◆塾長日記2010年7月31日
●日本人が目指すべき英語
ホテルでは英語が通じます。
“Your English is nothing but superb.
こういう言い方よりも
“You speak very good English.”
の方が喜ばれます。はにかんだ表情が可憐です。
発音は標準的なアメリカ英語、稀にイギリス英語を話す人もいます。
私が最も驚かされたのは彼らの話しぶりが堂々としているということです。目をそらしたり、言葉に詰まったりする人は見かけませんでした。この点は日本のホテルマンも見習うべきだと感じました。
外国語を使って仕事をすることはそれなりの重圧を伴います。私自身、身にしみて感じていることでもあります。彼らは想定される会話を徹底的に暗唱しています。付け焼刃的な勉強ではなく、時間と労力、お金をかけ、英語を勉強しています。その結果、ホテルでの仕事に従事しているのです。だからこそ自信(confidence)に満ち溢れた英語が話せるのだと思います。
タイでは英語と高収入はリンクしています。だからこそ皆、必死に勉強しているのだと思います。日本人が英語が不得意なのは、英語が必ずしも必要ではないから、英語と収入の関係がそれほど結びついていないからだと思います。能力やメソッド云々の問題ではないような気がします。
浅く広く学ぶと英語の学習はキリがありません。自分の守備範囲を定め、その分野に関しては完ぺきに使いこなす。日本人はこういう英語を目指すべきです。
◆塾長日記2010年7月30日
●声で会話を成立させる?
相手に声を届けることは大切です。たとえ意味が伝わらなくても、感情のかなりの部分は伝わります。
“何となく分かった気になる”。
こういう感覚は一定の役割を果たしてくれます。異国の地で言葉がわからなければ、このことは思いのほか大切です。
いちばんダメなのが黙ることです。困ったときこそ、母国語である日本語を使うのです。相手には日本語は分かりません。それでいいのです。黙ることさえしなければ、口から発した声は確実に相手に届いています。
英語が通じないとき、私は日本語を積極的に使うことにしています。拙いタイ語を使うよりもずっとスムーズです。
私はタイでは不思議なガイジンです。日本語を使いながら合掌するからです。これがけっこうウケています。
“敵ではなく味方なのだ”。
こういうメッセージさえ伝われば会話の大部分は成立します。それには声を発することが大切なのです。
博物館を観光するのであれば、日本語が話せるガイドさんに助けを請うのもいいでしょう。そうでなければ、あえて言葉が通じない環境に身を置いてみる。そのことでタイの人たちがより一層に感じられるはずです。
現地の人たちと接する度に私は新しいタイ語を覚えています。
◆塾長日記2010年7月29日
●アジア英語
英語ができない人に冷たいのがニューヨークの街です。黙っていれば誰も相手にしれません。言葉に詰まったり、口ごもるだけでスルーされてしまうこともあります。トラブルが絡めばなおさらです。先制“口撃”ができないと、それだけで負けてしまいます。“攻めの英語”が必需品なのです。
さて、ここバンコクで面白い体験をしました。チップを上げたときに、
“Oh, I’m sorry.”
と言われたのです。丁寧にお辞儀をしながら合掌しているではありませんか! 私の方が恐縮してしまいました。
アメリカ人ならば、アクションを交え、
“Oh thank you VERY MUCH”
と少しばかり大袈裟に反応する場面だと思います。
タイ人は違います。行為に対して“サンキュー”ではなく“謝罪”で返すのです。メンタリティーが日本と似ていますね。仏教の思想が背景にあるのだと思います。
“和製英語はダメ。
日本的な発想ではダメ”。
たしかにそうだとは思います。英語という言語を身につけるのであれば、英語を母国語とする人たちの文化や習慣に従うことが“正しい”やり方です。
今回のこの些細な体験で私の考え方は少しだけ軌道修正されました。つまり、
“いろんな英語もありかな?”
という感覚です。
これからの時代、非英語圏の人たちが口にする英語がますます増えてくるはずです。日本の学校で教わる英語が唯一“正しい”英語ではない。今、私はこう思い始めていることころです。
◆塾長日記2010年7月28日
●キャビア13万円也!
“We are very sorry, sir.
The only way is you change your cloth in the room.”
私はネクタイをしていましたが、息子の服装がまずかったようです。最上階にある野外レストランでの出来事です。
ドレス・コードが厳しいことは私も承知していましたが、息子は長ズボンを持ち合わせていなかったのです。
ドレス・コードとは言っても要するにスマート・カジュアル(smart casual)です。それほど気取ったものではありません。それでも半ズボンではダメなのです。
ホテル近くで長ズボンを購入し、ようやくレストランに入ることが許されました。
雰囲気はフレンチですがここは地中海料理(the Mediterranean)がメインのようです。
さて、メニューを見て息子がビックリしています。3桁、4桁の数字がズラリと並んでいるからです。私のテンションも一気に上がります。
“パパ、凄いよ”。
見るとキャビアが30グラムで5万バーツ。思わず頭の中で電卓を叩いてしまいます。
“来ちゃいけなかったかな”。
息子が少し焦っています。
“パパ、お金は大丈夫?”
ここで私が怯むわけにはいきません。今こそ父親の威厳を発揮するときなのです(笑)。
“キャビア1グラムだけ頼んでいい?”
これが彼独特のジョークです。
NYとは違った客層、服装、そして言語。少々、高い授業料になりましたが、息子がこういう雰囲気を体感することができたのは収穫だったと思っています。
◆塾長日記2010年7月27日
●街中から象が消えた?
異国の地にやってくると、抱いていたイメージと現実との違いに驚かされることがあります。タイも例外ではありません。
“街中には象が歩いているんだよね”。
去年バンコクに来た友人の話です。なるほどイメージが沸きやすい。古き良き時代の日本を想像すれば街中に象が歩いていても不思議はありませんね。
ところがどうでしょう、バンコクに来て数日が過ぎましたが、象の姿などどこにも見当たりません。ショックです。私の心の中のバンコクとは違うのですから当然です。
ホテルのフロントで聞いてみます。
“Any elephants in the city?”
“Elephants? Oh, you must go to the zoo.”
笑われてしまいました。それでも、私は車が行き交うバンコクの街中で歩く象が見たいのです。動物園の象がとくに見たいわけではありません(笑)。
調べてみると興味深いことが分かりました。
地方出身の像使いたちはバナナなどの餌を環境客に販売し、それを象に与えさせることで収入を得ていました。象が交通事故で負傷したり過酷な環境に置かれていることが以前から問題視されていました。そこでバンコク都庁は条例を制定し象を使って金銭を得る行為を禁止したのです。街中に象がいないのはこのためです。象をつなぎとめておく場所を提供した人にも最高1万バーツの罰金が課されるようです。
タイでは最近、森林伐採が禁止されました。木材を運ぶ仕事をしていた象たちは都会からも追い出されてしまったのです。
◆塾長日記2010年7月26日
●ゴルフ場で見かけた王様
“安いからいいじゃない”
たしかに息子が言う通りです。サイフの中身を気にすることなく生活ができるバンコクで、ケチケチする理由はありません。
ただ、物価が安いことだけを手土産に我が子が日本に帰ること、これには少しばかり抵抗を感じます。
“物価が安い。
だからタイはいい国だ”。
こういう考えをしてもらいたくないのです。この国で暮らす人たちと同じような金銭感覚で、彼らと同じような目線で文化を体感してもらいたいのです。
貨幣価値の違いに直面すると誰もが戸惑います。息子以上に私自身が翻弄されているかもしれません。どうしても目安が必要です。
ファストフードの時給が30バーツであること、大卒の初任給が1万2000バーツ程度であることを私たちは知りました。手狭なアパートメントですら毎月5000バーツ以上、家賃に消えていくことを考えれば、皆、食べていくことだけで精一杯です。
100バーツするスタバのラテを飲んでいるわけにはいかないのです。
ゴルフ場でのことです。キャディーを7人引き連れてプレーする日本人を見かけました。みな若い娘さんです。ゴルフバッグを運ぶ人、日傘を運ぶ人、団扇で扇ぐ人、ペットボトルの水を運ぶ人等など、大名行列のような光景でした。
“安いからいいじゃない”。
果たしてそうなのでしょうか。
◆塾長日記2010年7月25日
●私の中の日本回帰
目を見つめ合う。力強い握手をする。微笑む。こういうアメリカ的な挨拶も私は大好きです。事実、私はこういう環境の中で学び、旅をし、仕事をしてきました。
“You and I are equal.”
という対等の関係が築かれることにも心地よさを感じます。
さて、タイを訪れてみて私の中である変化が起きました。
“ขอบคุณ ครับ/ค่ะ(ありがとう)”
と人々が微笑みながら合掌する姿に新たな自分を発見したのです。
英語という言葉を学ぶ過程で、私は自身を欧米化することに躍起になっていたのではないか。必要以上に無理に振舞っていたのではないか。アメリカ的なものに同化しようとしていたのではないか。こんな気持ちが湧き出てきました。
アメリカに滞在し、アメリカ人と仕事をするときの私は妙に殺気立っていました。本来の私の姿ではなかったのです。
“俺がいちばん居心地がいのは東洋なのだ。
俺はアメリカ人じゃない。
東洋人なのだ”。
実に当たり前のことですが、こういう感覚を呼び覚ましてくれたのが合掌と微笑です。これが観光客をもてなすだけの単なる儀礼でないことは、人々と接してみれば分かることです。ドナルド・マクドナルドでさえ合掌している国、それがタイという国なのです。
“コー・プン・カー!” 合掌。
◆塾長日記2010年7月24日
●スーパータクシー?
ホテルまでの料金を聞いてみます。
“How much will it be?”
“OK, OK”
英語は通じないようですが正規のタクシーなら大丈夫かな。
初乗り運賃(initial charge)は35バーツ、日本円でおよそ95円です。2バーツずつ上がります。高速道路は片側4車線、日本よりも爽快です。
運転手さんの様子が少し気になります。姿勢が妙に不自然なのです。疲れているのかもしれません。
“Are you OK?”
“・・・”
相変わらずの無言です。でも、とりわけ無愛想というわけではありません。単に言葉が分からないだけなのだと思います。
スピードは120キロ。軽快に高速道路をすすんでいます。徐々にスピードが落ちてきました。そしていきなりの蛇行運転です!
“How could you be so idiot?”
思わず叫んでしまいました。ここで事故に巻き込まれるわけにはいきません。
高速道路を降りて一般道に入ります。蛇行運転は治まりましたが、相変わらず運転は危ういまま。
“大丈夫かな?”
息子が不安げに私に話しかけてきたその瞬間です。
“ゴ・ゴ・ゴ~”
車が中央分離帯に乗り上げてしまいます。
“YOU DON’T KNOW WHERE WE ARE GOING!
WE GET OUT!”
私たちはタクシーを降りることに決めました。
すると運転手は、
“We will soon arrive.”
と、流暢な英語で話してくるではありません。彼は英語が使えたのです!!!。
数分でホテルに到着、チップを渡し、私たちは最後の会話を交わしました。
“You must be tired. Go back and sleep.”
“Yes, Yes”
ホテルで待ち構えていた別の乗客を乗せて、彼は猛スピードで街中に消えていったのでした。
◆塾長日記2010年7月23日
●弱気なタイの白タク
心臓の手術を行ってから3ヶ月が過ぎました。バイアスピリンを毎朝飲まなければならないこと以外、何不自由なく生活ができています。医学の進歩には心の底から感謝しています。
さて、私は今、台北からバンコクに向かっています。例年ならばニューヨークでTJ塾長らと合流し、各種イベントを開催している夏のこの時期です。今年ばかりは夏休みを取ることにしました。
“We can do without you.”
そのまま訳せば、
“あなたがいなくでも大丈夫ですよ”。
英語とは随分とストレートな言語です(笑)。これも私の体を気遣ってくれる彼らの愛情だと解釈しています。
バンコクに滞在するのには理由があります。タイ古式のマッサージが心臓のリハビリには好都合なこと、そしてもうひとつはプロゴルファーを目指す息子が思う存分トレーニングをする環境がタイにはあることです。
深夜の1時15分、スワンナプーム国際空港に到着しました。タイ語がほとんど分からない私たちです。
“タクシーはいかがですか?”
白タクの営業なのでしょう。実に流暢な日本語で私たちを手招きします。若い女性でした。
“Are you on duty or something?”
私が大きな声で尋ねると、
“違いま・・・でふ・・・まふ。”
と、怪しげな日本語が返ってきました(笑)。
まずは白タク撃退に成功です。
正規の乗り場からタクシーに乗り込み、私たちは市内に向かいました。(つづく)
◆塾長日記2010年7月22日
●再会に乾杯!
結婚式に招かれて以来、何年も会っていない台湾の友人と再会です。
台湾人にとって乾杯は大切な儀式です。
“とりあえずビールで乾杯しましょう”
という日本のノリとは意味合いが異なります。乾杯とは人と人を結びつける架け橋のようなものなのです。
“再会できたことに乾杯”。
こうやって文字通り、“杯(ハイ)を乾(カワカス)”のです。
注がれたお酒を飲み干す習慣は日本にもあります。違うのは乾杯の回数と飲み干し方です。
“今日の幸せに乾杯!
明日の幸せに乾杯!
私たちの未来に乾杯!”
乾杯をする度に一気に飲み干すのです。
お酒だけではありません。少しでも箸が止まれば、
“孝嗣さん、今日はあまり食べてないですね”。
と言われる始末。そしてまた、
“おたがいの食欲に乾杯”。
乾杯はどこまでも続きます。
私があまりお酒に強くないことは友人も承知しています。これでもかなり手加減をしているのだと思います。
“参りました。私の完敗(かんぱい)です”。
私がこう言うと、友人は、
“ア・ハ・ハ。面白くないダジャレに乾杯!”
台北の東の空に太陽が昇り始めました。
◆塾長日記2010年7月21日
●心に響く接客
若い頃は飛行に乗るだけでウキウキしていたもの。少しばかり荒っぽい接客をされても、食事のプレートを雑に手渡されても、渡航の高揚感が優っていたため、私は接客について深く考えることはありませんでした。
仕事が目的゙で渡航するようになると、私の考え方も少しずつ変ってきました。徹夜のままでのチェックインやeメールの送受信、最近ではパソコンの電源を切ることなく搭乗することが多くなったことも理由だと思います。
私が若いバックパッカーでないことは風貌からも一目瞭然です。だからと言って、ブルジョアに見えるわけでもありません。私は単なるひとりの乗客です。
そんな私に機敏に対応してくれるアテンダントが、私は大好きです。でも、もっと素晴らしいのは私の動きを先読みしてくれるアテンダントです。スタンバイしているのではないかとさえ感じてしまう、そういう接客ができるアテンダントに私は巡り合いました。
今回、利用したのは人気ランキングで上位を占めるような航空会社ではありません。ごく普通のアジア系の会社です。
拙いとも思われるような英語で彼女は答えてくれました。
“I’m happy to be on board at any time.
This is my job, and this is my pleasure.”
言葉と態度がピッタリと一致している人、そう感じさせてくれる人。そして接客の仕事に誇りを持っている人。こういう人が一流のアテンダントなのだと私は思います。
18時35分、定刻で台北に到着しました。
◆塾長日記2010年7月20日
●要するに・・・
“分かりづらいとは思いますが・・・”。
こういう切り出し方をすると、聞き手の興味が削がれてしまいます。話し手の側が“分かりづらい”、“難解だ”と思っていても、それを言葉で表現する必要はないのです。
真面目なスピーカーほど事細かに説明しようとします。重要事項は一言も漏らそうとしません。これがスピーチを複雑にしてしまう原因です。
“色々と分かりづらい点はあるとは思いますが、要するに・・・”。
であれば、“要するに”の部分から話せばいい。
“別紙にまとめてありますのでそれを見てください”。
これではスピーチを聞く意味がありません。
あえて難解なテーマを取り上げるのであれば、複雑な香がするワーディングを取り除き、シンプルさを強調します。口から発せられる言葉のすべてが“要するに”で始まるセンテンスでなければなりません。話の組み立てにも配慮が必要です。
書物は読み返すことが可能です。スピーチにはそれができません。だからこそ、
“複雑な話は分かりやすく、
分かりやすい話は面白く”。
という姿勢が大切なのです。
高校の物理は難しい。でも、小学校の理科ならば誰にでもよく理解できるはず。スピーチも同様です。同じテーマでも、“分かりやすく”、そして“面白く”話すことは可能なのです。
◆塾長日記2010年7月19日
●持ち味とは?
“ここがダメ、あれがダメ”。
こうやってスピーチはますます不自然になっていきます。指摘されたことだけに意識が向き、自然な(spontaneous)話し方からどんどん遠ざかってしまうのです。
“本番では注意してくださいね”。
“はい、わかりました”。
そしてどうなるか。本番でも見事に失敗するのです。これではスピーチがますます苦手になってしまいます。
“正しい話し方”というものあって、そのお手本を見習って学んでいく。スピーチとはこういう性質のものではありません。話し手自身の中に、その人らしさを発揮するコア・エネルギーがあって、それをうまく引き出してあげること、これが指導の要なのです。
コア・エネルギーとはつまり、話し手の“持ち味”です。これは、スピーチの練習をしているときよりも、休憩しているとき、あるいは食事をしているときや世間話をしているとき、さらには電話やメールでやり取りをしているときに偶然、発見するものです。
“どうしてもココだけは指摘したい”。
指導者であれば誰でもこういう衝動に駆られるものです。でも、そういう気持をグッと抑え、持ち味を引き出すタイミングを確実につかみ取る。これが優れた指導者なのです。
スピーチの醍醐味、それは“持ち味”が存分に発揮されると、欠点さえも個性に見えてくるということです。
スピーチ指導には、 だから、
“ここがダメ、あれがダメ”。
という言葉は不要なのです。
◆塾長日記2010年7月18日
●英語がダメな息子
私の息子は私立の小学校に通っていました。
1年生のときのことだったと思います。彼のノートを見てみると不思議な文字が記されているではありませんか。
“おい、これ何だ?”
“これ? 発音記号っていうんだよ”。
“・・・”。
思わず絶句してしまいました。小学校2年生の子どもに発音記号を教えているのです。これだけではありません。おそらくは日本人が発音したであろうCDを渡され、それを聞くことが課題になっていたのです。
私自身、日本の子どもたちが早くから英語に触れることに反対ではありません。負担にならない程度であれば、語学教育は早ければ早いほうがよいような気もします。ただ、
“汚水を垂れ流すような英語教育だけはしてもらいたくない”。
これが私の偽らざる気持でした。
そんな息子も今年で中学生になりました。そしてどうなったか? 発音が苦手で、音読が苦手で、英語は難しいと考える子どもになってしまったのです。
学校や教師の責任を問うつもりはありません。私が言いたいことは、ヤル気があり、外国の文化にも興味があるひとりの純朴な少年が、少しばかりの英語すら使えないまま、自信を喪失してしまっているということです。今の息子は日本の英語教育の問題点を鮮明に映し出していると思います。
さて、1学期の成績表が渡されました。英語の成績は5段階評価で3です。
“パパ。英語の成績はけっこう良かったよ”。
◆塾長日記2010年7月17日
●スピーチには設計図が必要なのだ!
“話をしているうちに、自分でも何を言いたいのか分からなくなってきました”。
とりあえず口から言葉は出ている。それでも、まとまりのあるメッセージを発信している気がしない。こういう不安を感じたことがある人は多いのではないでしょうか。
スピーチには設計図が必要なのです。この作業をスキップしてしまうと、スピーチが一人歩きを始めます。そして実に不思議な建物が建ってしまうのです。玄関を入ったらすぐそこがトイレだったり、台所に水が引かれていなかったり、居間に駐車場があったりする建物です。
“変な家だなあ?”
建てた本人がこう感じてしまうのであれば、他の人にはもっと変だと感じられるのです。スピーチも同様です。言いたいことを明確にできているかどうか、これが設計図を描く上での絶対条件です。
スペシピック・パーパス(specific purpose)とは設計図の心臓部分です。聞き手をドノ方向にドウ誘導したいのかを、先ずは話し手本人が明確にするわけです。
当たり前のことのように思われますが、このことに無頓着なスピーカーが実に多い。
スペシフィック・パーパスは1文で表現します。頭の中でアレコレ考えるのではなく、紙の上に文字を記すのです。これがルールです。
“なかなか1文では言えないだよなあ”。
1文で表現できないメッセージはどんなに言葉を尽くしても聞き手には伝わらないものです。
“そんなに単純じゃあないんだよなあ”。
単純でないのであれば、スピーチには不向きです。
スペシピック・パーパスを無理矢理にでも1文にまとめること。これで設計図の原型が出来上がります。後は肉付けをどうするか、ただそれだけの問題なのです。
◆塾長日記2010年7月16日
●だから女性は偉大なのだ
男は勝ち負けの生き物です。プロセスよりも賞品よりも、おまけよりも、とにかく勝ちを手に入れることが男にとっては何よりも大切です。
“このネクタイ似合うわよ”。
これではダメ。勝ちを連想させないからです。
“こんなセンスのいいネクタイしている人って、
アナタの会社にはいないわよね”。
これがツボを抑えた弁です。こんな言葉だけで男は、
“勝った!”
と思うのです。その日はバリバリ仕事をしてくれるはずです。
“お隣の山田さんて、ネクタイのセンスがいいのよね。
アナタも新調したら・・・”。
これがいちばんダメ。
“負けた!”
と思わせてしまうからです。
男は勝つことで、もっと正確に言えば、勝ったという気分に浸ることで自分のアイデンティティー(identity)を確立させていきます。実に単純です。
単純だからこそ、ほんとうに負けてしまったときは深刻です。負けは即、自己の喪失を意味します。負けたままでは生きていくことすらできなくなってしまうのが男なのです。
こんなときこそ女性が最大限の力を発揮してくれます。
“こんなに頑張れる人っていないと思うわ。
アナタにはもっと大きく羽ばいてもらいたいわ。”。
こういう女性の言葉、励ましの弁さえあれば、どんな男でも勇気を奮い起こすはずです。
今の負けは実は負けではなく、近い将来、大きな勝ちを引き寄せてくれる通過点に過ぎないのだ。そういう妄想を女性の言葉が抱かせてくれるのです。女性の存在は、だから、偉大なのです。
◆塾長日記2010年7月15日
●面接官がイラつく言葉
自分の魅力を最大限に発揮する舞台、それが面接(job interview)です。
“どうして応募したのですか?”
“貴社の将来性に魅力を感じました”。
ここまではいい。
“華やかそうに見える仕事だけど、
裏では大変なんだよ。
残業も多いしね。
大丈夫ですか?”。
こういう質問にどう反応するか。これが勝負の分かれ目です。
“大丈夫です”。
多くの人がこう返答すると思います。でも実は、これが面接官を最もイラつかせる言葉なのです。
仕事の大変さは面接官本人が身にしみて感じていること。その気持をくみ取ることをせずに、“ノー・プロブレム”を口にすることは得策ではありません。
初対面だからこそ大切なこと。それは、おたがいの心的距離を縮め、気持ちと気持ちがシンクロする環境づくりをすることなのです。
“そうでしたか。
うわべだけで分かったつもりになっていました。
たいへん失礼いたしました”。
これがシンクロさせるひとつの例です。こういうムードが会話をスムーズに運んでくれるはずです。
“でも、この仕事やってみたんでしょう?”
こういう言葉が引き出せれば、採用はもう目前です。応募に至るアナタの思いをガツンとぶつけてください。もう“大丈夫”ですから。
◆塾長日記2010年7月14日
●会話が続かない?
会話が続かないというのは辛いもの。
“暑くなりましたね”。
“そうですね。海にでも行きたいですね”。
“・・・”。
万事、こんな調子でしょうか。たしかに会話は続いていません。ますます暑苦しくなってしまいますね(笑)。
“海・いいですねっ! でもその前にお腹を引っ込めなきゃ”。
こんな一言で会話は楽しいものに変ります。大切なのはそういう工夫をしているかどうか、ただそれだけのことなのです。
“そういう一言が言えないから悩んでるのよ”。
こういう声が聞こえてきそうです。
もう一度繰り返します。会話を続けるには工夫が必要なのです。
自分には特技もない、話題もなければユーモアのセンスもない。
“だから・会話が続かないんです”。
こういう人に限って自分を卑下する話には饒舌だったりします。会話が続かない理由を延々と話し“続ける”のです。実に面白い現象ですね。
会話が続かないのは性格や能力の問題ではありません。相手を楽しませよう、喜んでもらおう、こういう創意工夫の気持ちが欠如していることが原因です。相手を敬う気持ち、感謝する気持ちがあれば、工夫をすることに無頓着ではいられないはず。これができない人は、会話自体がそもそも“自己中”なのです。
◆塾長日記2010年7月13日
●神の声にさようなら
“神の声”で親しまれていたボブ・シェパード氏(Robert Leo “Bob”Sheppard)が11日、ニューヨーク州の自宅で死去、享年99歳でした。
同氏はジョー・ディマジオからジータや松井秀喜(現エンゼルス)までヤンキースタジアムの歴代スターの名前を50年以上に渡ってコールし続けた人物です。
独特の間合いと重厚な声が魅力でした。けっして華麗ではない、むしろ静をイメージさせる声質は一度聞くとクセになるのです。英語という言語を越えたその響きは神秘的ですらありました。
声はその人の人格を表します。発声法や話し方といった次元を超えた、人の内面を如実に表現するのです。けっして大袈裟な話ではありません。
スピーチの成否の決定づける要因のひとつが声の質です。生まれ持った声も大切ですが、それ以上に大切なのが後天的な声質です。
人格を磨くことでそれに見合った声が出るようになります。幸せな人生をおくっている人、穏やかで充実した生活をおくっている人は、それだけで美しい声になっているのです。声とはそういうものなのです。
“声に自信がもてない”。
こう悩む必要はありません。アナタ自身が堂々と生きること、仕事に専念し、家族を愛し、真っ直ぐに生きること、そのことで、すでに愛される声が出来上がっているのです。
誰よりも野球を愛し、選手一人ひとりをコールすることに誇りと喜びを感じていたから、そして何よりも、彼自身が幸せな人生をおくっていたからこそ、氏は皆に愛され続けたのだと思います。
ジーター選手は打席に入る際、今でも録音された同氏のアナウンスを使っています。
◆塾長日記2010年7月12日
●総括する?
選挙が終わるといつも聞こえてくるのが“総括”という言葉です。
“辞書には”それまでに行ってきた方針や成果を自ら評価・検討すること”、とあります。
選挙で負けた側の政治家たちが競って、
“まずは総括だ”
と声を荒げるのは、犯人探しを行って、責任を誰かに押し付けようとする意図があるからです。“総括”という言葉が権力闘争に利用されているのです。
鳩山・小沢ペアーが凡退し、ピンチヒッターで登場したのが菅氏です。大差で負けていた試合に9回裏に登場して、負けた責任を負わされてしまうことは、日本の政界でしか起こりえないことだと思います。菅新総理だからこそ10議席減で収まったのです。
責任をひとりに押し付ける風潮は政治の世界だけではありません。会社でも家庭でも、そして人間関係にも当てはまる日本の“文化”です。最後にその場に居合わせた人が損をする、そういうシステムなのです。
“担当者はオマエだったよな?”。
心無い声に、一同が同意したら最後、その人が悪人に仕立て上げられてしまうのです。実に歪な社会です。
“いつ足をすくわれるか不安で仕方がない”。
こういう気持が先行するとリーダーは育ちません。人の上に立とうというポジティブな気持ちが萎えて(shrink)しまうのです。ハズレくじを引くくらいなら、大樹に寄り添って生きるのがいい。こういう考える人が大勢を占める国から真のリーダーは生まれません。
日本がそういう国なのだとすれば実に残念です。
◆塾長日記2010年7月11日
●なぜ民主党は負けたのか?
菅首相は選挙の鬼門といわれる増税論にあえて触れました。
“選挙が終わって、にわかに増税論を始めるのはどうかと思う”。
実に菅さんらしい、勇気ある発言でした。
選挙戦が始まると首相は世論の風向きを意識するようになります。議論を始めるという趣旨から、いつのまにか、
“すぐにでも増税する”
というトーンにすり替えられてしまったからです。
“増税する前にやるべきことがあるだろう”
という声をメディアが取り上げたことも首相を動揺させた一因だと思います。
鬼門に触れたことが支持を低下させたのではありません。税金の還付や負担軽減策に関する発言があまりにも唐突に映り、首相自身が動揺する姿をさらけ出してしまったからです。
“誤解があったのだとすれば申し訳ない”。
こんな風に詫びる姿を国民はリーダーには求めてはいません。
“自民党が提案している10%を参考にしたい”。
振り返れば、この発言が民主惨敗の発端でした。党派を超えた議論をしたい。これが菅首相の本音だったとしても、そのことを声に出してはいけません。ライバル政党の方針を引き合いに出して得ることは何もないのです。
鬼門に触れ、動揺し、そして詫びること。これこそがクレディビリティー(credibility)を失う三拍子です。
増税という鬼門に触れてしまったのならば、無理矢理にでも押し通してしまう。菅首相にこういう覚悟があれば、選挙の結果はもう少し変ったかもしれません。
◆塾長日記2010年7月10日
●パワーポイントVS話し手
“このパワポの資料、凄いだろう”。
色鮮やかな表、グラフ、文章が満載のパワーポイントはまさに“力作”です。
こうやって準備万端、整えてプレゼンテーションに臨むわけですが、こういう人はまず本番で失敗します。パワポに振り回され、聞き手のアテンションが散漫になるからです。
話し手がパワポの画面ばかり見て、聞き手のアイコンタクトを失ってしまうこと。これは致命的です。話し手と聞き手のラポール(rapport)の大部分がアイコンタクトによって保たれるからです。
“内容はご覧の通りです。
念のために説明させていただきますと・・・”。
万事こんな調子だから、聞く側もプレゼンが億劫になってしまのです。
パワポの画面は見ない。これがプレゼンを成功に導く第一歩です。画面を見ないでも、その内容がスラスラ説明できるくらいの準備をする。そうすれば安心してアイコンタクトに集中することができるはずです。
色は3色以内に収めること、表現はフレーズ中心で記すこと、1画面1要素の原則を守ること。これが配布資料とは異なる点でしょうか。パワポは克明に記された“力作”である必要はありません。あくまで、聞き手の側に立った、見やすく、分かりやすく、そして興味を引くものであることが大切なのです。
素晴らしいパワポと魅力ある話し手。こういうプレゼンがいつまでも聞き手の記憶に残るのです。
◆塾長日記2010年7月9日
●モチベーションって?
モチベーション(motivation)という言葉を最近よく耳にします。
英語の元の意味は“eagerness to do something without needing to be forced to do it”,
(人から強制されることなく何かをしようとすること)。つまり、モチベーションとは初めから存在しているもの、理由もわからずにとにかくそこにあるものであって、刺激を与えられて湧き出てくる類のものではないのです。
“最近、仕事のモチベーションが高まらなくって・・・”。
こういう人に限ってモチベーションが高かったためしがありません。
“給料が安いとモチベーションが下がるよね”。
こういう人も同様、たとえ給料が上がったとしてもそれほど力を発揮することはないのです。
ヤル気がない人にとって、モチベーションとは便利な言葉です。
“悪いのは私じゃない。
モチベーションなのだ”。
こう考えることで少しばかり気分がよくなるのでしょう。実に都合がいい言葉です。
ヤル気もなければ能力もない。根気もなければ情熱もない、愛情もない、お金もない・・・。こんな現実を直視しなければならないのだとすれば、それは悲しすぎますね。
そこでモチベーションという救世主が登場するわけです。モチベーションに逃げ込むことによって、自分のアイデンティティーだけはどうにか取り繕うことができるのです。
“モチベーションはこうすれば上がりますよ”。
こういう囁きに騙されてはいけません。モチベーションとはその大きさに関わらず、アナタの心の奥底に初めから存在しているものなのです。
◆塾長日記2010年7月8日
●子育てと言葉
“人生はそんなに甘いもんじゃない”。
子どもを育てる上で、これが最も避けるべき言葉だと私は思います。
不得意な数学でたまたま満点を取った、そういう子をつかまえて、
“油断しちゃいけないよ。
これからどんどん難しくなるんだから”。
と言い放つことにいったいどんな意味があるのでしょうか。
たまたまでもいい。偶然でもいいのです。その結果に対して手放しで喜んであげることがどれだけ子どもを勇気づけることでしょう。
学年がすすむにつれて、適性が見えてきます。得意、不得意の差も出てきます。自分が特別な存在ではないということに気づき始めます。誰よりも本人自身が人生は“甘いもんじゃない”ということを認識しています。ヤル気を削ぐような言葉は、だから、不要なのです。
“人生ってけっこう甘いかも”。
こういう考え方に大人たちは猛烈に反発します。自分の人生と重ね合わせるからです。苦労に苦労をしてきた自分の過去を振り返り、
“物事はそんなに簡単にはいかないのだ”。
ということを思い知らされているのです。
親は子どもの劣っている部分に焦点を当てることが大好きです。他の子どもたちと比較することも大好きです。でもあるがままの子どもを受け入れることには驚くほど無頓着です。子どもの出鼻を挫く言葉はこういう背景から生まれてくるのだと思います。
◆2010年7月7日
どう考えても自分が正しい。少なくとも自分自身はそう思っている。こんなときに、
“たしかにそうなんですが・・・”。
と言われることがあります。
納得しない相手をさらに追い込み、反論できないような状況をつくりあげる。こうやってますます相手が頑なになってしまうという経験は誰にでもありますね。
筋道の通った言葉を吐くときにこそ、相手の気持ちを推し量る度量が求められるのだと思います。
論で人が動くのではありません。言葉で人が動くのでもありません。人は人によってのみ動くのです。主役はあくまで人と人、論や言葉は主役を引き立ててくれる脇役に過ぎないのです。
論や言葉に操られ、主役がオロオロする姿は滑稽に映ります。論に溺れ、言葉に溺れ、そして人と人の関係を素っ気ないものにしてしまう。これこそが人生最大の不幸です。
“なるほどそうなのか!”
と相手の側が目を輝かせること。これが人を説き伏せるということです。満面の笑みを浮かべながら喜んでアナタを受け入れてくれること、これが説得の真の姿です。
人を動かせないのであれば、説き伏せることができないのであれば、それは正論という衣を被っているだけで、ホンモノの正論ではないのです。
正論が通じないと嘆く前にアナタがすべきこと。それはアナタ自身が正論を語るに相応しい人物になることです。似非の正論を脱ぎ捨てて、裸のアナタ自身に磨きをかけること。こういう姿勢を貫き通すことで、結果として、論にも言葉にも磨きがかかるのだと思います。
アナタ自身が魅力溢れる人であれば、人は確実に動きます。人を動かすメカニズムは実にシンプルなのです。