◆2009年11月12日
ただ話をしているだけで楽しい。こう思える相手がひとりでもいたら人生はかなり幸せなのだと思います。
“コレコレだから結論はコウだ”。
こういう会話は疲れます。
“結論を出すためでも、相手を言い負かすためでもない、
フワフワと漂うような言葉のやり取りが
何よりも幸せなことなんだと今は心から思う”。(重松清)
慌しい生活をしている私たちにとっては明確な結論が見いだせない会話が味気なく感じられるかもしれません。でも、建設的な会話や言葉をあえて放棄することも人生には必要なのだと私も思います。
“こう思うのよね”。
“なんで?”
こう切り出すと楽しいはずの会話も台無しです。“フワフワ感”が出てこないのです。私自身、こういう“フワフワ感”を自ら壊してしまっているような気がします。相手の言葉を妙に分析し心無い言葉を返してしまうのです。これでは相手も疲れてしまいますね。
“慌ただしい世の中に生きていると、
そういう「フワフワ」に罪悪感を感じるクセさえ出てくる。
けれど、恋人との会話、夫婦の会話、親子、兄弟姉妹、友達との会話には、フワフワしているものがあったって悪くはないでしょう”。
会話はディベートではありません。知識の羅列でもありません。会話とは理屈という次元を超越した“フワフワ感”なのです。
会話をデザートにたとえるならば、それはワッフルだと思います。シュークリームでもダメ。たい焼きでもダメ。フワッとしたワッフルの生地だからこそいくら食べても飽きがこないのです。
“会話はフワフワ感なのだ”。
えっ、
“どうしてだって”。
そんなことは聞くほうがヤボですよ!
◆2009年11月11日
かつて自民党が取り組みを始めていた“ムダ撲滅運動”。メディアはすすんで報道を行いませんでした。ワイドショー的にはやや地味だった感があります。
いま民主党が行っている“事業仕分け作業”もムダを省くという点では実は自民党とは似たような試みです。違いはメディアが食らいつくような様々な“工夫”を民主党が凝らしたという点です。
“必殺仕分け人”。このラベリングが実に分かりやすい。悪代官をバッサリ切り捨てる様は誰の目から見ても爽快です。
査定の様子をリアルタイムで公開したことも成功でした。古今東西、民衆は“公開処刑”が大好きなのです。
仕分けの現場では実は地味な作業が行われているようです。メディアはその中から“美味しい部分”だけを切り取って報道します。これが民主党にとっては追い風になりました。
“自民党ができなかったことを民主党がやっているぞ!”
こういう勘違いをワイドショーがうまく演出してくれたのです。
しかし、落とし穴は意外なところに潜んでいました。鬼の形相で迫る女性議員の様子が繰り返し報道されたからです。“必殺仕分け人”が悪代官のように見えてくる。その様は絵的には実に面白い。
“私の話も聞いてください。
一方的にただ質問に答えろというのは心外です”
と必死に食らい下がる様を見せられると日本人は弱い。同情心が沸いてくるのです。
“削れ、削れ、また削れ。
ゼロになるまでまた削れ”。
公益法人のすべてが悪なのかどうか。意義ある文化的事業でさえも赤字であれば認められないのか。あるいはまた、すべての天下りが問題なのかどうか。こういったことを精査せずに削減を行うのだとすれば、日本が真に豊かになる道さえも閉ざされてしまうのではないでしょうか。
◆2009年11月10日
“遅かったわね。
ご機嫌ですこと。
いい香がするわね。
なんの香かしら”。
どうやら奥様に浮気がばれてしまったようですね。
さて、人の気持は声のトーン(tone of voice)に表れます。スピーチの内容は素晴らしい。でも、何となくネガティブな印象を与えてしまうことがあります。
“言っていることには一理ある。
でも、なんかピンとこないだよなあ”。
言葉の意味は声のトーンで変化します。辞書的な意味合いは実に非力です。話し手の意図したこととは遊離した印象が一人歩きしてしまうからです。
アメリカでは暗唱(recitation)コンテストや詩の朗読コンテストが盛んです。同じ題材でも語る人が変われば受ける印象も変わります。印象を決定づける要素は顔の表情や見た目だけではありません。声のトーンも大きな役割を演じているのです。
物静かな日本人にとって声のトーンは厄介です。大袈裟に話す習慣がないため、トーンが一本調子(monotonous)になってしまうことが多いのです。スピーチではこの傾向が顕著です。
話している本人が、
“これじゃあ少し大袈裟かなあ?”
と思うくらいで丁度いいのです。
高い声と低い声。大きな声と小さな声。楽しい声と悲しい声。それらを意図的に使い分ける練習は思いのほか効果的です。自分が書いた文章をマーカーで色分けし声のトーンを意識的に演出してみるのです。
だれでも怒っているときは、声が大きくなり、また早口にもなります。ゆったりとした気分のときは、話し方もゆっくりとなります。無意識のうちにそうなっているのです。スピーチになるとそれができないのは意識的な練習をしていないだけのこと。
冒頭の奥様の“スピーチ”でさえ、声のトーンを練習するには格好の材料ですよ!
◆2009年11月9日
アメリカでは経済的な理由や病歴などのため民間の保険に入れない、入らない人が4700万人もいます。救急車を呼ぶだけで300ドルかかる国、運よく病院に運ばれてもクレジット・カードが拒否(decline)され治療が受けられない国、病気が原因で破産に追い込まれてしまう国、それがアメリカです。
それでも新制度に対する世論が二分するのはなぜか? “社会主義的”なシステムに対する根強い抵抗感があるからです。“富の配分”を素直に受け入れることができない国民性もあります。そんな現状を打破すべくオバマ大統領は演説を行いました。
But we did not come here just to clean up crises. We came to build a future. So tonight, I return to speak to all of you about an issue that is central to that future and that is the issue of health care.
(しかし、我々は危機を片付けるためにここに来たわけではない。我々は、将来を造りに来たのだ。だから今晩、私はその将来にとっての主要な問題についてあなた方全員と話すために戻ってきた。それは、健康保険の問題だ)
政治家の演説で最も大切なことは現実を踏まえ夢を語ること、明るい未来を語ることです。このことが党派やイデオロギーを超えて支持を得るための唯一の方法だということをオバマ大統領がいちばんよく知っているのです。
We will place a limit on how much you can be charged for out-of-pocket expenses, because in the United States of America, no one should go broke because they get sick.
(我々は、あなたが請求される自己負担額に限度を設ける。アメリカ合衆国においては、何人たりとも、病気になったからという理由で破産してはならないからだ)
演説の後半でオバマ大統領はこうも述べています。
But know this: I will not waste time with those who have made the calculation that it’s better politics to kill this plan than improve it. I will not stand by while the special interests use the same old tactics to keep things exactly the way they are. If you misrepresent what’s in the plan, we will call you out. And I will not accept the status quo as a solution. Not this time. Not now.
(しかし、これだけは知っていて欲しい:この計画を改善するよりは葬り去るほうが政治的に好ましいという計算している人々のために無駄にする時間はない。既得権益が物事をこれまで通りに保つ古い戦術を使用するのを私は指をくわえて眺めてはいない。計画にあることを誤って喧伝する者には呼び出しをかける。そして私は現状維持を解決とはみなさない。今回は。今は)
医療保険制度改革が必ずや実行されるというオバマ大統領の意気込みが感じられる演説でした。
◆2009年11月8日
“松井は残留すると思いますか?”
という質問にヤンキースのチームメートが、
“I hope so.”
と答えていました。
インタビューを観ていて私が感じたこと。それは彼らの話しぶりが妙に素っ気ない、表情が一様に暗いということでした。残留するかどうかは球団が決めること。でも松井には残ってもらいたい。だから“アイ・ホープ・ソー”。こう言うしかありませんね。
松井残留に関して選手たちは皆自分たちの意思が反映されないことを知っています。松井がおそらくは放出させるであろうことも知っています。それでも、聞かれたらとりあえずは返答しなきゃならない。その受け皿としての言葉が“アイ・ホープ・ソー”なのだと思います。
“アイ・ホープ・ソー”。実に不思議な言葉です。懐疑的な(skeptical)感じ、疑って(doubt)いる雰囲気が漂うのです。
“そうなってもらいたいとは思う。
希望はある。
でもダメかもしれない”。
こういう言外の意味が込められているような気がします。
さて、hopeは“強い希望”、wishは“実現しないかもしれない希望”と教えている先生がいました。ほんとうにそうなのでしょうか?
“I wish you a Merry Christmas!”
どのクリスマス・カードにはこう書いてあります。
“アナタに楽しいクリスマスが来ますように!”
間違いなくこういう意味のはず。絶対に実現されるという強い願いを込めて“ウィッシュ・ユー・ア・メリー・クリスマス”ですよね。hopeなんて使いません。
hopeとwishの違いを考えていたら眠れなくなってきました。
“今夜は眠れるかな?”
“I’m afraid not.”
こりゃダメだ。
◆2009年11月7日
米国で収入があれば誰でも米国の税金を払っています。反米的な国から来ている人も多数います。それでも選挙権を与えられるのは米国籍の国民だけです。永住権を持っている人にすら選挙権はありません。アメリカは開かれた国ですが選挙権だけは別です。
さて、日本はどうするのか? 日本に居を構える永住外国人に地方参政権を与えるか否か。非常に大切なテーマだと思います。
ネット等で検索を試みてこの問題に否定的な意見が多いことに驚かされました。
“断固反対!”
の声が圧倒的に多い。
オランダの例を引き合いに出されると否定的な意見を擁護したくなる気持も分かような気もします。
さて、日本には地域に根ざして頑張っている外国人がたくさんいます。そういう多くの“仲間”たちに協力を仰ぐ。様々な角度から意見を出してもらう。彼らの母国の歴史や習慣を幅広く紹介してもらう。このことが日本にとって利益になるのであれば私は積極的に門戸を開放すべきだと思っています。永住外国人に地方参政権を付与することでより豊かな日本が創造できるのであれば反対する理由はない。これが私の意見です。もっとも、反対する人の多くは不利益になるという理論を展開しているのですが。
“法案に反対する人達の多くの方の主張は『そんなに参政権が欲しければ帰化をして日本国籍を取得すればいい』という考え方があります。(中略)永住外国人のほとんど多くの人は日本で生まれ育って、まったくの日本人そのものであり、その人達が日本人として生涯にわたって生きていきたいと願っていることは、紛れもない事実だと私は思います。ただ、過去の併合の歴史や、それに伴う差別や偏見に対して心にわだかまりがあるのも事実なのです”(小沢一郎)。
◆2009年11月6日
“今週は消費税ゼロ!”
ニューヨーク市が実施しているセールス・タックス・フリー・ショッピング・ウィーク(sales tax free shopping week)では500ドル以下の衣類と靴に関しては8.875%の消費税を免除する制度を年に数回、実施しています。生鮮食品や医薬品には元々、消費税がかかりません。外食にかかる税が免除される日をニューヨーカーたちは密かに期待しています。
アメリカでは各自治体がセールス・タックスを課税することができます。州や市が変われば税額が変わり、オレゴン州のようにまったく無税の場所もあればニューヨークのように9%近い税が課されるとこともあります。
セールス・タックス・ウィークは同時多発テロ後の消費低迷の打開策として始められ制度です。
さて、マクドナルドのビック・マックの価格を基準に世界の主要都市の物価比較をすることがあります。東京もニューヨークも物価の高い都市として毎年上位にランキングされています。しかし、食品に関しては東京よりもニューヨークの方が圧倒的に安いことは生活をしてみれば一目瞭然です。しかも無税ですからアメリカ人が太るのも頷けます(笑)
日本ではその昔、
“貧乏人は麦を食え”
と述べた宰相がいました。 今では麦もけっして安くはありません。
現政権は
“国民の生活が第一”
というスローガンを掲げています。これが本音なのならば食品に課税することだけでも即刻やめるべきではないでしょうか。無駄をなくすことで鬼の首を取ったかのように振舞われても困るのです。
“65歳以上の人同伴の場合、食料品は無税!”。
こういうシニア割りもいいかも知れません。日本のおじいちゃん、おばあちゃんたちがもっと大切にされるはずです!
◆2009年11月5日
“つらいとは思わなかった。
野球が好きだから”。
ワールド・シリーズ制覇直後の松井選手の言葉です。シンプルな言葉ですが実に大きなヒントを私たちに授けてくれました。
“ダメだったらどうしよう”。
こう思うこと、それ自体が人生で最大の敵です。ダメだったときの心の準備をしてしまうと不思議と体がそれに慣れてしまいます。そしてほんとうにダメな結果になってしまうのです。
“ダメだったらどうしよう”。
こう考えない。失敗するかもしれないと考えてしまう僅かながらの隙間さえも封じ込めてしまう。そうすればアナタの人生は大きく動き出します。その屋台骨が“つらい”とは思わない、“好きだから”という感情です。仕事にも恋愛にもそして家庭にもこの法則が当てはまるような気がします。
つらいとは思わない仕事を選んだ、好きな仕事を選んだ。これが松井選手の凄いところです。
アナタも私もホームランを打つことはできないかも知れません。でも、つらいとは思わない仕事を選ぶこと、好きな仕事を選ぶことはできるはず。松井選手ができたことはアナタにも私にもできるのです。
“人生はそんなに甘くはない”。
眉間にしわを寄せながらこう発言する人がいます。こういう人がどんな人生をおくってきたのか、どんな仕事をしてきた人なのか、冷静な目で見つめ直してみる。そうすればおのずと結論は見えてくるはずです。
好きな仕事をし、好きな人と過ごし、好きな家庭を築くこと。これを妨害しているのが実は自分自身だった。こんなことを晩年になって気づいても手遅れです。
運や財力、タイミング、出会い等々、人生を成功に導く要素は様々です。それ以上に大切な要素、それが、
“つらいことは思わない。
好きだから”。
という感情だと私は思います。
◆2009年11月4日
“基地の賃貸料だけ負担してもらえないかな?
維持費や人件費はいいから。”
これが日米地位協定の始まりです。締結は1960年のことでした。
“もう少し経費を負担してくれないかなあ。
ベトナム戦争やドル安の問題で頭が痛いのよ”。
これが1978年に締結した特別協定です。“おもいやり予算”誕生のいきさつです。
その後、日本人勤務者の給与、米軍施設の高熱水費、建設費等々、“思いやり予算”の総額は2000億円を超えるまでに膨らんだのです。
“自衛隊を出すのかお金を出すのか?
こう迫られた日本は自衛隊の活動を活発にすることができなかった。だからお金を出し続けた。これが日本のお国事情です。
世界平和を大義名分に軍事力で圧力をかける国、それがアメリカです。
紛争、戦争が世界のどこかで勃発していないと困る国、それもアメリカです。
民主主義を旗印に自国中心主義を貫き通す国、それもまたアメリカです。
アメリカの傘の元で自国のアイデンティテーを見出せずにいる国、それが日本です。
元々、地位協定と安保条約はワンセットです。日本が攻撃されればアメリカは日本を守るために反撃します。でも日本がアメリカのために血を流すことはしません。この不均衡を補う役割を果たすのが地位協定です。守ってやるから“ショバ代”を出せとチンピラに脅かされているのに似ているような気もします。
“武力を盾に平和を維持することは難しいのではないか?”
911以降、アメリカ人の中にもこういう考え方をする人が増えました。
日本がすべきことは自力で平和を勝ち取る方法を模索することです。アメリカがお膳立てしたこれまでの方向性を日本がイニシァティブをとって軌道修正をする。これを実現することによってのみ日本は真の独立国になるのだと思います。
事の複雑さを言い訳にまっとうな議論を後回しにする。こういう姿勢を私たち自身が変えなければならない時期にきています。
◆2009年11月3日
①多面的角度から検討することにより事実を見落としたり誤解したりしないようにすること。
②詭弁や筋の通らない議論に反論し正しい結論へ導くこと。
弁論術というジャンルを構築したアリストテレス(Aristotle)の見解です。
“無用な対立を煽る”
あるいは、
“日本人には馴染まない”
等の理由でディベート教育に批判的は人たちがいます。こういう人たちを説き伏せることから事を始めなければならないのが今の日本の状況です。
与野党の議論がかみ合わない、議論が議論になっていない。こういう状況を見ていると日本という国が果たして“正しい”方向に向かってすすんでいるのか、懐疑的にならざるを得ません。日本の政治家もディベート教育を受けていさえすれば状況は変わっていたのではないでしょうか。
“意見の対立が必ずしも相手の人格を否定するわけではない”。
この真実を体感する唯一の方法は教育です。
“I disagree with you.
(君の意見には反対だ)
That’s why I don’t like you.”
(だからお前は嫌いだ)
とかくこういう雰囲気に陥りやすい風土が日本にはあります。この感覚から脱却し、まっとうな議論ができるようにするにはディベート教育がどうしても必要なのです。
子どもたちを2つのグループに分けて議論をさせる。議論が盛り上がったタイミングで先生が介入してハイ終わり。これでは芽は育ちません。
ディベートやパブリック・スピーキングに精通した若者の多くは民間企業に流れてしまっている。だとすればビジネスの現場で働く“精鋭たち”を教育の現場に召集すること、このことが事を好転させる最短距離だと私は思います。
◆2009年11月2日
“ヤンキースが優勝すれば景気は戻る!”。
野球が生活の一部になっているニューヨーカーにとってこの言葉はけっして大袈裟ではありません。彼らにとってヤンキースが優勝するかどうかは人生の一大事なのです。
冷ややかなビジネス・ミーティングの席上であってもヤンキースの話題を口にするだけで雰囲気はガラリと一変する。こんなことも珍しくありません。ベースボールがアイス・ブレーカー(ice breaker)としての役割を果たしてくれるのです。
“I’m leaving the office early today.”
(今日は早退するからな)
ゲーム観戦をするためならば仕事をサボることに文句を言う人はいません。これがニューヨークです。
ヤンキースが遂にワールド・シリーズ進出を果たしました。プレミア・チケットの価格はオクトーバー・マッドネス(October madness)と呼ばれ、安価な席でも最低600ドル~700ドル、フィールドレベルの良席であれば1万ドルを叩いても入手が困難な状況です。
背番号55のTシャツを着ている人は人種を問わずかなりの数にのぼります。スタジアムに限らずマンハッタンの街中でも55番をよく見かけます。ゴジラ松井の寡黙なひたむきさは確実にファンのあいだで浸透しているのです。メディアの前で英語を話したがらない松井がYESのインタビューに登場することは稀です。それでも松井の活躍を暖かい目で見てくれる地元のファンが多いことは嬉しい限りです。
能力さえ見せつけさえすれば年齢や国籍に関わらず認めてくれるのがニューヨークの人々の特色です。今期ワールド・シリーズでホームランを2本打っている松井選手が最高のパフォーマンスを披露できればゴジラ残留待望論が必ずや飛び交うはずです。
◆2009年11月1日
朴訥(ぼくとつ)ではない。ましてや寡黙でもない。だからといって雄弁なわけでもない。鳩山首相の弁は実に奇妙に映りました。所信表明の演説です。
具体性に欠けるとか理想論だとかいった類の批評は評論家に任せることにしましょう。映像を繰り返し見て私が感じたこと、それは
“心にグッとくるような何かに欠けている”
ということです。首相の弁には初デートのような高揚感、心躍るようなインパクトが感じられないのです。
言葉の使い方は極めて丁寧で落ち着いた雰囲気もある。誠実な感じもする。パーティの席上でもおそらく品格を存分に発揮できる紳士、それが鳩山由紀夫という男の真の姿なのだと思います。
それでも聞き手の側が感じられる何かが欠落してしまっているのだとすれば、私はこれを放置する気にはなれません。スピーチの専門家として私はその原因を探りたい気持に駆られてしまうのです。
所信表明の原稿には素晴らしいことがたくさん書いてあります。遊説中に出会ったひとりのおばあさんとの出会い、チョーク工場での体験談を盛り込んだことは日本の首相の演説としては斬新だったと思います。アインシュタイン博士の“I believe”からの引用も英語がワカル人でなければできない芸当です。
こういう素晴らしい原稿を鳩山首相が読み上げると、その素晴らしさが削がれてしまうのは何故なのでしょうか? 私が抱く大きな疑問です。
オバマ大統領のスピーチをブッシュ前大統領が行ったら史上最低の演説になっただろう。こんな記事がアメリカの雑誌に掲載されていました。同様に、鳩山首相の所信表明演説を人気絶頂の頃の小泉元首相が行ったら恐らく大きな評価を得たのではないか。こんなことをつい想像してしまった私です。
首相の演説に私の心が動かされない原因。それは私自身が鳩山氏に抱いている不信感に起因するのかも知れません。