◆2009年9月4日
“パパ、僕ね、プロゴルファーになるよ”。
“わかった”。
息子の進路がいとも簡単に決まってしまいました。会話は3秒で終了です(笑)。
彼が初めてクラブを握ったのは3歳の頃、亡くなった私の父に連れられて近所の打ちっぱなしによく出かけていました。
“この子は凄いぞ。
タイガーを越えるかも知れない。
オレにはそれが分かるんだ”。
こんな言葉を相手にする人はいませんね。“よくありがちな爺バカ”のたわ言です。
ところが人生とは面白いもの。この言葉がきっかで息子はゴルフにのめり込むようになったのです。
信じてる人、尊敬している人。こういう人の弁はときに人を大きく動かします。根拠や理屈とは無縁の世界です。大好きな爺の言葉だからこそ息子に与えたインパクトは大きかったのでしょう。
勉強はまあまあ、スキューバ・ダイビングは趣味程度、野球は娯楽。でもゴルフだけには本気です。こんな息子を応援しない理由はありません。
“プロになれなかったらどうするの?”
こういう考え方をしないのが私たち親子です。
“子どもの適性を見極めてあげるのが親の責務だ”。
陳腐な弁は無視するのが私たち親子です。
勘違いから始まったことを素直に受け入れる、勘違いしたまま突き進む。これが私たちの人生のノリなのです。
私は息子を厳しく育てました。悪さをしたときのお仕置きは庭石の上での正座です。朝まで正座をさせたこともあります。こんな私の前で息子はプロになることを誓ったのです。しかも自分の言葉で!
息子がタイガーになれない理由を挙げるのは簡単です。タイガーになれる理由もなければ、根拠も実績もありません。
“サインの練習もしておかなきゃな”。
“もう始めてるよ”。
私たちの勘違い人生はこれからが本番です。
◆2009年9月3日
◆2009年9月2日
“所詮、アナタと私は水と油ですね。
これほど考え方が違うとは思いもしませんでした。
お互いに別の道を歩きましょう”。
説得を試みる。それでもどうにもならないことがあります。意見の不一致というよりも価値観の違いから起こる不和のほうが多いかも知れません。思い入れの激しい人ほど、
“どうにかして相手を変えたい”、
と思いがちです。それが空を切るとその瞬間に牙を剥くのです。
“君は君、我は我なり。されど仲良き”。(武者小路実篤)
的を得た言葉だと思います。
相手に迎合する生き方は私は好きではありませ。迎合される人生も御免です。だからといって不和に満ちた人生もまた厄介です。
意見は一致しない。むしろ対立することのほうが多い。それでも仲が保たれる友人をどれだけ多くも持っているか。これが充実した人生のバロメーターになるような気がします。
“君は君、我は我なり”。
だから互いの人間関係は解消しましょう。これでは人生は面白くない。
男女関係にもこのことが当てはまると思います。
“なるほどそういう考えもあったのか。アッハッハ”。
心の余裕がある男性は魅力的です。
“なるほどそういう考えもあるのね。オホホ”。
こういう女性も魅力的です。
水と油ではあっても互いに相手を認め合う姿勢、こういう姿勢が実りある男女関係を築きあげるのだと思います。
“自民は自民、民主は民主。そして仲悪し”。
政党と政党の関係とは所詮こんなものなのでしょうか。
◆2009年9月1日
日本が民主国家ならば、自民党が民主的な政党ならば、首班指名に誰を投票しようと、個々の政治家の意思に任せればいい。私はこう思います。
“国民にNOを突きつけられた麻生さんに投票するわけにはいかない”。
そう思うならば誰か別の人に投票すればいい。
“首班指名の前に自民党総裁を終えなければ国民は納得しない”。
そう思えば選挙を急げばいいのです。
国民はそうは思ってはいません。野党自民党の総裁が誰であろうと私たちの多くは気にも留めていないのです。
“今回、落選したら俺の人生はもう終わりだ”。
こう述べていた竹馬の友は激戦の末、選挙区で落選、比例で復活当選を果たしました。自民党再生のために人生を賭けると意気込んでいます。
経済が右肩上がりの時代であれば、利益誘導型の政治にもそれなりの意義がありました。時代は変わったのです。
“お前の考え方って民主党みたいじゃないか。
離党して民主党に行けば?”。
こんなことを自由に言い合えるのも幼馴染だからこそ。一方的な私の言い分を聞かされる彼が気の毒な気もします。
組織に縛られ、組織に迎合することで一政治家の運命が決まる。これは紛れもない事実です。だからといって野に落ちた党の首班指名さえも縛られてしまうのだとすれば、その政党が自由で民主的な政党なのか甚だ疑問です。
自由民主党が真に民主的な政党に再生されたとき、そのときに日本の2大政党制が始まるのではないでしょうか。