが今回の判決には寂しさを感じます。
向井さん、高田さん、気を落とさないで下さい。実子か養子かは言葉の定義(definition)の問題じゃあないですか。あなた方のような親子関係はまだまだ少数派なので日本の法が受け入れないだけですよ。実子と認められる時代が近い将来くるはずです。時代の先端を行っている人に日本はピリ辛な文化圏だと考え、けっして暗い顔はなさらないでください。双子の男の子の邪魔(disturb)はだれもしません。どうかスクスクと育ちますようお祈り申し上げます。
昨年末ワイキキで楽天野村監督夫妻に遭遇して以来、息子が突然楽天ファンに転進です。
“握手”のパワーは偉大です。「坊やのためにも優勝するからな」と“ただ握手”をしてもらっただけ。たったそれだけで巨人は捨てられてしまったのです。生涯巨人ファン。我が家の掟です。でも“握手”パワーには勝てませんでした。
選挙も同様です。“握手”が票(vote)を呼び込みます。下手な演説をするくらいなら黙って“握手”をするほうが得策です。
都知事選の政見放送が始まりましたがレベルの低さに愕然とします。①原稿を読む②元気が無い③目が虚ろ④独りよがり⑤暗い、等々。自分をアピールする最高の場が生かしきれていない候補者(candidate)が多いのは残念。政見放送の肝は『場を感じ、空気を読んで明日語れ(ダルマンマの法則39)』。殺伐とした今の東京。この東京を劇的に変えてくれるリーダーは誰か。夢のある明日を語れる候補者がいなければ現職が断然有利です。
新人候補はこの際、黙って“握手”をしたほうが得策です。
連敗から復活した横綱朝青龍。優勝は逃しましたがずば抜けた精神力に拍手をおくろうと思います。お見事!
トリノで散った安藤美姫。4回転ジャンプは封印(seal)したものの世界選手権で華麗な舞を披露し優勝しました。お見事!
テレビでお馴染みの橋下弁護士。少子化に悩む日本にあって7人目の子供が誕生することがわかりました。お見事!
熾烈なメジャー昇格を狙う桑田真澄投手。絶妙な投球術で奇跡の生き残りを続けています。既にお見事!
競馬のG1高松宮杯。皆にバカにされながらも13番人気のペールギュントを本命にした福澤先生。529倍の超穴馬券を的中、財布(wallet)の外まで諭吉様がはみ出ています。お見事!
今日はお見事だらけの日曜日でした。
アリストテレス(Aristotle)の著作を息子のニコマコスらが編集した『ニコマコス倫理学』。ギリシアで初めて倫理学を確立した名著です。お陰で昨夜はよく眠れた私です。万人の人生の究極の目的として求めているものは「善く生きること」。その実現には優れた倫理観が不可欠だと説いています。
今の日本社会は倫理観に優れている人よりも頭のよい人、才覚に優れた人に目を向けます。善悪ではなく損得が価値判断になっているのです。損得だけで生き方が決まれば“正直者がバカを見る”という考え方が蔓延する(prevail)のも当然です。ライブドア事件に象徴される経済事件の増加は歪んだ(distorted)日本の社会を反映しています。
弁力の定義。それは聞き手を魅了(charm),説得(persuade),鼓舞(inspire)すること。倫理や道徳、法に反するものは弁力ではありません。
弁力の起源はギリシアの時代です。2000年前と比べて文明は進歩しましたが「善く生きる」ことに関しては進歩どころか後退していると考えると憂鬱です。
今年の新入社員たちは“ディトレード型”。「就職した会社とともに育っていこうとは考えず常によい待遇、よい仕事を求めて転職をもくろむ傾向」があるらしい(社会経済生産性本部発表)。団塊の世代の人たちからすれば、さぞかし“不謹慎”に映るかも知れません。
そもそも自分のアイデンティティーを会社に委ねること自体、時代遅れです。自分は自分であり、どこまで行っても自分は自分であり続けるのです。
ひとこと若者に文句を言うならば“転職”ではなく“天職”を探してほしい。そう私は願います。欧米人のようにハッタリだろうが何だろうが自己アピールに精を出し徹底的にキャリアアップを図る姿勢、これが日本に定着するにはもう100年かかると思います。“転職”に惑わされて人生を“転”がる。 これでは今の時代に生まれた意味がありません。自分らしさを追求できるのは“天職”なのです。
ニコニコ顔で通信簿を見せる私の息子。もしかして抜群の成績か?
その期待(expectation)は瞬時に裏切られてしまいました。体育が◎◎。OKです。許しましょう。算数や国語が並でも体育ができる子。素晴らしいですね。でも、なんで福澤先生の息子様の英語が△なの? 三角といえば聞こえはいいですが要するに「かなり遅れている」わけです。 なぜ? コント55号の“なんでこうなるの”というギャグが昔ありましたが、親としてはそんな心境です。りんごがアップルで、梨がピア、きゅうりがキューカンバー等々。ああ、どうでもいですね、こんなことは。息子もパパと同意見のようです。
救いは四谷大塚の全国模試。麻布・開成は無理でも母校の早稲田中学くらいは行けそうな成績です。息子様曰く、学校で力を温存して夜の四谷の授業に備えるそうです。学校は友達と遊ぶ場所。塾は真剣勝負の場所らしいのです。夜の10時過ぎに駅まで迎えにいくと息子様の目は真っ赤に充血し、爛々と輝いています。ああ、これが今の小学生の姿? 息子様は車の中でスヤスヤお休みです。
サラリーマンの哀愁を込めた「スーダラ節」や「無責任シリーズ」で一時代を築いた植木等さん。団塊世代にとって「無責任さ」や「いい加減さ」を是とする価値観(values)は衝撃でした。実直さを美徳としてきた日本人。その意識を打ち破り、まったく新しい美学を世に知らしめたのです。権力や組織の都合で個人の自由が拘束されることを断固として拒否する態度、これは当時のサラリーマンには爽快だったはずです。
徹底的なポジティブ思考を実践しミルミル出世していく主人の公平等(たいらひとし)。高度成長期のサラリーマンに勇気とエネルギーを与えました。「無責任」というキーワードに悲壮感を感じさせないのも植木イズムの真髄です。
/ちょいと一杯のつもりで飲んで/いつのまにやらはしご酒/気が付きゃホームのベンチでゴロリ/これじゃ体にいいわきゃないよ/わかっちゃいるけどやめられない/ホレ、スイスイスーダラダッタ スラスラスイスイスーイ~。合掌。
他人から批判(criticize)されることを恐れてなかなか行動に移せない人。堂々としていない人。回りの様子をキョロキョロ覗いながら行動する人。決断力がない人。こんな人たちが絶対に選んではいけない職業、それは“政治家”だと私は思います。
衆議院赤坂議員宿舎が新築されました。ルールに則って建てられた宿舎です。入居を躊躇う(reluctant)必要はありません。入居資格は23区内に自宅がなく旧宿舎に住んでいること。ただそれだけです。誰が該当(apply)するかは調べればすぐわかります。
4月の入居者は総戸数300戸を下回り3分の1以上は空室になる見通しだとか。批判が強く辞退・保留者が続出しているのが原因です。
たしかに贅沢は敵です。血税を無駄にしてはいけません。ただ、新宿舎が豪華かどうかの基準はどこに置いて考えるのか私には疑問です。セキュリティーも問題です。
自分たちでつくったルールにさえも自信(confident)が持てない人、そんな人たちにニッポンを任せるわけにはいきません。
「会社勤めをするなら我慢することが大切だ。お前は体はデカイが精神がなっていない。我慢して我慢して我慢するんだぞ」。私が学研に就職したときに父が残した言葉です。
「我慢すればどうなるのですか」と私が聞くと父はこう答えてくれました「その先は私にも分からない」と。
夢も希望もない話です。父の力で決まった縁故就職。学研はエリート集団です。明治学院大出が学研の編集部に入れるわけがありません。
父に迷惑をかけてはいけない一心で必死に働きました。上司にも恵まれました。給与も上がりました。サービス残業もしました。休日も返上しました。結婚が決まっていたガールフレンドとも分かれました。
私に残されたもの、それは将来、編集長(chief editor)になれるかもしれないという望みと社長になれるかもしれないという限りなくゼロに近い可能性でした。
なんとケツの穴の小さいことでしょう。当時はバブルの絶頂期。学研本社付近の長原の土地が一坪500万円、年収以上です。30歳を前に私は学研を退社、それから16年の歳月が経ちました。
今日は私の誕生日。46歳。あと100年は頑張ります。