◆2009年5月31日
第1話
“私のこと愛してる?”
って聞かれてさ、
“もちろん愛してるよ”
って答えたのよ。そしたら急に機嫌が悪くなっちゃって、もう何が何だか分かんなくなっちゃっやよ。オンナってわかんねえなあ。
解答⇒“高い買い物したいんだけどぉ”。 ジャンジャン!
第2話
“静かで気持いィ~”。
“そうだろう。たまにはこういうデートもいいと思ってさ”。
“こんな景色見るの何年ぶりかしら?”
“ゆっくりしようよ”。
海が見たいっていうからさ、久々に遠出したんだよ。でもさあ、その晩は盛り上がらなくってさあ、オンナってわかんねえなあ。
解答⇒“退屈なデートだにゃあ”。 ジャンジャン!
第3話
“あっ、新しいランジェリーだ”。
“恥ずかしいっ”
“恥ずかしがることないだろう”
“明かり消して”。
いつもは電気点けっぱなしでエッチするのにさあ、昨日は消せってうるさいんだよ。見たことないセクシーな下着だったらから褒めたわけ。そしたら急に泣き出しちゃってさ。オンナってわかんねえなあ。
解答⇒“太ももがたるんできたのよ”。 ジャンジャン!
第4話
“最近、私、落ち込んでるの”。
“どうしたんだ?”
“(無言)”。
“大丈夫か?”
“ちょっと深刻かも”。
“じゃあ、旅行なんか行ってる場合じゃないか?”
“行く~”。
落ち込んでるって言うから、凄く心配してたわけ。サプライズで旅行を計画してたんだけど、こんな状況じゃ旅行どころじゃないかなって思ってたのよ。そしたら旅行には行きたいって言うわけ。オンナってわかんねえなあ。
解答⇒“最近、マンネリだった”。 ジャンジャン!
第5話
“メール書いたの送信し忘れちゃって”。
“そうなんだ”。
“私ってバカだから”。
“気にするなよ”。
書いたメールを保存しちゃって送信し忘れたらしいのよ。そんなこといちいち話さくってもいいのに。そんなにオレって愛されてるのかなあ。オンナの愛情表現ってわかんねえなあ。
解答⇒“昨日の浮気はバレなかったかなあ?” ジャンジャン!
◆2009年5月30日
人種の坩堝、ニューヨーク。誰がどの国からやって来たのか、観光客なのか地元の人なのか、顔を見るだけでは判別がつきません。
“今日、マンハッタンで面白い光景を見たんですよ”。
MET社の徳さんから電話が入りました。
“集団で歩いている人たちなんですけど、
皆マスクをしているんですよ。
キョロキョロしながら早足で立ち去っていったんですけどね(笑)”。
新型インフルエンザの影響で日本人が探しやすくなったという話には思わず苦笑してしまいました。過剰に反応しすぎる日本人と鈍感すぎるアメリカ人。この話題で大いに盛り上がりました。
私がもっと驚いたことは徳さん自身がニューヨークで新型インフルエンザ感染者がいることすら知らなかったということです。飲食店に置いてある日本語のフリーペパーを見て初めて気づいたそうです。
“福澤さん!
今、ニューヨークでインフルエンザが流行しているんですか?”
“僕に聞かないで(笑)”。
マスクをして出勤するニューヨーカーの姿が日本のメディアで報道されていました。でも実際にそういう人がいるとは思えません。
“Is mask available?”
私はドラッグストアでマスクを買い求めたことがあります。初めて渡米したきのことです。マスクのことを説明するだけで四苦八苦したことを覚えています。結局マスクは見つかりませんでした。水枕も探したことがありますが、見たことはありません。日本とアメリカではこれだけ事情が違うのですね。
”マスクをした集団の写メを撮ったんですが、ご覧になりますか?“
それほどマスクは珍しい?
◆2009年5月29日
“多くの批判された人々は銅像になっているが、
批判した人々の銅像はひとつもない”。(Colin Turner)
人として、スピーカーとしていちばん避けなければならないのは人畜無害の人間になってしまうことです。誰もアナタを批判しない、噂話もなければ話題にされることもない。こうなったらおしまいです。
批判されることに怯えるあまり、一本筋の通ったアナタを磨くチャンスが奪われてしまう。これほど愚かなことはありません。批判されるのはアナタが刺激的であることの証です。アナタを批判する人が存在していること自体に大きな意義がある。こう考えれば右往左往する必要はないのです。
“いい人ですね”。
人からこう言われたら末期です。
“アイツさえいなければ安泰なのになあ”。
陰でこう言われることが大切なのです。
毒がない人は皆から”好かれ”ます。でもこれは幻想です。こういう人は単に邪魔にならない“普通の人”なだけなのです。アナタの体に潜む毒を取り除いてはいけません。毒こそがアナタがアナタらしく生きていく起爆剤なのですから。
バラの花にはトゲがあります。トゲを取ってしまうと早く枯れてしまいます。だから花屋さんではトゲがついたままバラの花を売っているのです。
◆2009年5月28日
“What you say doesn’t make sense”
日本語に訳せば、
“君の言っていることは意味をなさない”。
チョイト堅い? 平たく言えば、
“バカじゃん”
という意味です。
英語では日常的な表現です。言い方や状況にもよりますが、こう述べて喧嘩腰になることはないように感じます。
“I like you very much. (君のことは好き。)
But what you say is not acceptable.”(でも言っていることは受け入れられない。)
意見に対する攻撃と個人に対する攻撃。両者の住み分けを明確にする言語が英語です。
さて、日本語は? 相手の言っていることがよく分からない、受け入れることが難しそう。こんなとき日本人はどう反応するかは興味深いテーマです。
すべてを丸く収め、角が立たないようにする。これが日本の美徳です。面子に配慮することにも敏感です。
厄介なのは日本語では意見と人格をワンセットで考える傾向が強いということです。
“その考え方って普通じゃないと思わない?”
“えっ。文句あるの?”
”文句じゃないよ”。
“よく平気でそんなこと言えるわね”。
“ちょっと思っただけだよ”。
“私のこと嫌いなんでしょう?”
こうなると収拾がつきませんね。弁塾の塾長がオロオロする場面でもあります。
相手の人格を攻撃しようなど毛頭考えてはいない。それでも相手は人格までをも否定されたと思い込んでしまう。だとすれば、日本語を“操る”には相当の労力を要することになります。
“アナタの人格を否定するつもりはありません。
でもおっしゃっていることには賛成しかねます”。
ますます角が立つ日本語になってしまいました(笑)。
◆2009年5月27日
野球をしたことのない人にボールとミットとバットを持たせたらいったいどうなるか? 党首討論を見ながら私はこんなことを考えていました。
集団で討論することがdiscussion、二者で議論することがdebate、麻生総理と鳩山代表がおこなった党首討論はdebateです。
野球と同様、debateにはルールと審判が必要です。ルールもない、審判もない、だから今回のようなドタバタ劇になってしまうのです。
欧米流のハイレベルなdebateでなくてもいいから、先ずはテーマ(proposition)を決め、それに沿って話し合いを盛り上げる。とりあえずこれだけの“ルール”が守られればいい。
口火を切ったのは鳩山氏です。テーマは“友愛社会”でした。
“他人の幸せが自分の幸せだと感じることのできる社会が友愛社会だ”。
これが友愛社会の定義で、それを実現したいというのが鳩山氏の主張なのでしょう。ならばその主張から話を逸らしてはいけません。最後まで友愛一点に絞って麻生総理に迫る。これが鳩山氏がすべきことだったのです。逸れて、逸れて、また、逸れる。そして感情的になる。怨念だけが残り、誰の目から見ても後味の悪い“ディベート”になってしまうのです。
審判がいないとどちらが勝ったか分からない。これでは面白みに欠けてしまいます。評価が戻ってこない模擬試験のようなもの、これでは志気が高まりません。
民間から審判を募る。ディベートの知識が豊富であれば国籍や性別を問う必要はないと思います。採点結果を公表し、勝者を決めのです。制度の導入は至極簡単なことではないでしょうか。
ディベート途上国の日本にディベートが根ざすこと、無理矢理にでも根ざさせること。これが急務であり、私の責務でもある。私はこう考えているところです。
◆2009年5月24日
“How come you just talk about chemistry?”
(何で科学の話ばかりするのか?)
こんな質問をして恥をかいたことがあります。“ケミストリー”とは英語で”相性“のことです。人と人が出会えば化学反応が起こり、新しい関係が築かれる。相性がよければgood chemistry、相性が悪ければbad chemistryということになります。
“Kojiとは相性がいいので、一緒に仕事をしていて楽しい”。
こういう文脈で会話が弾んでいる矢先の出来事でした。私がピントの外れた質問をしたため、皆が一斉に笑い転げてしまったのでした。英語のスピーチを専門に教え始めた頃の私の経験です。
“人と人の関係は化学反応だ”。
なるほど面白い。好きな人は大歓迎、少々、嫌いな人でもケミストリーの発想で歓迎してみる。そのうち化学反応が起こって仲良くなるかも知れない、いや、仲良くなるに違いない。こういう狩猟民族の発想は見習ってみる価値はありそうです。
農耕民族のDNAなのか、あるいは性格なのか、私はチョッピリ好き嫌いが激しい。一見フレンドリーで誰とも仲良くできるのですが、そういう自分が苦痛に感じられることも少なくありません。要するに人間が未熟なのです。
“アイツとは相性が悪いからなあ”。
こう感じた途端にお付き合いを控えてしまう私がいます。自分のことは棚に置き、人のあら捜しばかりしてしまうのです。おそらく相手も同じような感情を抱いているはず。 たから新たなケミストリーは起こらないのです。
“とにかく人間関係はケミストリーなのだ。
化学反応を楽しんじゃえばいい”。
こういう発想で相性の悪そうな人にも声をかけてみる。誘われたら喜んで歓迎する。そして新しいケミストリーを謳歌する。これが肩の凝らない人間関係なのではないか、私はこう考えています。
◆2009年5月23日
桜井邦朋氏は『考え方の風土』の中でこう述べています。
“(日本が)自分の意見を持たなくても大人として生きていかれる国であることは、暮らしやすいに違いないが、こうした世界では、思考が感覚的となり、散漫となることを免れない”。
日本人はスピーチが不得意だといわれます。でも実はそうではなく、自分の意見を持っていないので、それが言葉にならないのではないか。だから結果としてスピーチが不得意なのではないか。ふとこんなことを考えてしまいました。
“選挙に行ったって日本が変わるわけじゃない”。
これは意見ではありません。あきらめの感情です。
“税金ばかりとりやがって”。
これは、ぼやき。
“自分の生活さえ守られればそれでいい”。
これは、エゴです。
あきらめ、ぼやき、エゴではなく、どんな日本が理想の日本なのか、どんな社会が理想の社会なのか、一本筋の通った持論を展開する、あるいは、それができる。こういう日本人の数の多さに比例してこの国の未来が切り開かれていくのではないか、私にはそんな気がします。
人に受け入れられることのみを自分の“意見”とする。このことが村社会の掟なのだとすれば、日本は議論をしたり、自分独自の意見を持つことが難しい国ということになります。
意見を仕切るのはもっぱら体勢の側。民はそれに背かないことのみを礎(いしずえ)とする。これでは奴隷と変わありません。自分が奴隷であることさえも気づかないのだとすれば不幸です。
“日本には、理屈、いい代えれば、論理的な思考を妙に卑しみ、さげすむ傾向が大人たちのなかにはある”。
桜井氏の言葉は私の胸にグサリと突き刺さります。
◆2009年5月22日
“いい話があるんです。
未公開株なんですけどね。
訳ありなんですよ”。
延々と話を続ける彼の姿を見て私が感じたのは、
“生き様は顔に出る”
ということです。
つい最近、マスコミを賑わした人物です。詐欺(fraud)事件で逮捕され判決は執行猶予。本人は最後まで無実を主張していました。
まず驚いたのは彼が饒舌(eloquent)だということです。話に隙がない。しかも楽しい。聞いていて飽きがこないのです。
“お金には興味はないんですよ”。
こういう言葉を返す以外に断る手段がない、そう感じさせるくらいに彼のトークは“完ぺき”でした。
どれほど心豊かに生きてきたか、どれほど人を愛し愛されてきたか、そして、どれほど自分に正直に生きてきたか。こういうことすべてが顔全体に表れる、こんなアタリマエのことを再認識することができたような気がします。
彼が繰り返し使った言葉、それは、
“信じてもらえないかも知れませんが。
僕も知らなかったんですが。
これも縁だと思います。”
こういうフレーズを絡めながら”儲かる”話を淡々を行う人の顔がどんな顔なのか。それは、精進・努力とは無縁の薄っぺらな顔、人から愛されたことがないような寂しい顔でした。
◆2009年5月21日
“直感(hunch)が正しい”。
2者択一を迫られて迷った挙句、ハズレを選んでしまう経験は誰にでもあると思います。
“ほら、やっぱりだ。
こうなると思ってたんだよな”。
ハズレを選んだ人の弁です。
“どうしてうまくいかないのかなあ?”
妙な反省をするとますます直感力が鈍くなっていきます。データや他人の声が気になり始めます。ネットという便利な道具も登場しました。そしてますますアタリから遠ざかってしまうのです。
直感力と右脳の関係を饒舌に話してくれた友人がいます。
“右脳を開発するといいよ云々”。
なるほど話は面白かった。でもその人がFXでいつも損をしているのはなぜ?(笑)。
“直”に“感”じているのはアナタ自身です。そういうアナタの皮膚感覚に素直に生きてみる。背いたり後悔したりはしない。そういう生き方をしている人の直感が実はいちばん当たるのではないか、私にはそんな気がしています。
私たちの体は宇宙から飛来した元素で構成されています。人間はみな宇宙の子です。東から登る太陽を素直に受け入れ、西に沈む太陽も素直に受け入れる。そういう宇宙の法則に逆らわずに真っ直ぐ生きる人。2者択一を迫られたり、決断を下さなければならないことをも楽しむ心の余裕のある人。そういう人の直感が実はいちばん当たるのだと思います。
今、アナタが家族、友人、恋人から愛されているのはなぜか? それは既にアナタ自身に最高の直観力が備わっているからなのです。
◆2010年5月20日
“どんな女性が好きですか?”
女性からこういう質問を女性されたとき私は、
“底が見えない女性”、
と返答することにしています。
少しだけ言い換えると、
”底をけっして見せることのない女性”、
このほうがより正確です。
“アナタに私の底なんて見えているはずがないわ。
オンナはしたたかなのよ”。
こういう声が聞こえてきそうです。そもそも人間の“底”など誰にも分かるはずがありません。男女の仲ならなおさらです。要は実際に“底”が見えたかどうかではなく、見えた気になるかどうかという問題です。
“男にはペニスが2本ある”。
これが私の考えです。いったん“底”が見えてしまうと心の中のペニスが萎えてしまうのです。理想は双方のペニスが常時、活発でいる続けること。だから私は女性の“底”が見たくありません。見えないほうがいいのです。
“付き合い始めは優しかったのに、
最近のカレったら素っ気ないのよね。
倦怠期かしら?”
こういう問題ではありません。カレにはアナタの“底”が見えてしまった。実際に見えてるかどうかは別として彼の心の中のペニスが反応しなくなってしまったのです。
“底”が見えた女性は男にとってはウザく感じられてきます。優しくしようとする気も失せてしまいます。そして、“底”が見えない別の女性に目が向くことになるのです。
浮気をしたカレを責める前に女性としてのアナタが“底”を見せてしまってはいないかどうか、今一度チェックをしてみてはどうでしょうか。2本のペニスを刺激することのできるアナタからカレが離れることはありません。
ソコは見せても“底”は見せない女性でい続ける。このことが大切です。
◆2009年5月19日
欧米人との交渉に行き詰ったら、
“It’s unfair.”
と叫べばいい。
ガイジンを一瞬だけでも黙らせることのできる打ち出の小槌、それがunfairという言葉です。彼らの人間関係は、
“You and I are equal.”
を前提として成立しています。だからunfairという言葉に敏感に反応するのです。
ビジネス交渉とはそもそも不利な状況を相手に受け入れさせること。フェアでないことは相手の側も承知しているのです。そんな場面で、
“We understand what you say, but ”
などと、ボソボソ呟くから舐められてしまうのです。これでは相手の側からもリスペクト(respect)されません。議論すべきは議論する。そういう意思を鮮明に打ち出すことが“フェア”な交渉なのです。
タフ(tough)な条件を提示されて喧嘩腰になる必要はありません。
“予想以上に厳しい条件を提示してきたなあ。
こう思ったらそれをダイレクトに伝えればいいのです。相手がタフ・ネゴシエーター(tough negotiator)であることに敬意を払い、それはそれで評価する。そういうフランクな弁(speech)を彼らの側も求めているのです。おたがいの一致点をこちらの側から積極的に提示・リードする。こういう姿勢が信頼関係をも生み出すのです。
“See you tomorrow at six!”
(明日6時に会おう!)
“Fair enough.”
(いいね。)
fairはこんな場面でも用いられます。意見が一致する感覚、それがfairの本質なのです。
◆2009年5月18日
“Maybe I’m a little fool.
Would you kindly rephrase your point once again?”
力を入れて取り組んだスピーチ、そのQAでジャッジにこう質問をされたことがあります。“rephrase the point”とはつまり
“よくわからないからもう一度説明してよ”
ということです。即興(impromptu)スピーチではありません。予め原稿を用意し、文法や用語の吟味にも気を配り、推敲に推敲を重ねたスピーチです。それが、
“人には伝わらない”。
こういうショッキングな体験の積み重ねが今の指導に役立っている。う勝手にこう思っている私です。
受け入れてもらえるとか賛同してもらうことか、そういう次元ではなく、先ずは、聞き手の側に理解してもらうこと。これが最優先課題です。
一文一文は完ぺきであってもダメ、全体を通して言いたいことが理解され得るものなのか、このことがスピーチを成功させるための要です。
皮肉にも時間をかけて取り組んだプリペアード・スピーチ(prepared speech)は不評でしたが即興のQAは好評でした。
“You shouldn’t have prepared so well.”
“そんなに準備しないほうがよかったね”
準備すべきは、不完全なスピーチを推敲・吟味することではなく、言いたいことを鮮明に打ち出すこと。こんな単純なことなのです。このコツを感覚的に掴んだ人。こういう人は皆スピーチが上手になっていきます。
背景説明や具体例、比喩、喩えに心を奪われて核心部分が疎かになっていないかどうか、今一度、アナタのスピーチを再点検してみてはいかがでしょうか。
◆2009年5月17日
言いたいことがある。それを聞き手にダイレクトに伝える。そして失敗する。
“だからスピーチは嫌い、難しい、面倒”。
こういう声をよく耳にします。
スピーチを成立させるための条件、それはアナタが言いたいことと、聴衆が聞きたいこと、それらが完全に一致することです。スピーチは聞き手中心 (listener-oriented) でなければなりません。独りよがりのスピーチは単なる“たわ言”です。
“たわ言”がスピーチだと思い込んでいる人が意外に多い。
“キミはそのことを知らないんだね。
私が教えてあげよう”。
余計なお世話です。
“そんなやり方じゃあ成功しない。
こうすればうまくいくぞ”。
これも余計なお世話。
“どうだ。
面白いだろう?”
これら“たわ言”はどれもこれも聞き手のニーズから的を外れています。そのことに気づかないまま延々と”たわ言“を言い続ける。そして聞き手に拒絶されてしまうのです。
演壇の前に立って喋ることだけがスピーチではありません。日常生活でのトークすべてがスピーチです。
アナタの目の前にいる人の望みをアナタの肉声を通して叶えてあげる。こういう心構えが出来ている人。そういう人が皆から慕われるリーダーになれるのです。
◆2009年5月16日
“What’s the point?
Come on.
Tell me!”
言いたいことはズバリ言う。枕詞は一切排除してお互いウィン・ウィンの関係を築く。問題があればその場で即解決。そして固い握手を交わす。
英語でビジネスをするのはある意味、非常に簡単なことです。余計なことは考えない。、仕事はお金と割り切っる。そうすれば事はすべてスムーズに運ぶのです。
“国際社会で日本式は通用しない”。
たしかに面子やわび、さびを欧米人に求めたところで理解されるはずもありません。だから私自身、彼らと接するときには頭の中を“欧米化”させることになるのです。
“日本人はバカだから困る。
Kojiは分りやすいから好きだ”。
ここまで言われると黙っているわけにはいきません。日本男児のDNAに火がつき心の中の剣を抜きたい衝動に駆られてしまうのです。
さて、私は今、本郷の能楽堂に来ています。少しばかりの台詞すら理解できない自分がいます。小学生の息子に能が何たるか、その歴史すら語ることのできない父親、それが私です。現代日本で記された小冊子すらまともに解釈することができない、そんな不甲斐なさに心が折れそうな気持にさえなってしまいます。
お能は質素な芸術です。美点を強調するのではなく、美点をあえてほんのり隠して見せることによってより強く感じさせる、こんな奥ゆかしさを私は感じ取ることができました。物事の表面に囚われることない、秘められた力強さと華やかさ。こんな感性を呼び覚ましてくれたのが今日のお能鑑賞でした。
言葉と文化は切り離して考えることはできません。どちらが欠けても片手落ちです。日本語を教える立場に身を置く私の精進すべき方向をお能が鮮明し映し出してくれた気がします。
◆2009年5月15日
思いついたことをポンポン喋るのが会話、まとまりのあるトークに仕立て上げるのがスピーチです。会話もスピーチも話し方という言葉で片付けようとする悩むことになります。
“1対1の会話は得意なんです。
でも大勢の前で話すとダメなんです。
どうしてでしょうか?”。
こういう悩みを抱えている人が多いようです。
スピーチは映画やミュージカルのようなもので台本と監督が必要です。セリフを考えるのはアナタ、監督をするのも、主演するのもアナタです。すべての段取りをアナタ自身ですべて仕切る、これがスピーチです。
子どもが活躍する運動会のビデオ映像がなぜ他人には面白く感じられないのか。会話の羅列のようになんとなく撮った映像だからです。スピーチも単なる言葉の羅列ではダメなのです。
“なんでもいいから皆の前で喋ってごらんなさい”。
日本の教育現場ではこういうトレーニングをあまり行ってきませんでした。社会人になって初めてスピーチやプレゼンをする人がほとんどです。メガホン片手に映画監督を演じろと急に言われても戸惑うのは当然ですね。
日本の政治家のスピーチが国民に伝わり難いのは彼らの多くが会話のノリでスピーチを行うからです。大声で連呼することがスピーチではありません。演台の前に立って話すことがスピーチではないのです。
志が高く、日本を変えてくれる実力者であっても、真意が国民に伝わらなければ意味がありません。そういう政治家が多いのは残念です。一日もはやくディベート、スピーチ教育を導入することが急務です。小学生に英語教育を施すこと以上に大切なことだと思います。
◆2009年5月14日
挙党一致を優先させた小沢一郎氏の判断が凶と出るか吉と出るか、それは総選挙後に分ることだと思います。ダーティーなイメージを払拭し与党自民とどういう戦いをするのか、今から楽しみでもあります。
”自民と民主はどこがどう違うの?”
小学生の息子に質問されても私自身、返答に戸惑ってしまいます。反自民、反与党であること以外に明確な違いが見えてこないからです。
“官僚政治を打破します”
とは小沢氏が繰り返し述べてきたことです。でも、これで庶民の生活がよくなるわけではありません。犯罪や不幸な事件が減るわけでもありませんし、景気がすぐによくなるわけでもないのです。国民が真に求めていることは実生活に根ざした生活の諸問題です。高速道路料金の一律1000円は予想以上に好評でした。庶民はお得感が大好きなのです。
“政権交代をしなければ日本はダメになる”。
これが民主党の掲げるスローガンです。でも、
“政権交代をしたら日本はもっとダメになる”。
こういう不安も国民にはあるのです。農耕民族は安定志向です。不安を払拭しない限り、圧倒的なリーダーシップを発揮しない限り、国民は現状維持政党を選択することになるのです。
小沢氏を辞任させること以上に大切なこと。それは自民党と民主党の明確(concrete)な違いを列挙し、国民に知らしめることです。与党叩きはメディアに任せ民主のビジョンを高らかに謳いあげるのです。このことが民主党にはできていません。
民主党のもうひとつの弱点。それは理想を実現する財源の説明が脆弱なことです。
“無駄をなくせば財源は確保できる”。
ほんとうにそうなのか。かつての日本のリーダーの孫VS孫の総選挙が間もなく始まります。
◆2009年5月13日
“私のために何をしてくださるのかしら?”
“残念だけど何もしてあげられないんだ”。
“あら、どうして?”
“君だって何もしてくれないじゃない”。
こういう末期の男女関係と今の日本が似ているような気がします。ケネディー大統領が就任演説で語った、
“Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country.”
は今の時代にも通じるものがあると思います。日本が我々を幸せにしてくれるのではなく、我々一人ひとりが自助努力で幸せになる。そして、結果として豊かな国家が出来上がる。こういう姿勢が実は非常に大切なのです。
“政治家は何もしてくれない”。
こういう声も聞こえてきます。たしかに政治家はアナタの家を修理したり、肩を揉んだりはしてくれませんが、我々はみな間接的な恩恵を受けているのです。このことに無頓着ではいけません。
“じゃあ、何をすればいいのか?”
この質問は私自身のテーマでもあります。明確な答は出せないまま日々を生きているというのが正直なところです。先ずは今の自分の仕事に切磋琢磨する。このことによって社会的な貢献をする。月並みですがこれが正直な私の気持です。
自民党もダメ。民主党もダメ。その他大勢もダメ。でもアナタ自身はどうなのか? 私自身はどうなのか? このことを真摯に考えてみれば我々国民が何をすればいいのか、より鮮明に分るのではないでしょうか。
塾長日記が更新されていないことで多くの人たちから失望のメールをいただきました。私のすべきこと、私ができる社会貢献はあまりにも明白です。