◆2009年6月30日
パワハラ(bully)はアメリカでも問題になっています。仕事はお金と割り切る分だけ日本よりも厄介な面もあるようです。
日本との明確な違い。それはアメリカではパワハラで自殺をする人が少ないということです。
労働者の仕事に対する考え方は冷めています。
“Why do I work?
Silly question!
I work for money.”
アメリカ人の仕事観は実にシンプルです。彼らにとって仕事はお金です。遊ぶために働くのだと言い切る人もいます。不満があれば迷わず仕事を変えてしまいます。条件のいい仕事をいつも探し求めています。生涯に平均で6回転職するのが彼らです。
アメリカ人は自分の仕事にプライドを持っています。手に職をつけた自分を“特定技能の持ち主”と見なし、その技量を雇用者にセールスするのです。パワハラなどを経験して黙っているはずもありません。中には訴訟に持ち込む人もいます。でも多くの人は見切りをつけてサッサと辞めてしまうのです。狩猟民族の成せる業なのでしょうか、日本人の私には少し羨ましく感じる部分です。
日本人の仕事観は独特です。我慢することが美徳として重んじられてきました。辛いことがあってもそれを乗り越え、頑張りぬくことが立派な人だ。こういう目に見えない圧力があるのです。
こういう真面目な姿勢が今の繁栄を築いたことは事実でしょう。それでも、パワハラが原因で死を選択してしまう人がいる社会はどう考えても歪です。労働者を死ぬまで追い込むパワハラは事実上の殺人なのですから。労災認定云々で片付ける問題ではありません。
“負けちゃダメ”。
こういう価値観を少しだけ矯正する。会社を辞めてしまうという解決法もあるのだ。こういう考え方ができる日本をつくるべきだと私は思います。
◆2009年6月29日
最近、“説明責任”という言葉をよく耳にします。
政治にはお金がかかります。派閥の長ともなれば数十億のお金を動かさなければなりません。どの政治家も誰からお金を貰いそれを活動資金として活用するのです。
日本では個人献金の習慣が根付いていません。頼るは企業のみ。法の網を潜り、どうにかして企業からお金を“引っ張ってくる”のです。これも政治家の手腕のひとつです。
“合法的な献金”の実体が暴かれることがあります。マスコミは政治家を追いかけます。ワイドショーが一定の役割を果たすようになりました。
“秘書に任せているので”。
政治家がこの言葉を吐くことからドラマが始まります。“説明責任”はドラマの頻出単語です。まな板の上に鯉を置く。ウロコだけは取る。でも三枚にはおろさない。これがドラマの結末です。メディアが政治家のイヌである動かぬ証拠です。
さて、渦中の政治家が“説明責任”を果たすことは先ずありません。説明のつかないことをしまった人に使われる言葉だからです。浮気をしてしまった人に“説明責任”を求めるのと同様です。滑稽な言い訳が登場することになるのです。
“説明もできない。
責任も果たせない。
国民が忘れてくれるのをジッと待つ”。
これが唯一の頼みの綱でしょうか。疑獄事件にでも発展しない限り、日本の国民はお金の問題には無頓着です。表ざたになったことで落選する政治家よりも当選してしまう政治家のほうが多いのです。お中元やお歳暮の習慣が悪いとは申しませんがそもそも日本文化の体質自体が賄賂性を帯びているのではないでしょうか。だから国民はお金の問題には甘いのです。
◆2009年6月28日
アイコンタクトの続きです。
“どこを見ればいいのか分からない”。
100人の聴衆を目の前にすると目のやり場に困ることがありますね。そこでお勧めなのが“1点凝視法”です。
壇上に立ったら先ずは一呼吸して間(ま)を取ります。このあいだにすべきことがあります。聴衆の中からひとりを選び出し、その人にアイコンタクトを注ぐるのです。これが“一点凝視法”です。
“他の99人は見なくていいの?”
そうです。見ないのです(笑)。とにかく狙い定めたひとりの人、その人しか会場にはいないと思ってスピーチを始めるのです。
出だしほど落ち着いた雰囲気が大切です。キョロキョロせずに1点を見つめながら話をする。このほうが聞き手の側も安心するのです。
さて、同じ人ばかり見ているわけにはいきませんね。スピーチの進行に合わせて“1点凝視法”の対象者を変えていきます。
会場を5つのセクションに分割します。左、中、右、そして前方、後方です。まんべんなく、しかもアトランダムに視線を移動させていきます。それぞれのセクションの中からひとりの聴衆を選び“1点凝視法”を実践するのです。
“センテンスの途中で視線を動かさない”。
これには注意が必要です。自信の無さを露呈してしまうからです。
センテンスとセンテンスのあいだの間(ま)を使って視線を移動させる。このことが心地良く感じられるとスピーチがより楽しくなってきます。 “1点凝視法”に笑いが加われば鬼に金棒です。
◆2009年6月27日
“苦しうない。
面をあげい”。
時代劇の場面によく見かける光景です。将軍の前で不用意に顔を上げるだけで即、打ち首。そういう時代もありました。庶民や武士たちは許可されてはじめて顔を上げることができたのです。
明治の時代になっても日本人の目線に対する考え方は変わりません。目上の人とはあえて目を合わせないことで尊敬や謙虚さの気持を表現したのです。お見合い結婚をした女性が初夜に初めて男性の顔を見て卒倒したという笑い話もあるほどです。
“眼をつける”
という言い方があります。喧嘩の原因は、
“相手が睨みつけたから”。
こんな理由だけで喧嘩になってしまうのです。
目線に対する日本人のメンタリティーは独特です。 でもこれがまた日本のよさでもあるのです。
大勢の前で話すことに慣れていない日本人にとってアイコンタクトの問題は深刻です。私もこのことで苦労しました(笑)。ロボットのように硬直すれば、
“Talk like human being.”
と言われ、キョロキョロすれば、
“Stand still.”
と教授からよく言われたことがありました。アメリカ人には簡単に思えることが日本人の私には難しいのです。 私が目線を克服できたのは聴衆を笑わすことに慣れ始めた頃です。笑ってもらう、笑っていただくことで普段通りの目線で話ができるようになったのです。
悲壮感が漂うトレーニングよりも聴衆を笑わすことでアイコンタクトを克服するほうがずっと気楽なのではないか。私はこう思います。
◆2009年6月26日
“会話は『はい。わかりました』から始まるのだ”。
これが父の教育方針でした。どんなに理屈が合わないことでも無言で従う。これが我が家のしきたりでした。
床の間に正座をさせられたことがあります。
“お母さんの言うことは聞いているのかね”。
日本刀を磨きながら私にそっと語りかける父。目は合わせることなく淡々と刀を磨いているのです。
“はい”。
こう返答するのが精一杯でした。今の時代なら児童虐待と言われても反論できませんね。でもこれが当時の我が家だったのです。
会社でもこういう“封建制”は貫かれていたようです。それでも父を慕う人が多かった。奇跡です。
仕事がデキル社員もデキナイ社員もまとめて面倒を見る。これが父の流儀でした。かつての高度成長期に右肩上がりで伸びた会社です。
脱税事件で世間を騒がせたことがありました。晩年父から告白されたことです。会社は解散寸前まで追い込まれたそうです。私が高校に進学をした頃の話です。
私は私立高校に進学しました。裕福な生活だった。私にはそういう記憶しかありません。父の会社がそんな状況だったことは記憶の欠片にもないのです。父は家族と社員の生活を守り抜きました。
晩年の父は寝たきりでした。戦後の混乱期に流行したヒロポン。そのうち回しが原因で肝炎を発症していたのです。自宅で24時間介護をしてくれたのは父の“子分”たちでした。
今日は母の70歳の誕生日です。父が生きていれば大きなケーキを日本刀で切り分けてくれたかも知れません。
◆2009年6月25日
箱根弁塾館の近くにマス釣り場があります。
“ああ、また逃げられちゃったぁ”。
息子がブツブツ言っています。 餌に食らいついても逃げられてしまうのです。
こういう私も釣りは得意ではありません。3分さえもジッとしていられない性分だからです。それでも一応のお説教だけはしてみます。私も親なのです。
“おい、息子よ。
釣りは待ちのスポーツなんだ。
じっと待ちなさい”。
そんな私が息子よりもジタバタしてしまいます。
あきらめかけてボーっとしていると、私のサオが動いています。タイミングが一瞬ズレタことが功を奏したようです。立派なマスが釣れました。
“パパ、ズルイよ。
手が長いんだから”。
意味不明な彼の言い訳につい苦笑してしまいます。息子にとって父親は永遠のライバルなのです。
“釣れるまで帰らないから”。
こういう気合が釣りにはダメなことは彼も重々承知しているはず。悔しい気持とは裏腹にサカナたちは逃げてしまいます。
心の中でお祈りをしていると息子も無事マスをゲット。得意満面の笑みを浮かべています。
“パパ、今度はマグロの一本釣りをしてみたい”。
やっぱり11歳はまだ子どもです。
◆2009年6月24日
“私を総裁候補にしてください”。
“キミ、面白いこと言うね。
気概とヤル気には感服したよ。
ぜひ総裁選に出馬して古い自民党をかき回してくれたまえ”。
こういう会話にはなりませんでした。オロオロする古賀氏の姿ばかりが目立った感があります。滑稽です。
“芸人あがり”という言い方をしたコメンテーターがいました。あまり品のいい言葉ではありません。過去はあくまで過去です。むしろ芸人から知事までに出世した男を讃えるべきなのではないでしょうか。
“オレを総理にせよ”。
これならば話は別です。一国の総裁としての職務を全うするには経験と実績が必要だからです。真意はともかく東国原氏が言及したのはあくまで総裁“候補”。総裁を選ぶのは党員と現職議員なのです。候補になるくらいのことで神経質になる必要がどこにあるのでしょうか。
言葉で国が変わることはオバマ大統領が証明しました。白人至上主義が色濃く残るアメリカの大統領が今やネイティブ・アフリカン(native African)なのです。こういう時代が到来したのです。
“ばかばかしい”
と一笑に付した議員がいました。
“顔を洗って出直して来い”
と述べた議員もいました。
それでも東国原氏は腐ることなく発信し続けています。
過去よりも今。今よりも未来が大切です。日本がダメになるのではなく、すでにダメになっているのです。今こそ新しい一歩を踏み出すときなのです。
宮崎が変わったこと、変わりつつあるということは歴然とした事実です。気概とヤル気に満ちた人に舵取りの仕事を与える。こういう日本でありたいと私は思っています。
◆2009年6月23日
“今日は気分が乗らないなあ。
どうしてだろう?”
テンションがなかなか高まらない。緊張してしまうことよりもこのほうが深刻です。気分の高揚はスピーチの要だからです。
私が体験から学んだことがあります。疲れているときの方がスピーチは上手くいくということです。体調万全で睡眠もバッチリ。食事もしっかりいただいた。こういうときにはテンションが高まらないのです。
少しだけ寝不足気味で忙しく飛び回っているときのほうが断然、気分は高揚します。体も少しだけ疲れているくらいでちょうどいいのです。
“肉体の危機意識を刺激してあげる”。
このほうがテンションが高まるということは医学的にも証明されています。
90分の講義を1日7回していたことがあります。いちばんいい授業は出来たのは6回目と7回目です。朝から喋り続けて夕方頃にはもうクタクタです。声もガラガラです。食事を取る時間もないくらいの忙しさでした。
疲れているときのほうがテンションが高まるのです。お腹が空いているときのほうがいいスピーチができるのです。
セックスも同じです。温泉宿で身も心もリフレッシュ。美味しいご飯に楽しいお酒。こういう日のセックスはなかなか盛り上がりません。登山をしてクタクタになる。人里離れた山小屋での質素な夕食を楽しむ。こういう晩のほうが断然盛り上がるのです。
◆2009年6月22日
ビジネスパーソンに必要なのはアナウンサーのような美声ではありません。相手に合わせた適切な声を自在に使うことのできる表現力です。
ボイス・トレーニングというと少し大袈裟です。健康体のアナタの声は既に立派で美しいのですから。
手元にある本を使って音読をしてみましょう。背筋を伸ばして立ちながら声に出して読んでみるのです。1日3分、これだけのことでアナタの声は抜群の輝きを増してくれるはずです。
私は車を運転しながら英語の文章を口にしています。ケネディー大統領の就任演説です。この練習はもう30年続けています。美声ではありませんがかなりいい声が出ていると自分では思っています。
話すスピード(pace)も大切です。女性には少しテンポを抑え、男性にはテンポを速める。これがスピーチ前半のコツです。男女混在であれば女性とアイコンタクトをするときはややゆっくり、男性とアイコンタクトをするときにはペースを上げる。これで対応します。
スピーチが山場にさしかかったたら男女の差異は考えない。一気にスピードを上げるのです。そのほうが場が盛り上がります。
“ペースを上げよ、間(ま)を生かせ!”
これがスピーチを成功させる法則です。スピードを上げた後だからこそ間が生きるのです。
人は見た目が大切だと言われます。見た目以上にインパクトがあるのが実は声なのです。アナタの声で人を動かす。なんと素晴らしいことでしょう。
◆2009年6月21日
自分の心の中から物体を取り出して、
“This is me!”
と指し示すこと、これが言葉を発すという行為です。画家は絵を描くことで“言葉”を発します。音楽家は楽譜で“言葉”を発します。料理家はレシピで“言葉”を発します。人はみな独自の"言葉“を使って自己のアイデンティティー(identity)を表現しようとします。
言葉の発信基地はアナタです。出発点は常にアナタの心の中、アナタ自身なのです。このことをはき違えると不幸です。
アナタが感じた通り、思った通りに言葉を発すること、これがすべての始まります。アナタの真意はなかなか伝わらないことでしょう。もしかしたら生涯伝わらないこともあるかも知れません。それでも心を尽くして言葉を発し続けるのです。これが人として与えられた特権であり義務でもあるのです。
人類は文字を生み出し、印刷技術を生み出し、電話を生み出し、そしてインターネットをも生み出しました。それでもコミュニケーションがもたらす問題に私たちは悩み続けています。
餌を食べ、酒を飲み、セックスをするだけの、いわば、ブタ以上、人間未満の人生も悪くはありません。でも、それだけでは“Who am I?”のパズルを解くことはできないのです。“This is me.”と叫び続けることはできないのです。
売れる絵を描いてお金で魂を売りさばいてしまう画家になってはいけません。アナタの心の中のキャンバスに絵を描くのはアナタなのです。人から嫌われない言葉、見かけだけの人間関係を築くためだけの言葉を人から借りるような愚を犯してはいけないのです。
アナタが描いた絵はなかなか理解されないかも知れません。それでも描き続けること、それが大切です。アナタも私も言葉を使って絵を描く芸術家のはしくれなのですから。
◆2009年6月20日
“That’s common sense.”
(そんなの常識じゃん)
“So what?”
(だから何なんだ)
ガイジンを黙らせようと思ったら逆に言い返されてしまいました。私たちはしばしば英語と日本のギャップに戸惑います。
“カモン・センス”の意味は“常識”と私たちは教わってきました。誰もが習う英語です。
“そんなこと誰でも知ってるよ。
君、知らないの?
恥ずかしいよ”。
こういう感覚で“カモン・センス”を多用してもどうもシックリこない。ガイジンとの会話がギクシャクしてしまうのです。
“The ability to make practical decisions that require no special knowledge.”
(特別な知識を必要としない分別ある判断を下す能力)
常識という日本語よりも良識に近い感じでしょうか。カモン・センスは知識の欠如を指摘する言葉ではないのです。不用意に連発するとそれこそ良識が疑われてしまいます。
知識を引き合いに出すのなら“common knowledge”が適切です。“It’s been around”や“Everybody knows”も使えます。叱るつもりならば“You should know better~”。
英語が国際語になった今の時代、どういう英語の勉強をすべきなのか、日々考え込んでしまう私です。
◆2009年6月19日
“自分はどんな話し方をしているのだろうか?”
興味本位で自分の映像を見てみると思いもしなかった自分のクセや嫌なところに気づきます。
話しているところを映像に撮って指導をする方法があります。アメリカでも日本でもこれがオーソドックスなやり方です。弁塾でも撮影をすることがありますがその場で生徒さんに見せることはありません。ディメリットの方が多いと考えるからです。
映像でダメな部分を指摘されたらすぐに調整する。これができればそれだけでプロのレベルです。話すことを生業にしている人以外にはお勧めできる方法ではないのです。
自分の声を録音してみて、
“ああ、なんと美しい声なのでしょう”。
こう思える人は少ないはず。映像も同じです。自分の“ダメ”な映像を見てヤル気が沸き出てくる人はいないのです。
生徒さんの話し方のクセをあえて私は矯正せずに放置することがあります。トレーニングを積んでいくプロセスで自然に治ってしまうことがあります。この時点で生徒さんに昔の映像を見せるのです。
“えっ、こんな話し方をしてたんですね。
恥ずかしい”。
ダメな姿はあえて封印して本人には見せない。上手になってから見せる。こういう指導方法もあるのです。ニューヨークのTJ塾長と私とで唯一、意見が異なる部分です。
◆2009年6月18日
“話し方が不得意です。
上司にもよく言われるんです”。
こういう人に上司の悪口を言わせてみる。すると驚くほど饒舌に話をしてくれます。上司の気に入らないところを分かりやすく、しかも面白おかしく話してくれるのです。
“アナタ、話が上手いじゃないですか”。
”悪口は得意なんですよ(笑)”。
話し方を支える屋台骨のひとつ、それが熱意(zeal)です。
“これだけは言わせていただきたい”。
こういう強い気持があるだけで話し方のレベルはグーンとアップします。
悪口、非難、中傷の核を形成するのが熱意です。はらわたが煮えくり返るようなことがあった。でもこのことはけっして口にすることはできない。そんな感情を言葉にすることが許されたとき、その瞬間に人は皆“ブレーク”するのです。
“上司のいいところを教えてください”。
“とくにありません(笑)”。
急に無口になってしまいましたね。上司の長所に対しては意識が向いていない、熱意がない。饒舌になれない理由はここにあります。 上司のいいところに関しては初めから興味もなければ、言いたくもないのです。
話し方のレベルを制御しているのは熱意です。弁力を生かすも殺すも、それは話し手次第、熱意の矛先をどこに向けるかで話し方は得意にも不得意にもなり得るのです。
◆2009年6月17日
“花子さん。
僕と付き合ってください”。
うつむきながら右手を差し出す男性に女性の側は、
“ごめんさない”。
こんなテレビ番組がありましたね。
世の男性諸君はどうして“付き合う”という言葉を使うのでしょうか。皆、あたりまえのようにこの言葉を使います。
“付き合う”という言葉は使いどころを間違えると悲壮感が漂います。少なくとも、うつむきながら使う言葉ではありません。
“はい、こちらこそよろしくお願いします”。
こう爽やかに返答してくれる女性もいます。でも、多くの女性にとって“付き合う”という言葉には何か引っ掛かるものを感じてしまうのではないでしょうか。
“食事に行きましょう。
お肉が好きなんですか?
僕に任せてください”。
これでいいのです。ガタガタ言わずに飯を食えばいい。よほどのダメ男でない限り、誘われて不愉快に感じる女性はいないと思います。食事に誘って断ってくる女性はこちらから願い下げです(笑)。
“先生は誘い方が上手いから”。
そんなことはありません。私は不器用(clumsy)です。女性を誘うことは大の苦手なのです。それでも私は女性が大好きです。
◆2009年6月16日
“もうダメだ”。
こう思っただけでダメになった。こういう経験は誰にでもあると思います。思うだけでもダメなのですから口から吐いたらほんとうにダメになってしまいますね。ネガティブ・ワードの恐ろしさは皆さんもご存知の通りです。私は51音のマ行のことを“魔行”と呼んでいます。
“まずい”。
“みじめだ”。
“むずかしい”。
“めんどうだ”。
“もういい”。
ま・み・む・め・も。どれもネガティブ・ワードばかりですね。マ行は話し方の鬼門なのです。
英語と比べると日本語は文字に意味を持たせる言語だと言われます。それでも語感は大切です。口から発した言葉がどう響くかでムードがガラリと変わるからです。
さて、男女の会話を覗いてみましょう。どうやら男性の側が浮気をしたようです。
“マいったなあ。そんなに怒るなよ”。
“ミじめなのは私のほうよ”。モう死んじゃう”。
“ムり言うなよ。メんどうなことになっちゃったなあ”。
“私たち、モうだめね”。
別れ間際の男女の会話はマ行がいっぱいです。
話し方を語るとき、私たちはとかく文字面だけに目がいきがちです。でもそれ以上に大切なこと。それは言葉の響き、つまり語感なのです。
“魔行”にはくれぐれもご注意あれ!
◆2009年6月15日
“仕事が嫌ならやめちまえ”。
私の言葉に激怒した友人がいました。
“おれだってやめたいよ。
でもそうはいかないんだよ。
家族もあるしローンもあるんだから。
おまえにその苦しみはわからないだろう!
みんな質素に頑張ってるんだよ。”
会社勤めの辛さ、切なさは私も理解しているつもりです。上から目線でサラリーマンを見下す つもりもありません。でも、“質素”という言葉には吐き気がします。汚い言葉ですがこれが私の偽らざる気持です。
頑張ることは否定しません。苦しみも否定しません。でも、“質素”が余計です。心の底から“質素”を楽しんでいるのならば、彼の事業主はどれほど楽なことでしょうか。“質素”さえ与えていれば奴隷のように黙々と働いてくれるのであれば私もそんな社員がほしい。
質素よりも絢爛豪華のほうがいいにきまってます。なぜもっと内なる自分に素直にならないのでしょうか? なぜ“質素”を美化することにそんなに躍起になるのでしょうか?
ときには奥様を高級レストランに連れていく。年老いた親を温泉に連れていく。子どもたちを留学させる。こういうことにさえ無頓着でひたすら“質素”な自分を美化する。このことに一体どんな意味があるのでしょうか。
“仕事が嫌ならやめちまえ。
会社が嫌ならやめちまえ。
不満があるならやめちまえ”。
長い人生、こういう風に考えてみるだけでも何かが見えてくると思うのですが。
◆2009年6月14日
人生に変化を起こしたい、奇跡を起こしたいと思うなら真心をすべて注ぎ込まなければならない。これが人生の法則なのだと思います。
相手に通じたかどうか、このことを尺度に真心を量ろうとするとその価値は消滅してしまいます。これが真心の本質です。
仕事がうまくいかないのだとすれば、それはアナタの能力が足りないのではありません。真心が足りないのです。
人間関係がうまくいかないのだとすれば、それはアナタの努力が足りないのではありません。真心が足りないのです。
恋が実らないのだとすれば、アナタが贈るプレゼントの数が足りないのではありません。真心が足りないのです。
仕事も、人間関係も、恋も、すべての鍵を握っているのはアナタの真心です。
真心が通じないと人は自分を責め、あるいは通じない相手をも責めてしまうことがあります。こういう真心は実は真心ではなく“魔心”なのだと私は思います。
アナタの中に潜む声、その声に耳を傾けてみましょう。静寂の中、ひとり胸に手をあてて内なる声を聴いてみるのです。これまで聞こえなかった声、アナタが聴こうとしなかった声が必ずや聞こえてくるはずです。
真心を制御しているのは脳ではありません。真心は必ずや心のなかにポツンと存在しているものなのです。
◆2009年6月13日
オトコ同士が褒めあうとき、それは気概や志、度胸についてです。経済力や車、不動産を褒めあうこともあります。オトコ同士がめったに話題にしないこと、それは服装を褒めあうことです。
“太郎君、今日のネクタイは素晴らしいね”。
“有難う、次郎君。キミのスーツもカッコいいね”。
こんな会話チョイト気持がわるい。相手の服装などオトコ同志はまったく気にしないのです。
服装を褒められることにオトコは慣れていません。それだけに女性から服装を褒められると実に嬉しい。天にも昇る気持になってしまうのでです。
“似合ってるわ~”。
まずまずの褒め言葉でしょうか。
“カッコいいっ”。
これもいい。でも、いちばん効果的なのは、
“素敵ですね”、
の一言。オトコは“素敵”という言葉に猛烈に弱いのです。自分たちが使わない言葉だからです。オトコを動かすには“素敵”の二文字でじゅうぶんです。オトコの私が断言するのですから間違いありません(笑)。
“素敵って言ってもオトコの人ってあんまり喜んでくれない気がするんだけどぉ”。
こんな風に考えてはいけません。オトコは返す言葉にも慣れていないのです。服装もどきで喜ぶことはオトコのプライドに関わるのです。喜んでいないのではなく単に無関心を装っているだけ。心の底ではガッツポーズをしているのです。これがオトコの正体です。
上司であろうが部下であろうがオトコであれば“素敵”を連発してみてください。目減りしたり効果が薄れることはありません。オトコを操る魔法の言葉、それが“素敵”という言葉なのです。
◆2009年6月12日
“教育とは?”
“教え、育むこと”。
これがダメなスピーチ。
“教育とは愛だ”。
ダメではありませんが平凡です。反論する人はいないでしょうが、ありきたりなのです。
“教育とは鏡育だ”。
なるほどそうかと頷いてしまいそうです。こういうスピーチがウケルのです。
言葉の遊びや語呂合わせを奨励するわけではありません。大切なのは創意工夫です。社説で論じられるような難しくてややこしい議論はスピーチには不向きです。誰もが興味を引くテーマをシンプルに説く、これがスピーチです。
“なるほどそうだよな”。
聞き手にこう感じてもらえるだけで大成功です。ユーモアや笑い、失敗談などが加われば鬼に金棒です。
“教育には3つのステップがあると思います。
先ずは子どもたちを驚かせること。
こんな世界があったのかという驚きを喚起する。
これが驚育。
次に、教える側が子どもたちと一緒に学ぶということ。
これが共育。
最後に、子どもたち同士で競争させること。
これが競育。
驚育、共育、そして競育。
これが私の教育論です”。
即興でつくった私のスピーチです。この骨格に具体例や面白い話、体験談を加えれば立派なスピーチになるのです。
◆2009年6月11日
英語的な発想に身を任せていると、
“言わなくっても分かるでしょう”、
という日本語にちょっとしたストレスを感じることがあります。
“Say what you want to say.
Come on!
Tell me.”
こういう発想をする人たちにとって“察し”が理解しづらいのは当然です。
言わないで分からせるという発想をポジティブにとらえると日本語が興味深い言語だということが分かります。 “How can we understand without words?”
(どうして言わないで分かり合えるの?)
こうやって首をかしげるアメリカ人を“調教”することは私の趣味でもあります。
大声を出してマシンガンのように言葉を“乱射”しなくとも、人と人が分かり合える手段はいくらでもある。このことを日本文化に照らし合わせながら説明をすると、皆、目を丸くして私の話を聞いてくれます。私が日本人として誇りを感じる瞬間です。
グローバル化とは日本を捨て欧米文化に同化(assimilate)することではありません。日本人は日本人のままであり続けることで価値があるのです。
“察し”の文化を世界に広めたらどうなるか? 考えてみるだけで胸躍ります。日本語と英語を混ぜるとどうなるか? 同様に興味深いテーマです。
お寿司にカリフォルニア巻きがあるように、日本発の英語が生まれること、その下地をつくること、そして日本文化を世界に広めること。想像しただけでワクワクしてしまう私です。
◆2009年6月10日
未熟だからといって足が一歩前に出ない人、その場に立ちすくむ人、後ろを振り返る人がいます。
“私は未熟者だから云々”。
こう開き直らないほうがいい。クセになって歩みを止めてしまうからです。未熟さの最大の魅力、それは成熟した人からすれば馬鹿げたように見える“愚”を正々堂々と冒すことができるということです。未熟だからできないことよりも未熟だからできることのほうが実は圧倒的に多いのです。
未熟な自分を卑下する必要はありません。未熟であることに誇りを持ち前へ進む。それでいいのです。アナタから未熟さを取り去ったらいったい何が残るのか、真剣に考えてみてください。未熟さはアナタの魅力であり、最大の武器なのです。未熟さという希望の芽をどうか踏み潰さないでいただきたい。
アナタの人生に奇跡が起きるとすれば、それは未熟な自分を卑下することなく、未熟さと寄り添って日々を過ごしているときです。奇跡は突然やってきます。
未熟でなくなるとすべてのことが丸く収まるようになります。これがどれほどの地獄か、なってみた人だけに分かることのようです。アナタも私も知る必要のない世界です。
成熟した老紳士が海を見ながら呟きました。
“神様にお願いがあります。
私は成熟しきってしまいました。
地位も名誉も財力もすべて手に入れました。
叶うことなら、どうか、未熟な私に戻してください。
未熟な時代の私に時を巻き戻してください。
すべてを捨て去ってもかまいません”。
◆2009年6月9日
聞き上手を奨励する本が目につきます。
“人間関係が上手くいく聞くためのテクニック”
“恋を実らせるための聞く技術”
等々、どれもこれも聞き上手の大切さを説いている本ばかりです。
聞く側にまわると人が寄ってきます。相談ごとも多くなるでしょう。そしてどうなるか? 疲れ果てて“人嫌い”になってしまうのです。
相手が話したくてウズウズしているときには真心で受け止める、笑顔で聞いてあげる。これでいいのです。作為的に聞き手になる必要はありません。
聞く側に立つことそれ自体が目的になってしまっている人、いい人を演じようとすることが目的になってしまっている人。これは似非(えせ)です。心の中から話し手に敬意を払っているのではなく、自分だけがかわいいと思っている傲慢な人なのです。
“いつも自分ばかりお話ししちゃって、チョッピリ反省しています”。
こういう人のほうがむしろ立派です。聞いてくれた人への感謝の気持がある人だからです。とてつもなくお喋りで延々と話を続ける人のほうが私は好感が持てます。
今の時代だからこそ話し手の側にまわることを私は奨めます。失敗談の在庫が豊富な人、笑い話の在庫が豊富な人、騙された経験が豊富な人。こういう人は誰からも歓迎されます。こういう人になればいいのです。
聞くという行為は忍耐を伴ないます。そんなことをするくらいなら話し手として磨きをかけるほうがよほどアナタの人生を楽しくしてくれることでしょう。
“聞くより話せ”!
◆2009年6月8日
“好きです”
と言うのは簡単です。
“愛しています”。
こう言うことも簡単です。
“You have made me what I am.”
こう言えるかどうか、
“今の私があるのはあなたのお陰です”。
と、迷わず堂々と言うことができるかどうか、これが恋愛の価値を決定づけるのだと私は思います。
声に出して言うことが大切なのではありません。目の前に相手がいることが大切なのでもありません。心の底からこう思えているかどうか、このことが大切なのです。
“相手はそう思ってはいないかも知れない”。
こういう不安に心が掻き乱されることもあるでしょう。心配することはありません。相手も独りきっと同じ言葉を囁いているのです。
“You will make me what I will be.”
“これからの私があるのも、あなたのお陰です”。
こう思えるような恋愛がしたいものです。過去と現在、そして現在と未来を繋いでくれる恋愛が最も価値ある恋愛です。
本物の恋愛から生まれた絆は私たちを過去にも未来にも誘ってくれることでしょう。真に育まれた絆は、だから、永遠(eternal)なのです。
永遠の絆が与えられたのであれば別れを悲しんだり、恨んだりする必要はありません。それは愚か者のすること、価値ある最高の恋愛をしなかった人がすることです。
◆2009年6月7日
“今回は失敗だったな。
でも発想は素晴らしいと思う。
こんなお前が俺は好きだ”。
こう言い放ってくれる友人が私にはいます。友情の素晴らしさを肌で感じることができる瞬間です。
失敗した理由をものの見事に分析する人もいます。
“俺の予想した通りだ。
運が悪かったな。
また頑張れよ”。
こういう友人も大切です。でも、もっと大切な友人はベクトルが未来に向いている友人です。こういう友人を親友というのだと思います。
失敗と人格は別次元の話です。成功の度合いと人格を天秤にかけて量ろうとする人は真の友情とは無縁の人です。
親友がいないと嘆いている人には永遠に親友は与えられません。これが宇宙の摂理です。アナタが誰かの親友になってあげる。こういう人にどこからともなく親友がやってくるのです。
親友の数の少なさを嘆くことは愚か者のすることです。たった1人の親友が目の前にいるだけでアナタの人生は既にバラ色なのですから。
“The proper office of a friend is to side with you when you are in the wrong. Nearly anybody will side with you when you are in the right.”
(友人の果たすべき役割は間違っているときにも味方することだ。正しいときには誰だって味方になってくれる/マーク・トウェイン)
◆2009年6月6日
広辞苑に収録されている語彙の数はおよそ20万語、これを自在に使いこなすことで言葉の悩みから解放されるならどんなに楽なことでしょう。
言いたいことを即座に言葉に変換することのできる能力があればどんなに楽なことでしょう。
体の中から心を取り出して、
“はい、これが私の心ですよ”
と相手の目の前に差し出すことができればどんなに楽なことでしょう。
生れ変わることが叶うのなら、私は作家になりたい。作家の素晴らしさ、それは私たちが言葉では言い尽くせないと諦めかけていることを、ものの見事に表現してくれることです。作家は私たち凡人の心の代弁者です。
チンパンジーにも劣るかも知れないであろう私たち凡人の心、それを隅から隅まで浄化してくれるのが作家の放つ言葉です。
私自身のジレンマ(dilemma)、それは言葉を教える身でありながら己の限界を体感しながら日々、生きていかなければならないということです。この苦悩から開放されることができるならばどんなに楽なことでしょう。
“私は言葉が万能であるなどど一瞬たりとも信じたことはない。われわれが死や救済、愛や憎しみ、信頼や裏切りに直面するとき、言葉は絶望的に無力である。だが、だからこそ、私は無力な言葉をさらに無力にはしたくはない。言葉のもつ一抹の威力を信じたい。言葉の弱い力を最大限に開花させたい。対話という乗り心地の悪い荒馬に乗って行き着くところまで行きたい”。(中島義道『対話のない社会』)
私は作家が放つ言葉に日々救われています。”乗り心地の悪い荒馬”は実は名馬なのです。
◆2009年6月5日
今日のウォール・ストリート・ジャーナル(Wall Street Journal)に興味深い論評が掲載されています。
“One benefit of the Obama Presidency is that it is validating much of George W. Bush’s security agenda and foreign policy merely by dint of autobiographical rebranding.”
(オバマ政権の利点のひとつは本人の生い立ちを説得材料に使うことでブッシュ政権の安全保障政策や外交政策を焼きなおしブランド名を付け直すことで正当化してくれるところだ。)
オバマ大統領がエジプトのカイロ大学で行った演説、“New Beginning”はブッシュ大統領が自由と民主主義拡大のために掲げた計画をパッケージし直したものだというわけです。
“オバマなら希望に満ちたことを言うはずだ”。
こういう刷り込みがスピーチの判断に大きな影響を与えるのです。クレディビリティー(credibility)の高いスピーカーはどこまでも信頼される。このことは今回の演説を英語圏の多くのメディアが評価していることからも明らかです。
スピーチの内容(what)は大切。もっと大切なのが話し方(how)。そして最も大切なのは誰が(who)話すのかということ。オバマだからこそ、その評価も高いのです。同じ原稿を使いブッシュ大統領が演説を行ったとしたらどうなるか。靴を投げられたかも知れないのです。これがスピーチの面白い部分でもあり、同時にまた、恐ろしい部分でもあります。
大統領予備選から積み上げてきたオバマ大統領の“いいヤツ”というイメージと高いクレディビリティー、これををどこまで積み上げ、維持することができるのか。このことをスピーチの観点から見守っていこうと私は考えています。
◆2009年6月4日
“国民一人ひとりが裁判に関わっていく。
これだけで意義がある”。
こういう理由だけで何となく裁判員制度に賛成していた私です。足利事件の”結末“を知るにつけ考え方が変わってきました。
自分が裁判の場に身を置いたとしたら果たして、当時のDNA鑑定の結果を疑っただろうか?
“証拠は?”
“DNA鑑定です”。
“鑑定結果に間違いはないんだよね”。
“もちろんです。権威ある複数の専門家の結論ですから”。
“でも、本人は自白を強要されたと言ってますよね”。
“証拠がありますから”。
こういう展開を頭の中で思い巡らしてみると背筋が寒くなってきます。
私たちが司法判断に参加すること自体は今でも有意義なことだと私は思っています。ただ、冤罪事件の片棒を担ぐことだけは避けたいというのが本音です。
裁判員制度に選ばれる確率は全国平均で352人に1人、確率が最も高いのは大阪地方裁判所の211人に1人、最も低いのは秋田地裁の786人に1人、格差は約3.7倍にも上ります。
辞退理由や様々な点を考慮すると私たちが裁判員になる確率は最終的には5000分の1程度になるようです。けっして低い確率ではありません。
刑事補償法という法令があります。抑留、拘禁1日当たり1000円以上12500円以下の範囲内だと定められているようです。こういう常軌を逸した数字がまかり通っている現状も皆で議論する必要がありそうです。
◆2009年6月3日
“なるほど!”
相手がこう反応してくれると嬉しいものです。自分の全人格が肯定されたような、そんな気分に心躍る瞬間でもあります。
こんなマジック・ワードも何度も耳にすると、その印象は一変します。1回なら許せる。いや、2回までなら許しましょう(笑)。“なるほど”がクセになっている人と会話をすると私のイライラ度は最高潮に達します。
“アナタの言っていることには耳を傾けています。
でも、同意するかどうかは別ですよ。
アナタが話し終わったら私の逆襲は始まります。
だから今のうち、たっぷり喋ってくださいね”。
相手がこんなことを思っているのではないか、私はこういう妄想を抱いてしまうのです。
会話はたがいの良好な人間関係を基盤に成り立っています。だからそんな私の妄想も杞憂に終わることも多いのです。それでも私はこのマジック・ワードが気になって仕方がありません。
“Exactly!”
“You are right!”
“No wonder!”
等々、英語版の“なるほど”は至極分かりやすい。こちらの側が恥ずかしい気分になるほど、欧米人のリアクションは大袈裟です。ジェスチャーも交えながら同調の合図を放ってくれる、ある種の快感を運んでくれるのです。
これと比べると日本語は少々、厄介に感じます。でもこれがまた日本語の面白いところでもあります。
さて、我が身を振り返ってみて分かったこと。それは、私自身が“なるほど”を多用する人間だったということです。他人がマジック・ワードを使うのは嫌、でも自分は“堂々”と使う。 横柄な自分の姿が映し出されると何とも複雑な気分です。
◆2009年6月2日
“おい息子よ。
立派な大人になるために大切なことが3つある。
分かるか?
スピーチとワインとピアノだ”。
息子がよちよち歩きの頃から私が繰り返し述べてきたことです。スピーチは私が教えればいい。酒の飲み方も私が教える。でも、ピアノだけは私が教えるわけにはいきません。
“福澤さん。ピアノでも弾いていただけませんか?”
パーティの席上でこうリクエストされて出来ない自分に何度遭遇したことでしょう。そんな場面でいかにもピアノが似つかわしくなさそうな“ヤツ”が見事に演奏をやってのけてしまう。メタボであろうがハゲチョビンであろうがやっぱりピアノが弾ける男はカッコいい。私自身のさもしいホンネです。
スピーチは人並み以上に上手くできる。ワインの話にも少しは付き合える。でも、ピアノだけはお手上げです。 私自身、文化人を気取るつもりはありません。ただ、“それなりの場”に身を置く人たちは“それなりの所作”を身につけて大人になっているのです。このことを大人になって気づいても遅い。
スピーチとワインとピアノは最低条件。ダンスもできなければなりません。乗馬の知識も意外に役立ちます。英語以外にもうひとつ外国語に堪能である必要もあります。日本の文化や歴史を簡単な言葉で表現する能力も必要かも知れません。
さて、今話題の“I dreamed a dream”を息子が演奏してくれました。レ・ミゼラブルの主題歌です。彼がパーティの席上で見事にメロディーを奏でる場面を想像しながら気分よく眠りについてしまった私です。
◆2009年6月1日
“自分の名前は書けるが、手紙は書けないといった準文盲の彼らが、仕様書に目をチラリと走らせ、タバコを吸い、バカ話に笑いころげながらクルマを組み立てていく。中には英語のわからない移民もいる。さらにはクラックに侵されたプッツン人間。その彼らが作るクルマが日本車やドイツ車より売れないとこぼすのがおかしいのだ”(落合信彦)。
今のアメリカはかつて落合氏が指摘したような状況ではないのかも知れません。それでも、
“壊れないとかえって不安になる”、
などと平然と言い放つアメリカ人のジョークがジョークではないことも事実です。クルマだけではありません。テレビも冷蔵庫もエアコンも、メイド・イン・USAの商品はすぐに壊れてしまうのです。修理代はべらぼうに高い。だから修理は自分でする。これがアメリカの”伝統“でもあります。
一方、日本はいくらでも安く手に入る石油とアメリカの核の傘の基で地道に努力を重ね続けてきました。動くモノは壊れてアタリマエというアメリカの“常識”を覆したのは日本の技術力です。世界最高レベルの技術力を維持し続けることが日本の盛衰を左右します。教育が大切なのです。
勉強の出来る子どもには飛び級をさせてどんどん勉強させる。落ちこぼれそうな子どもには徹底したフォローをする。民間企業に流れてしまう逸材を教師として教育の現場に引き戻す。教師同志を競争させ指導力のレベルを徹底的に上げる。子どもたちの学力低下に歯止めをかけるためにすべきことは山ほどあるはずです。
マイクロソフト社の社員の半数がインド人だといいます。中国も韓国も台湾もシンガポールも物凄いスピードで日本を追い抜こうとしています。日本人は元来勤勉だから大丈夫と胡坐をかいている暇はありません。