◆2009年12月31日
“黒人の大統領なんてあり得ない。
なったとしてもすぐに暗殺されるはずだ”。
つい数年前にはこういう意見が大半だったアメリカで今、何が起きているのかは周知の通りです。
かつてキング牧師は“I have a dream”という演説を行いました。暗殺されることを覚悟の上での名演説でした。そして今、牧師の夢はオバマ大統領の出現という形で達成されました。
夢の達成には時間がかかります。多くの挫折も味わうことでしょう。それでも歩みを止めることなく夢を追い続ける。その大切さを若者に語り続けていくこと、これこそが大人の責務だと私は考えています。
挫折の数々を机の上に並べて、
“ほ~ら。
やれるもんならやってみろ”。
こういう脅しをかけて若者を萎縮させてしまうことが私たち大人のしていることだとすれば、今の日本の若者は不幸です。
若者は皆未熟です。実現不可能だと思えるような夢を次から次へと語ろうとするものです。でもそれでいい。それが若者です。
“太陽を西から昇らせてみせる!”
こういう“たわ言”にこそ耳を傾け、鼓舞、激励する。教師、上司、親の責任は重大なのです。
夢が実現しないことを証明することが大人は得意です。これがどれほど罪深い行為なのか、大人は肝に銘じるべきです。
かつて日本の首相が語った“美しい国”とは若者が夢を追い続けることのできる国なのではないか。私はこう考えます。
◆2009年12月30日
“ねえ、幸ちゃん。ウェンディーズって知ってる?”
大学の学食にあったのがモス・バーガー。街中に溢れていたのがマクドナルドでした。
“ちょっと高級だけどとっても美味しいのよ”。
当時のガールフレンドに連れられてやってきたのが恵比寿のウェンディーズでした。モスやマックと比べると明らかに客層が違っていてチョッピリ緊張したものです。
英語に熱中していた私たちはデートのときも英語で話をしていました。拙い英語を使ってオーダーをしたことを思い出します。
“テイク・アウトって英語だよな”。
“うん、でもあまり聞かないよね”。
こんなことを英語で語りながら、イーティング・ヒアー(eating here)やトゥ・ゴー(to go)といった会話の練習をしていた私たちです。今から25年以上前の話です。
“Two coffees, please.”
とオーダーをしているガイジンの英語に感動したこともありました。学校では“two cups of coffee”と教えられていたからです。日本を1度も出たことのない当時の私にとってウェンディーズは異文化との出会いだったのです。
息子を連れて思い出の地、恵比寿にやってきました。行列が出来ています。
“パパはここで勉強してたんだね?
肉の形が四角なんだ。
タマネギも美味しいね”。
マック世代の息子には何もかもが新鮮のようです。
◆2009年12月29日
ある外科医のところに隣町から治療を受けに来た男がいました。外科医は、
“隣町に外科医がいるのにどうしてワザワザここまで来たのか?”
と尋ねました。するとその男はこう言いました。
“私がその医者なんです”。
スピーチを成功させるいちばんの近道は何なのか? それは聞き手を笑わすことです。
話の内容、言葉の使い方、抑揚、強弱、緩急、間(ま)等々、技術面の大切さは言うまでもありませんが、それ以上に大切な要素が笑いです。
人は笑いに飢えています。笑わせてくれる人が皆、大好きです。スピーチにもこのことが当てはまります。
笑わすことを難しく考える必要はありません。素材はアナタの回りにたくさんあるからです。失敗体験がその例です。
失敗体験は上手なスピーチをするための宝庫です。これを活用しない手はありません。恥ずかしかったことや騙されたこと、あるいは誤解されてしまった体験も笑いを生み出すための立派な材料です。
“私には笑いのユーモアのセンスがないんです”。
英語のhumor(ユーモア)とはhuman(人間)が変化してできた言葉です。ユーモアは私たちの生き様の中に既に存在しています。だからセンスがないと嘆く必要もなければ、磨く必要もないのです。自分が体験したこと、失敗したことを素直に表現すれば、それがユーモア溢れる笑い話になるのです。
◆2009年12月28日
“人間が他の動物と異なる点は、人間は最も模倣的な動物であって、人間の最初の知識は模倣を通じてなされるという所にある”。(アリストテレス『詩学』)
スピーチに関する相談で最も多いのが、
“うまくできない”
というものです。
私たちは親、兄弟、先生に囲まれながら母国語を自然に身につけてきました。オギャーと生まれた瞬間から日本語を模倣(mimic)する機会に恵まれて育ってきたのです。
スピーチに関してはどうでしょう。 母国語を身につけると同じように誰かのスピーチを模倣するチャンスがあったでしょうか。このことについて振り返ってみれば日本人の多くがスピーチを苦手とする理由も明らかでしょう。
“私もあんな風にスピーチがしてみたい!”
心の底からそう思えるような体験値が実に少ない。取ってつけたような自己紹介や面白みに欠ける授業、こんな“負の体験値”ばかりを積み上げて私たちは大人になってしまったのです。スピーチ上手になるための土壌が日本には育っていません。
“下手でもいいから頑張ってみましょう”。
下手でいいはずがありませんね。巧みで華麗でしかも面白くなければスピーチではないのですから。
オバマ大統領の出現は日本人に大きな影響を与えてくれました。オバマを真似てみたい、彼のように話がしたいという衝動は実に大切です。
スピーチが上手になる秘訣、それは生まれ持った能力にあるのはなく、真似てみたい、模倣してみたと感じることができる人がいるかどうかにかかっているのです。
◆2009年12月27日
“有馬って荒れるのよね。
幸ちゃん、去年も当てたんでしょう?”
こんな風に甘い声で囁かれると私の“知ったかぶり病”が発病してしまいます。
“ねえねえ、秘密の穴馬券、教えてよ”。
こう言われてしまうと、もう、本命馬を口にすることはできません。心の中では
“⑨ドリームジャーニーで決まり!”
と心に誓っていた私です。でも、私の口から出てきた言葉、それは、
“今年も荒れるぞ~”。
本命が来ると思っているのに、それを素直に表現できない私がいます。ああ、情けない!
オトコという人種は女性に頼りにされることを生き甲斐にしています。頼りにされることがたくましく生きていくために必要不可欠なエキスなのです。
“凄いっ”。
こう言われたい。
“見直しちゃったわぁ”。
こうも言われたい。
“ステキ!”
これもいい。
オトコはこんな言葉が囁かれるのを密かに期待しているのです。大穴馬券を当てて褒めてもらいたい、頭をナデナデしてもらいたいのです。“知ったかぶり病”につける薬はありません。
新聞やネットで仕入れた大穴情報を次から次へと語り始める私がいます。もはや自分で自分の言葉を制御することはできません。
さて・さて、私が推奨した穴馬は馬群に沈んでしまいました。来たのはアレアレ・やっぱり私が心に誓ったドリームジャーニー。
“残念だったわね。
でも楽しめたわ。
今度は穴を当ててね”。
なんと優しいお方でしょう。オトコはこんな言葉にも弱いのです。でも、
“実はオレ・三連単を買ってたんだよなあ”。
なんて口が裂けても言えませんね。
今年の有馬はストレスが溜まりました。
◆2009年12月26日
“危ないお金には手を出さないで。
我が家にはお金はたくさんあるんだからね。
このお金を政治活動につかって総理大臣になるのよ”。
ブリジストンの株の配当だけて年間3億円、時価総額で数百億を持つ資産家のお坊ちゃまにとって、月々1500万円は端(はした)金なのでしょう。
鳩山首相自身に罪の意識が欠落していることは、
“私腹を肥やしたつもりは一切ない”。
の発言からも明らかです。
生まれた瞬間からお金のありがたみや苦労とはおおよそ無縁の暮らしをしてきたことはある意味、気の毒でもあります。
“資財を投げ打って何が悪いのか?”
もしかしたらこれが一族の本音なのかも知れません。
問題は脱税に関する感覚が希薄だということ、この一点です。
かつては政治活動や庶民のために資財を投げ打った政治家や実業家が日本にはたくさんいました。政治で金儲けをしない、投げ打った資産で社会悪を撲滅する、貧困層を救おうとした人たちです。かつての“井戸塀政治家”という言葉はもはや死語になってしまったのでしょうか。
民主党は国民の総意で選んだ政党です。最高責任者が鳩山由紀夫という人物です。彼の不正を擁護する理由は一切ありませんが、同時に、彼の気概を信じ見守る姿勢も選択肢のひとつなのではないか、私にはそんな気がします。
庶民感覚からずれているということだけに敏感になりすぎる、このことで本質を見失うと損をするのは私たち国民です。彼を辞任に追い込むことで得られることは微小なのですから。
◆2009年12月25日
受験生の英作文を久々に採点する機会がありました。
“今時の若者はどんな英文を書くのだろう?”
意外にも皆上手く書けていることに少々驚いてしまいました。どの解答も個性があって実に面白い。こんな若者たちが将来の日本を背負っていくのかなあ、などと感傷的な気分に浸ってしまいます。
昨今の英作文は“自由英作文”。自分の意見を制限字数内で記述する出題です。
“冠詞に関しては厳しく減点してください。
時制のミスは大減点。
綴りの間違いは一箇所につきそれぞれ減点してください。
文法的なミスはどんどん減点してください”。
こんな趣旨の採点基準を渡されました。
内容は素晴らしい。そんな解答でも基準に従って減点をしていくと、どんどん点数がなくなってしまうのです。
“点数は0点ですが、全体として上手に書けていますよ”。
こんなコメントで子どもたちが喜ぶはずもありません。だからといって甘く採点するわけにもいかない。そんなジレンマ(dilemma)に陥りながら淡々と仕事をこなした私です。
大学入試の現場で採点がどう行われているのか、私にはこのことがいちばんの不安です。ほとんどの大学では正解を公表していません。自由英作文の採点基準など、一切が非公開なのです。開示を求める声すら上がらないことは実に不思議です。
“日本人が採点したら30点。
ネイティブ・スピーカーが採点したら70点。
平均をとって50点”。
ある大学の担当者から聞いた実話です。
こんな採点で合否を決められてしまうのだとすれば悲劇ですね。
◆2009年12月15日
私が子どもの頃は、“よそいき”という言葉をよく使いました。父のポマードを借りて頭は七三分け、買ったばかりのブレザーを着込み、靴はピカピカ。近所のおばさま方が、
“あら、幸ちゃん、今日はよそいきなのね。
どこに行くのかしら?
カッコいいわよん”。
などと声をかけられたものです。
今ではバッチリ決める“よそいき”は流行らなくなりました。何気なく着こなすのがお洒落な時代です。
スソがボロボロに破れている私の綿パンを見て、
“What a cool!”
こんなことを言われてキョトンとしていたのが私が学生の頃でした。買ったばかりのポロのパンツよりも着こなしたほうがカッコいいというわけです。
アバクロ(Abercrombie)がアメリカで大ブレークしたのはこういう時代の流れなのでしょう。胸の刺繍や糸のほつれこそがアバクロの最大の魅力であり特徴なのです。
“アバクロを息子に着せたいなぁ”。
ハワイに行けば誰でもアバクロの商品を買うことができます。でもキッズの商品はハワイでもマンハッタンでも扱っていないのです。私の闘志に火がつきます(笑)。
“おい、息子よ。
ニュージャージーのモールに行くぞ”。
息子にアバクロを着せて喜んでいる私はかなりのミーハーですね。でもそれで満足なのです。
さて、私の期待に反して息子はアバクロを着てくれません。
“パパ、僕ね、アバクロって好きじゃないんだよ。
新しいポロ、買ってよ”。
どうやら我が息子は昔ながらの“よそいき”が好きなようです。
そんな彼のことを私はオヤジ小僧と呼んでいます!
◆2009年12月14日
語学の学習にインプットは大切です。インプットとはつまり英語の表現をシャワーのように浴びることです。
問題は入れる量です。中学校から高校までの6年間、この期間に子どもたちが読む英文の量はNew York Timesの1日分にも満たないという事実。このことを軽視してはいけません。大学のゼミで学生が読む量もせいぜい原書、数冊程度でしょうか。これでは読んだことになりません。
“読めるけど会話は得意じゃないんです”。
こういう人がどれだけ読めるのかはNewsweekを一冊渡してみれば歴然です。読めるようでなかなか読めない人が圧倒的に多い。
英語が得意にならない日本人が多いのだとすれば、それは単純に読む量、インプットの量が少ないだけのことです。原因は思いのほかシンプルなのです。
“Time”がダメなら“Newsweek”。NewsweekがダメならReader‘s Digestでいい。これでもダメなら新聞でも雑誌でも何でもいい。無理なく読める英文に毎日触れること。これが英語上達のいちばんの近道なのです。
“時事英語なんて興味ないもん!
私は英会話がしたいのよん”。
こういう気持も分かります。英会話が上手になりたければ英会話本を片っ端から読んでいけばいい。隅から隅まで暗記してしまうくらい徹底的に読めばいい。
発音を勉強したり、映画を観たり、あるいはまた文法や文構造を研究することも大切です。方法論も色々あるでしょう。でもインプットを怠ってはいけません。
“6年間勉強しても英語ができるようにならないのはなぜか?”
大切なのは期間ではなく量です。
“入れときゃ、出てきちゃう”。
これが英語学習の古くて新しい絶対法則なのです。
◆2009年12月13日
“天皇は日本の象徴なんだよ”。
私たちは小学生の頃、こう教えられました。
“天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく”。
これが日本国憲法の第一条の内容です。
現憲法の原文が英語であることは皆さんもご存知の通り。英文では、
“The Emperor shall be the symbol of the State and the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.”
と記されています。
私が気になるのはEmperorの意味です。
“emperor; the man who is the ruler of an Empire”。
ロングマン英々辞典の定義によれば“エンペラー”とは統治者(ruler)を意味します。天皇が統治者であって象徴でもあるということに矛盾を感じるのは私だけでしょうか。
第四条には天皇が国政に関する機能を有しない(he shall not have powers related to government)とあります。明治時代の“天皇”とは意味合いが異なることだけは明確です。
天皇を象徴として存続させたかった当時のアメリカの意図はわかりますが、emperorという言葉をsymbol(象徴)という言葉で説明すること自体にそもそも無理があるのではないでしょうか。
“日本の憲法は日本語で記さなければならない”。
これが私の結論です。
日本を愛し、日本の歴史や文化に精通し、日本語がわかる私たちの手で憲法を起草すること。このことを排除する理由はないはずです。
“英語の衣を被った日本語”が今の憲法である以上、日本はアメリカの占領下であり続けると言えば大袈裟でしょうか?
◆2009年12月12日
帰宅したら手を洗う。こういう習慣が身についていない人がいます。私の息子です。
“ほらっ! 手を洗いなさい”。
私がこう言えば息子は渋々洗面所に向かいます。私が黙っていれば彼は決して手を洗わないのです。
“お前はどうして手洗いをしないんだ?”
“忘れちゃうんだよね”。
““ばい菌でお腹が痛くなっちゃうぞ”。
“お腹なんて痛くなったことないもん”。
こんな会話を何度繰り返したことでしょう。
新型インフルエンザが流行した今年は以前よりも手洗いをするようになりました。それでも忘れることがあるのです。
“一体どうすれば息子は手洗いをしてくれるのだろうか?”
これが私の悩みでした。うがいをすることに抵抗はないようです。そのついでに手を洗うことがどうしてできないのでしょうか。
“おい息子よ。
手洗いをしないことは嘘をつくことよりも悪いことなんだぞ”。
この一言が息子を動かしました(笑)。私が悩みから解放された瞬間です。
“パパ。嘘をつくことよりも悪いことがもうひとつあるよ”。
“なんだ?”
“あのね、新聞を読みながらウンチすることだよ”。
こんな息子も今日で12歳。言葉の遊びが楽しめる年頃になりました。
◆2009年12月11日
“戦争肯定は間違い”。
“良い戦争と悪い戦争があるのか”。
“戦争を肯定しながら核なき世界を目指すのは矛盾しているのではないか”。
広島と長崎でオバマ大統領の演説に対する失望や憤りの声が上がっています。
こういう反応が出るのも当然かもしれません。オバマ自身、演説の中で
“ときには武力は必要だ”。
と述べているからです。日本人にとってこれは刺激的です。
演説を隅々まで検証してみるとオバマ自身が実は平和主義者であることがわかります。彼が肯定しているのは戦争ではなく平和です。
前後の文脈(context)を無視すること、一部分のみを切り取って演説全体を語ろうとすると本質を見失うことになります。これは危険です。
アメリカは軍事力を背景に、また、世界平和という大儀を理由に、これまで様々な愚を犯してきました。その国の最高責任者が戦争と平和の問題を正面から議論しようとしていること、このことに大いなる意義を見出そうではありませんか。
演説を原文で読むことをぜひお勧めします。高校卒業程度の英語力さえあれば誰でも読めるはずです。ケネディー大統領やキング牧師の演説は難しくても、オバマの演説なら大丈夫なのです。
“私はこの声明に、マーチン・ルーサー・キングが何年も前に、この同じ式典で述べた思いを込めたい。「暴力は決して永続的な平和をもたらさない。社会的な問題を何も解決せず、もっと複雑な問題を新たに作り出すだけである」。キングのライフワークを引き継ぎここに立つものとして、私は非暴力の道徳的な力を信じる証言者だ。ガンジーとキングの信条と人生において、弱々しく、消極的で、ナイーブなものは何もないことを私は知っている。しかし国民を守り保護することを誓った国家のトップとして、彼らの例だけに導かれるわけにはいかない”。
(I make this statement mindful of what Martin Luther King Jr. said in this same ceremony years ago: "Violence never brings permanent peace. It solves no social problem: it merely creates new and more complicated ones." As someone who stands here as a direct consequence of Dr. King's life work, I am living testimony to the moral force of non-violence. I know there's nothing weak -- nothing passive -- nothing naive -- in the creed and lives of Gandhi and King. But as a head of state sworn to protect and defend my nation, I cannot be guided by their examples alone.)
◆2009年12月10日
“他の人が理屈に合わないと考えていることに対して満足が得られる説明を行うこと”。
これが英語の“justify(正当化する)”の定義です。to give an acceptable explanation for something that other people think is unreasonable。
さて、平和主義を名乗る人たちは異口同音に、
“戦争は正当化するわけにはいかない”。
という言葉を口にします。
私自身、このことに異論を挟むつもりはありません。論破するだけの知識も持ち備えていません。ただ、戦争の正当化を認めないということを前提とすると議論が行き詰ると感じるのは私だけでしょうか。
オバマ大統領はノーベル平和賞授賞式の演説でjustifyという言葉を使いました。
“我々が生きている間に暴力的な紛争を根絶することはできないという厳しい現実を知ることから始めなければならない。国家が単独でまたは他国と協調した上で武力行使が必要で道徳的に正当化できると判断することがあるだろう”。
“We must begin by acknowledging the hard truth: We will not eradicate violent conflict in out lifetimes. There will be times when nations---acting individually or in concert---will find the use of force not only necessary but morally justified.”
よくありがちな(stereotyped)演説ではありませんでした。戦争に兵をおくっている現役の大統領がこの賞を受賞するという矛盾から逃げることなく持論を展開した名演説です。
justifyという英語と“正当化”という日本語の間の微妙な差異、このことにあまりにも無頓着だった私自身を反省させてくれた、それが今回のオバマ大統領の演説でした。
◆2009年12月9日
“離婚することになったらどうするの?(アメリカ人)”
“そんなこと考えるなんて不謹慎だろう”(日本人)。
日米の溝は経済問題だけにとどまりません。結婚・離婚に関する考え方にも大きな隔たりがあるのです。
プレナップ(prenuptial agreement)。“婚前契約”のことです。結婚をする前に取り決めごとを契約書にして交わす習慣です。日本ではあまり馴染みがありませんね。
渦中のタイガー・ウッズ選手の場合は夫人と結婚7年で5500万ドル、仮に2年後に離婚した場合、これに加えて調停金3億ドルが支払われるという契約を交わしていたそうです。
“結婚は夫と妻の契約であり、その担保は愛情なのだ”。
これが彼らの考え方です。理屈はそうでも私たちにはピンときませんね。
“離婚のことを考えて結婚するもんじゃない”。
こういう感覚の方が日本人にはしっくりいくような気がします。
さて、結婚式のスピーチではいまだに“切れる”とか“別れる”とかいう言葉を避ける習慣があります。
“綺麗な新婦が羨ましい限りです”。
こんなスピーチではひんしゅくを買うことになってしまいます。
“綺麗は『切れい』を連想するからダメ”。
“限りも『か切り』を連想するからダメ”。
万事こんな具合です。日本人がスピーチを苦手とする理由はこんなことにも原因がありそうです。
さて、
“結婚は縁である。担保など介在させるべきではない”。
こういう感覚をどうやって英語で表現したらいいのか、今夜は眠れそうにない私です。
◆2009年12月8日
“Agree or disagree?
Come on!
Tell me”.
事を意図的に曖昧にすること、明確な態度を隠そうとすることをヴェイギング・ザ・クエスチョン(vaguing the question)と呼びます。アメリカ人が最も嫌う態度です。
賛成であろうが反対であろうが、とにかく自分の意見や態度を包み隠すことなく表明する。こういう態度を貫くことが多くのアメリカ人にとっての“ルール”です。“道徳”と言っても過言ではないかも知れません。
交渉のテーブルで、
“Let us think about it”.
という言葉を吐いた瞬間にビジネス交渉は頓挫します。
“考えてから出直して来い!”
ということなのでしょう。これが英語でビジネスをする上での常識です。
たがいの面子や置かれた状況を考慮し態度をあえて保留すること。こういう日本式の“流儀”を共有できるほど世界は寛大ではありません。アメリカ人を動かすには彼らの気質やメンタリティーに熟知していなければならないのです。
普天間移転をどうするか? 闇雲に事を先延ばしにすることは、約束を反故にすること以上に重罪です。態度を明確にすることがアメリカ流の“ルール”であり“道徳”なのだということを私たち日本は認識しなければなりません。
“日本の事情は変わりました。
前の約束は無かったことにして、改めて約束を交わしたい”。
このように切り出すことがベストではありませんが、こう述べることで少なくとも次の議論への橋渡しは可能です。黙っていることが日米関係を最悪な方向へと導いてしまうのです。
“日本は宣戦布告をする気なのか?”
こう述べたアメリカ人の友人がいました。これにはドキッとさせられました。今の日米関係はそれほど微妙な状況にあるのです。
◆2009年12月7日
永福町に風変わりな天婦羅屋があります。
“塩で食べてくださいね”。
“あっ、それも塩が美味いですよ”。
“あっ、天つゆつけちゃダメですよ”。
万事こんな調子です。主人のご機嫌を窺いながら食事をすることになります。
“やっぱり塩だと美味いですね”。
こう言うだけで満面の笑みを浮かべる店主。
お客の側からすればアレコレと指図をされるのは御免です。でもこの店の天麩羅は実に美味い。だからこそ長年、営業ができているのだと思います。
“ミディアムでお願いします”。
“うちの肉はレアが美味いから”。
お客が肉の焼き方を決めることさえ許されない、そんな稀有なステーキ屋です。日本橋の裏路地の一角にあります。
同じものを食べても行く度に料金が違います。メニューがないのですから仕方がありませんね(笑)。ここのビーフカツレツは一度食べるとクセになります。だから通ってしまうのです。
“穴子ください”。
“今日はイマイチだからよしな”。
お客にこう“進言”する板さんはもう見かけません。
“今日は何が美味しいですか?”。
“マズイ寿司は置いてねえんだよ。
帰ってくれ”。
こんな板さんは今ではもう皆無ですね(笑)。
個性的な店主、毒がある店主は少なくなりました。チョッピリ寂しい気もします。
明朗会計で接客も抜群。今はこういう時代なのでしょうか。