◆2009年7月22日
“引きこもり?
食事を出さなきゃいいんですよね。
兵糧攻めが解決法ですよ”。
乱暴に響くスピーチですが私は興味深く聞き入ることができました。
自分の信念をズバッと言い切る。これがスピーチの醍醐味です。新聞の社説や学者が言っているようなスピーチは“嘘くさい”。
“心のケアーが大切です。
今こそ家族のあり方について考え直さなければなりません。
言っていることに間違いはない。それでも心に響きませんね。言い尽くされているようなスピーチは誰も聞きたくないのです。こういうスピーチを私は“たわ言”と呼んでいます。
“たわ言”でお茶を濁していさえすれば敵はつくりませんが人を動かすこともできないのです。
引きこもる人も問題ですが容認してしまっている家族や親がいることもまた事実。このことに焦点をあて、
“腫れ物に触るような気遣いは教育ではない。
引きこもっている人たちはダメ親の被害者なのだ。
唯一の解決法はダメ親の再教育にある”。
私が聞いたスピーチはこういう趣旨でした。
反論されることを恐れずに言いたいことを言い切るかどうか、ここが大切なポイントです。聴衆から賛成を引き出すことだけがスピーチの目的ではないのです。タブーに正面から切り込み聴衆の反感を買うことができればそれもまた“いいスピーチ”なのです。
スピーカーとして最も避けなければならないこと。それは反論ではなく無関心。聴衆の無関心を呼び込んでしまうのが”たわ言”です。
もっともらしく語る学者たちの考えが正しいのだとすれば、引きこもりの問題は遠の昔に解決されているはずです。 アナタのスピーチが聴衆から反論されればそれは失敗ではなく成功なのです。
◆2009年7月21日
“私は怠け者です。
どうにかきっかけをつかみたいと思っています。
よろしくお願いします”。
スピーチの指導をしていて気づくこと。それは今の自分を変えたいと思っている人が思いのほか多いということです。自分を変える仕事を他人任せにしようとすること自体そもそも間違っていると私は思います。
“自分探しの旅に行こうと考えています”。
そういう人はなかなか旅に行くことはありません。行ったとしてもそれは単なるレフレッシュであって自己改革ができるような旅にはなりません。
“やっぱり日本で英語を勉強してもダメですね”。
こういう台詞を残して渡米し英語の達人になった人を私はこれまで見たことがありません。
他人に頼ったり旅に出たりすることで自分を変えることはできないのです。住処を変えたり髪の毛を切ったりすることは単なる気休めに過ぎません。
自分を変えるという言葉を使う人ほど何年経っても変わらないものです。外見はますます劣化し中身は以前のまま。これが不幸な人生へのパスポートです。自己改革とは重みのある言葉です。たやすく口にしてはいけません。
物事にはきっかけがあります。自己改革も同様です。きっかけはどこまで行ってもきっかけです。きっかけを掴むことと自分を変えることはそもそも次元が異なるのです。ここをはき違えている人が実に多い。ハウツー本を片手に自分を変えようとする人がいます。実に滑稽です。
“ホンモノの怠け者”は自分が怠け者であることを認識していません。ある意味、幸せな人です。自分が怠け者だとアナタが認識しているのだとすれば、変わる唯一の方法はアナタ自身が変わることです。他人にすがったり旅に出ることで自分を誤魔化してはいけないのです。
自分を変えたければ自分を変えることに全力投球する。これでいいのです。こういう気持を3年間持ち続ければ人は必ずや大きく成長するはずです。
◆2009年7月20日
“ねえ、これって、どうなっているの?”
“面倒だな。自分で調べろよ”。
男性からこう言われてどう反応するか、これで女性の価値が決まります。
男は優越感の生き物です。頼りにされることに大きな喜びを感じるものです。恋人であろうが仕事仲間であろうがこの法則が当てはまります。お願い事をして嬉しく思わない男はこの世には存在しません。
男がブツブツ言うのは単なる照れ隠しです。心の底では実は嬉しくてたまらなないのです。でもその喜びの気持をストレート表現することができない、それもまた男なのです。とりあえず面倒がってみる。このことが男の虚栄心を満たしてくれるのです。だから男が吐く言葉に翻弄されてはいけません。
“分からないから聞いてるのよ”。
これが最低の返しです(笑)。本音ではあっても口にしてはいけない言葉です。
”ごめんなさいね。
いつも迷惑ばかりかけて。
でも××さんしか頼りにできる人いないから”。
たいがいの男性はこれでノックダウンすることでしょう。天にも昇る気持になってしまうはずです。男性の優越感を刺激することは想像以上に効果大なのです。
“私はそういうのはイヤ。
思ってもみないことを言葉にするなんてウソっぽい。
私のカレはあるがままの私を受け入れてくれるから”。
こういう”哲学“も悪くはありません。でも相手の側があるがままのアナタを心の底から受け入れてくれているのかどうか、そのことを男性はけっして口はしないものです。女性が女優を演じるように男性も俳優になることがあるのです。
◆2009年7月19日
沈む太陽がキラキラと輝く中、突然、大雨が降り始めました。箱根から都内に戻る車中での出来事です。
“こういう日に虹が見えるんだよな”、
と私がホノルルでのうんちくを語った瞬間、東京の空に巨大な虹が出現しました。二重に架かる虹を見るのは生まれて初めてです。携帯で写真を撮ることはしない私ですが今回ばかりは連射してしまいます(笑)。
“よ~し。
今日は虹をくぐってやるぞ”。
瀬田を超えて首都高に入ります。環状線をグルグルとまわりながら思わず童心にかえってしまいました。虹をまたぐ体験はまたのおあずけです(笑)。
虹は単なる自然現象ですが私はこれまで何度か不思議な体験をしています。北海道の屈斜路湖で龍を見たことがあります。この話をすると
“湖に雷でも落ちたんじゃないの”。
と誰も信じてくれません。湖畔にある知人の別荘での体験です。
伊豆の達磨山で見た未確認飛行物体も忘れられません。夜空が一瞬だけ昼のように明るくなったのです。
渋谷の空にオレンジ色の物体が落下したのを目撃したこともあります。東京天文台に電話を入れ調べてもらうよう懇願しましたが一方的に電話を切られてしまいました。
偶然、空を見たらその日が皆既月食だったこともあります。間抜けですね。マウイ島での体験です。
私の不思議体験はすべてが偶然の出来事です。その日たまたまということが多い。22日の皆既日食はどうなるのか今から楽しみです。
◆2009年7月18日
“自分に厳しく他人に甘い”。
こういう人生訓をスピーチに当てはめる必要はありません。スピーチに関してだけは、
“他人に厳しく自分に甘い”
と考える方が懸命です。
華麗にスピーチをする人と自分を比べ己を卑下する。これでスピーチが上手になることはありません。むしろ逆効果です。コンプレックスが新たなコンプレックスを生み、スピーチに対して臆病になってしまうからです。
自信を持つには他人のあら捜しをすることがいちばんです。家族、友人、先生、同僚の話し方を観察してダメなところを列挙するのです。
“自分はスピーチが下手。
だから頑張らなければならない。
欠点を矯正しなければならない。
上手にならなければならない”。
こういう考え方を放棄させることから私の指導は始まります。“ビクビク・モード”から脱却してあるがままのアナタを素直に表現する。こういうスタンスで指導をすることで“仮想の自信”が身につくのです。
“仮想の自信”を身につけないまま小手先のテクニックだけを学んでも心打つスピーチができるようにはなりません。スピーチに自信がない人がハウツー本を読んでみても効果が出ないのはこのためです。
“仮想の自信”を身につけることは大切です。主役であるアナタをサポートする影武者、それが私であり、私の仕事でもあるのです。
◆2009年7月17日
“とりあえず現況を報告させていただきます”。
よくありがちな口上です。どうして“とりあえず”という言葉で話し始めるのでしょうか。明確な目的(specific purpose)が定まらないままプレゼンを始めるからです。プレゼンを通して自分が貫きたいメッセージが明確であれば“とりあえず”という言葉を吐く余裕はないはずです。
“聞き手がその情報を欲しているか?”
このことには敏感であり過ぎるくらいでちょうどいいのです。
聞き手が利益を求めている。ならば利益に焦点を当てる。
聞き手がロマンを求めている。ならばロマンに焦点を当てる。
聞き手が社会貢献を求めている。ならば社会貢献に焦点を当てるのです。
聞き手の側が求めてることにエネルギーを注入する。相手が求めていることに特化する。これがプレゼンを成功させる絶対条件です。
“現状が厳しいのは分かったから早く結論を言ってよ”。
これが聞き手の側の本音なのだとすればズバリ結論からプレゼンを組み立てるべきです。聞き手の需要を満たしてあげるプレゼン、これが上手なプレゼンです。供給過多のプレゼンではダメ。プレゼンにも需要と供給のバランスは大切です。
目を瞑りながらプレゼンを聞いている経営者がいます。こういう人の前でパワーポイントを巧みに操ることにどんな意味があるのでしょうか(笑)。
聞き手が求めていることは目を見れば歴然です。聞き手の“早く終われ光線”を見逃してはいけません。“なるほどそうか光線”を感じたらその時点で腰を落ち着かせて話せばいいのです。これでプレゼンは成功します。プレゼンの主役はアナタではなくあくまで聞き手の側なのです。
◆2009年7月16日
日本の家族を象徴している言葉、それが“家族サービス”です。
満員電車に揺られながら帰宅するのはいつも深夜。グッタリしてしまうのも当然です。できることなら週末は家でノンビリしたい。これが日本のお父さんの本音なのでしょう。
“家族サービス”という言葉には義務感が漂います。
”家族を養っているのは俺様だ。
本来なら俺が奉仕してもらいたいくらいだ。
でも仕方がない。
家族と過ごしてやることも男の仕事なのだ”。
こういう上から目線の感覚が“家族サービス”という言葉の背景にあるような気がします。
“女は家政婦だ”。
これが男性の本音などすれば問題です。
“男はお金を生み出す道具だ”。
これが女性の本音だとすればそれも問題です。
たがいにこういう考え方をしている夫婦が本来の夫婦なのかどうか大いに疑問です。
家族とは空気のような存在です。週末をどう過ごすかどうか、それは義務感からではなく、自然の成り行きで決まるはず。それでも“家族サービス”という概念は未だ健在です。
“On my days off, I have to spend with my family.”
(週末は家族サービスをしなければならない)
“家族サービスは英語にはなりづらい。欧米人には“have to(ねばならない)”という感覚が理解できないかも知れません。
“I AM a salve in my family.”
これなら笑いが取れてしかも通じます。サムライが週末だけ奴隷になる。これが日本のお父さんを説明するのにいちばんピッタリする表現です。
◆2009年7月15日
話をするときの私のクセ。それは手を動かしすぎること。とにかく私の手は元気がよすぎるのです。
“どうしてあんなに手を動かすのかな?”
これが私のかつての悩みでした。理由は自分にもわかりません。話すときになぜか手を動かしてしまうのです。
“Your hands are irritating.”
私の手は聞き手には煩わしく映るらしい。コンテスト・スピーチのジャッジから度々指摘されたことです。映像を見てみると私の手はたしかにウザかった(笑)。
当時の私にとってirritatingという言葉は衝撃的でした。人格が否定されたような、そんな気持になるほどショックだったのです。
“このクセは直さなければならない。
俺の手よ。
どうか静まっておくれ”。
こう祈りながらスピーチをしてみると手の動きは静まります。あまりにも静まりかえって、今後は動きがぎこちなくなってしまいました。手のクセを矯正しようと思えば思うほど不自然な話し方になってしまうのです。
誰の目から見ても不快に感じるような、そういうクセであれば直したほうがいい。そうでなければクセを活かした話し方を目指す方法もあると思います。そのほうがずっと気楽です。自分自身が心地よさを感じながら話すここそが自然体で話をするいちばんの近道だと私は考えています。
私の手は今日も元気に動いています。私自身も元気いっぱいです。思いっきり手を動かすこと。これが私がいちばん気楽に話せる話し方なのです。
◆2009年7月14日
“立つ鳥跡を濁さず”。
退きぎわが潔く、きれいなことをたとえた諺です。日本人の美意識をよく表しています。
”一身上の都合により云々”。
会社を辞めるときの文言です。どんな理由であろうと退職願の文言は“一身上の都合”でなければならない。これが日本社会の“常識”です。
日本人にとって組織を抜けることはおそらく気が引けるのでしょう。脈々と受け継がれた村社会のDNAがそう思わせるのかも知れません。
辞める理由はあくまで自分にある。組織には原因や責任はない。こういう儀礼的なニュアンスを含んでいるのが“一身上の都合”という文言です。
辞めるからには理由があるはず。それでも本音を漏らすことはしない。文言上はあくまで儀礼で済ます。こういう美意識をいったん壊してみるとどうなるのでしょうか。
“上司がアホなので退職させていただきます”。
こういう退職届を提出して却下された人がいます。私の友人です。
“これまで世話になった人に対して失礼じゃないか”。
たしかにその通りです。日本的な“常識”から逸脱した行為なのですから。
日本人がもっと自由で開放的な人生をおくるにはこの種の“常識”や美意識を壊してみることも必要なのではないか。私にはそう思えてきました。
会社に対する不満に蓋をしてしまい“跡を濁さない鳥”が果たして立派な鳥なのかどうか、甚だ疑問です。掟に縛られて本来の自分を表現しないのは体制の側に媚を振るだけの愚行なのではないでしょうか。
“立つ鳥跡を濁してみよ”。
こういう生き方にチャレンジしてみるのも粋なのではないか。友人の“非常識”な行動からこんなことを考えてみた私です。
◆2009年7月13日
都議選が終わり東京都は新しい時代に突入しました。
私の住む選挙区では民主党に投票した人の数が125,078、自民党72,782、数の比較では民主が自民を圧倒しています。
民主党はフレッシュな新人2名が圧勝したものの現役2名が共倒れ、一方、自民党は現役の3名が再選を果たしました。
“風は民主党に吹いている”。
それでも与党は強かった。これが私の印象です。
近隣の人たちとの井戸端会議では
“自民には絶対投票しない”。
こういう声が圧倒的でした。
前回2005年の投票率は43.99%、今回が54.49%。増えた分がそのままトップ2名の民主新人に流れた計算です。自民が負けたことは事実ですが保守の基盤は想像以上に堅固でした。今回、自民公明に投票した区民の数が10万人を超えたことからも明らかです。
衆院選のスケジュールが決まりつつあります。政権交代が実現するかどうかは投票率次第、投票率が上がれば確実に民主政権が誕生します。
民主党が政権与党になって経済の建て直しが保障されるわけではありません。むしろ危惧すべき材料の方が多いのです。だからといって自民党に投票するわけにはいかない。国民の悩みはここにあります。
元々、保守的な国民がどこまで革新的な選択をすることができるのか。結果は8月末に判明します。
◆2009年7月12日
“鰻はタレが勝負”。
天然だろうが養殖だろうがタレが美味しければいいのだ。こういう感覚で吉野屋の鰻丼を食べるとかなり失望することになります。やっぱり吉野屋は牛丼のお店です。
野田岩の鰻を食べると世界観が変わります。雰囲気が抜群によく中井さんも丁寧で品がある。160年続く老舗の重みを感じさせてくれる名店です。
食べ物には少々うるさい私ですが鰻にはこれまで縁がありませでした。お寿司やお肉には大枚をはたいても鰻には無頓着だったのです。
野田岩の鰻は鰻の香りがします。
“あたりまえ?
鰻なんだから”。
こういう声が聞こえてきそうです。これまで私が食べていた鰻はタレが主役でした。鰻はあくまで脇役でタレの美味さが決め手だったのです。だから養殖だろうが天然だろうが気にはしない。私がこれまで口にした鰻の多くは養殖だったのでしょうが(笑)。
野田岩の鰻はタレがあっさりとしています。タレのお代わりをしたくなるくらい味がさっぱりしているのです。ほのかな鰻の香り、川の香りを堪能することができます。
肝焼きを注文したときのことです。
“パパ。肝ってチンチンのこと?”
息子の大きな声に私の方が恥ずかしくなってしまいます。
串肝には肝臓だけでなく腸なども含まれているそうです。勉強になりました。
◆2009年7月5日
“強気で攻めよ”。
これがスピーチの鉄則です。ビクビク・オーラ全開のスピーチで人を動かすことはできません。自信がなくても自信があるように振舞う。そういう気迫が自信を生み出してくれるものなのです。
さて、強気さの境界線をどこで引くのか。この頃合いが難しいところです。
“イヤよ・イヤよも好きのうち”。
強気が高じた勘違い男。これがストーカーです。だからといって草食君の弱気モードで恋は成就しません。何事にも頃合いは大切です。
発言一発でいま日本を動かしている男がいます。東国原知事です。
“自分が出馬すれば自民党を負けさせない”。
これまで一貫して強気の発言を繰り返してきた知事です。知事に対する国民の信頼感がこの発言でグラついたのではないか。私にはそう感じられました。
スピーチは強気が原則です。これが圧倒的な影響力を醸し出すエネルギー源でもあります。 しかし頃合いを間違えて“傲慢オーラ”を放った途端、話し手のクレディビリティー(credibility)は大きく揺らぎ始めるのです。
知事が実際に傲慢かどうかという問題ではありません。あくまで聞き手の側、受け取る側が“傲慢オーラ”を感じ取るか否かという問題なのです。ここがスピーチの難しい部分でもあり、また面白い部分でもあります。
“ネガティブな印象は修復するのが難しい”。
人間関係にもスピーチにもこのことはあてはまります。
強気さと傲慢さの頃合いを間違えてしまった知事。真の実力がいま試されそうとしています。
◆2009年7月4日
“すいませ~ん。
お茶ください”。
店内に私の声だけが響きます。お代わりすることが実ははずかしい私です。指導の後だったりすると余分で声が出てしまいます。
日本のご飯屋さんではなかなかお茶を入れてくれません。永遠の謎です(笑)。そもそも湯のみが小さすぎます。私が一口で飲み干してしまう大きさです。
食べ物の通りが悪い私です。食道が狭いのかな? それとも扁桃腺(tonsils)肥大の影響か? とにかく食事をするときの私は水分を大量に摂取します。お茶やお水が必須アイテムなのです。
今日、皆で行ったのはトンカツの有名チェーン店です。
“キャベツとご飯とお味噌汁はお代わり自由”。
こんな掲示を見つけました。
“キャベツください。
山盛りでね。
それからご飯も。
大きなドンブリがいいかな。
味噌汁とお茶もね”。
お茶のお代わりすら躊躇してしまう私です。こんな風にはなかなか言えないのです。弁塾の塾長が寡黙になる珍しい瞬間です。店員さんを呼び止めようとしてもタイミングが合いません。なぜ?(笑) だからお代わりをしないでいつも“我慢”してしまうのです。
ガンガン注ぎに来てくれるアメリカの方が私には気楽です。チップの習慣の影響なのでしょうか、接客が乱暴なお店でも空いたクラスだけは見逃しません(笑)。そういえば昨年の今日はニューヨークで花火鑑賞をしていました。アメリカの独立記念日です。一念発起の留学から1年が経過してしまいました。
◆2009年7月3日
自称庶民を名乗る友人が面白いことを言っていました。
“いま、ほんとうに不況なのかなあ。
モノは安くなりましたよね。
一頃の半値でモノが買えちゃう。
給料は少し下がったけど、生活は楽になった”。
株価から見た不況、不動産価格から見た不況、こういう観点から不況を見れば今の時代はたしかに不況なのだと思います。ただ、モノが半値で買えるということは実質的な給与が2倍になったのだ。こう考えると友人の考え方にも説得力があります。経済学者が言う不況と実生活の間にはかなりのギャップがありそうです。
流通の流れが簡素化されモノの価格はたしかに安くなりました。むしろこれまでの価格が高すぎたのではないか、日本の流通システムがあまりにも複雑すぎたのではないか、今の価格が実は適正価格なのではないか。こう考えると今の時代が不況ではないのではないかとさえ思えてきます。
“庶民の生活は実に苦しいのだ”。
メディアはこういう告知をするのが大好きです。
客待ちをしているタクシー運転手さんの嘆きがよく報道されます。
“こんな不況じゃ生活できないよ”。
今や710円でお弁当が2つ買えてしまう時代です。タクシーを利用する人が減るのは当然なのかも知れません。
先進都市のニューヨークでさえタクシーの初乗り料金(initial charge)は250円です。適正価格だからこそみなが利用する。これが需要と供給(demand and supply)のバランスです。
憂鬱な経済報道に翻弄されることなく消費文化を満喫する。こういう友人のスタンスに少しだけ勇気づけられた気分になりました。
“今は不況じゃない”。
なるほど!
◆2009年7月2日
ハードルの高い仕事を楽々とこなしてしまう人。そういう人の下で働く部下はたいへんです。上司と同じようなノルマが課せられるからです。
“オレはこんなにやっているよ。
お前らもヤレよ”。
こういう言葉を吐く人は稀です。
“お前らは無能だな。
オレのようにはできないだろうな”。
こういう言葉を吐く人も稀でしょう。でも上から目線で部下を見下す人、そういうオーラを発する上司は少なくありません。
バリバリ仕事をこなす人は出世します。いずれは部下を持つようになります。そして人を動かす難しさに悩むのです。
部下として働く人たちはまだまだ未熟です。ヤル気も能力も上司ほどではありません。そういう部下に高いハードルを課すこと自体に無理があるのです。
仕事ができない人が上司になってはいけません。でも、仕事ができる人が上司に向いているかといえばそうではありません。優秀な野球選手が必ずしも名監督になれないのと同じです。
魅力ある仕事に没頭し、魅力あるオーラを発揮する人、こういう上司のまわりには人が集まってきます。
“自分もあんな上司になりたいな”。
こういうオーラがにじみ出る上司が人を動かすことのできるリーダーです。今はダメでも将来に希望が持てそうな気がする、こういう雰囲気の中で働く部下は目がキラキラしています。叱っても人はついてきます。尊敬されている上司の言葉は無敵なのです。
“あんな上司にはなりたくない”。
部下が少しでもこう感じた瞬間、その瞬間に人を動かすためのすべての道が閉ざされてしまうのです。
◆2009年7月1日
“普段は結構イイカゲン。
でもいざとなったら奴はヤル男だ”。
平時は至ってマイペース。難事の際になると実力を発揮し部下を安心させる人。こういう人がリーダーには適任です。
気骨がある人は自分の哲学を持っています。こうあるべきだ、こう生きるべきだという人生の羅針盤が常に一定方向を向いている人です。ぶれない、ぶれようがないのです。真のリーダーになろうと思うならばこの要素は不可欠です。
教育にも気骨が大切です。どんな信条(creed)を掲げているかで気骨の度合いが分かります。気骨がない学校ほど安易な手法で人を集めようとするのが世の常です。
“駅から徒歩1分。
どんな方でも大歓迎。
ただ今キャンペーン受付中”。
今の時代にはこういうことも大切でしょう。でも気骨がなければそれは教育ではありません。
政治にも気骨は大切です。気骨はマニフェストに表われます。自民党も民主党もマニフェスト制作に奔走しています。
マニフェストとはそもそも“つくる”ものではありません。既にソコになければならない性質のものなのです。マニュフェストが文章にならないのはその党に気骨がないからです。気骨もなければ気概もない政党が今、日本の舵取りをしようとしています。
軟体動物には骨格がありません。皮膚は粘膜におおわれ体が乾燥すると生きることができないのです。乾燥した体にお金をふりかけると蘇る特殊な軟体動物。それが政治家でないことを切に願います。