◆2010年6月13日
“パパ、新しいソフト買ってよ”。
“クリスマスにね”。
“みんな持ってるんだから”。
“そうか。じゃあ・・・”。
いとも簡単に息子に論破されてしまいました。“みんな”と言われるとつい気持ちが揺らいでしまうのです。実際に“みんな”が新作のソフトを持っているかといえば、そうでもないから笑えます。
島国だからなのか、あるいは村社会だからなのか、とにかく日本人は“みんな”という言葉が大好きです。“みんな”は自分の意見より優先する絶対的な価値基準なのでしょうか?
相手の反論をかわそうと思えば、
“みんなそう言ってますよ。”
とだけ言えばいい。
“じゃあ、私も・・・”。
こんなふうにすべてが片付いちゃうのです。
四方八方、“みんな”に囲まれて生活していると“自分”はどこかに消え去ってしまわないか、心配になってきます。“みんな”という魔法によって物事をじっくりと考える力が奪われてしまうのだとすれば、それは笑える話ではありません。
さて、政治の舞台にも“みんな”が進出し始めました。みんなの党が物事をじっくりと考えることのできる政党であることを切に願います。
◆2010年6月12日
六本木あたりで外国人に、
“Oh, you speak very good English.”
と言われて浮かれている人がいますが、こういうのはノー・プロブレムです。何を食べるかとか、好きだとか嫌いだとか、セックスだとか、そういう会話は好きにやればいい。ルンルン会話に国境はないのですから。
英語がある程度できるようになると状況は少し変わってきます。
“お願いがあるんですけど”。(Do me a favor?)
“What is it?”(何ですか?)
“日曜日にこの仕事をお願いしたいんですが?”(Will you be showing up next Sunday?)
“I don’t work on Sunday.(日曜は働きません)
I hope you will ask another person.”(別の方にお願いしてください)
“どうにかなりませんか?”(Please…)
頼まれたことは無下には断らない。少なくとも申し訳ないフリだけはする。これが私たちの文化です。この発想を英語に持ち込むとややこしいことになります。発想の下敷きが“和式”では通じないのです。 こうやってガイジンが嫌いになったり、英語が嫌いになったりした人を私はたくさん知っています。
自国の文化や発想を物差しに外国語を話そうとすることから生じる不和、これがエスノセントリズム(ethnocentrism)、“自民族中心主義”です。ルンルン会話を楽しむ人たちがその予備軍であるというのは少々、言いすぎでしょうか。
◆2010年6月11日
即興で演説をするほどの度胸はない。原稿を暗記するほどの情熱もない。そしてどうするか? 原稿を読み上げることになるのです。
原稿が用意されていても、そのことが悟られないように話をすること。これが演説を成功に導く唯一無二の方法です。
子どもを叱るときに原稿を読み上げる親はいません。プロポーズをするときに原稿を読み上げる男性もいません。台本片手に舞台に上がる俳優もいません。演説も同様です。
今、この瞬間に発せられた言葉が動作や顔の表情とシンクロしてはじめてマックスの説得力を発揮します。だから演説は暗記しなければならないのです。
“オバマだってプロンプターを使ってるじゃないか”。
たしかにアメリカの大統領もプロンプターを使います。でもこれはアクシデント防止のためであって、演説を覚えていないためではありません。オバマ自らが原稿に赤を入れ、ジョン・ファヴロー(Jon Favreau)らと共に究極の演説に仕立て上げていくのです。
“演説を暗記するほど政治家はヒマじゃない”。
かつて私の前でこう言い放った政治家がいました。日本の政治家が演説下手なのはまさにこういう意識の低さが原因です。
日本の首相の所信表明演説が新聞の一面を埋め尽くし、子どもも大人も皆、その演説を口ずさむ。そんな未来を想像しながら私は今この文章を書いています。
◆2010年6月10日
“How could you put your nasty finger in my glass? ”.
乱暴に訳せば、
“汚ねえ指をオレのグラスに入れんじゃねえよ”。
という感じでしょうか、私はこういうトーンで声を荒げました。機内での出来事です。
白人のアテンダントが私の前でよろけます。揺れる機内の中でバランスを崩したのだと思います。問題はその後です。見ると彼女の人差し指がグラスの中にスッポリと収まっています。氷の入ったグラスです。気づかないはずはありません。
“Oh, I’m sorry.
Are you OK?”
こんな言葉が返ってくるのかと私は思っていました。しかし彼女はそのまま去っていったのです。私が乱暴な言葉を吐いたのはそのためです。
よほどプライドが傷ついたのでしょう。彼女は新しいグラスを白い布で包んで私のテーブルまでやってきました。
“Sorry to bother you.
This is clean enough.”
“御免あそばせ。
きれいなグラスですことよ”。
もう10年以上も前の出来事です。当時は太平洋便でのアジア人蔑視があからさまだったのです。
アメリカ系航空会社の悪評を横目に格段にサービスを向上させた航空会社がノースウェスト(NW)でした。そのNWがデルタに統合され、時代が逆行してしまうことを危惧している私です。
ちなみに冒頭の話はデルタ航空での体験ではありません。“Friendly Service”というキャッチ・フレーズをいつの間にかやめてしまったアノ航空会社です。
◆2010年6月9日
“頼んだ刺身、なかなか来ないなあ”。
“今、釣りに行ってるんだよ”。
私のモヤモヤ感はこれで一気に吹き飛びました。イライラしている私を見かねて息子が口にした言葉です。
“break the ice”という言い方があります。“緊張を解く”とか“場を和ませる”という意味です。氷のような冷たい雰囲気を壊すというのが語源なのだと思います。息子はまさにこの役割を果たしてくれました。
相手が言ったことをオウムのように復誦する。これがもっともありがちなパターンです。
“そうだね、遅いね”。
プチ不満に同意しているだけですね。 これでは会話が弾みません。
現実を突きつけるパターンもあります。
“今日は混んでるから”。
たしかに混んではいる。でも、これでは刺身が遠のいてしまいそうですね。
いちばんマズイのがコレ。
“オーダーを忘れているのかな?”
ますます場が暗くなってしまいます。 ネガティブな返しは禁物です。
さて、会話のパターンは無数に存在します。その中から唯一無二の正解を追い求めようとすると疲れてしまいますね。会話を難しいもの、面倒なものと考えずに、不正解だけを意識的に取り除いてみる。気の利いた言葉がある日、突然、アナタの口から飛び出してくるかもしれません。
◆2010年6月8日
菅新首相の「最小不幸社会」というフレーズはベンサム(Jeremy Bentham)の「最大多数の最大幸福」(the greatest happiness for the greatest number)を連想させ、私には新鮮に響きました。
政治の役割とは何なのか? このことを冒頭で言及したことでスピーチ全体が大いに引き締まりました。骨格をまず示し、それに沿って細部の話をするスタイルはパブリック・スピーキングの基本です。スピーチは難しいもの、と考えている方には参考になると思います。
さて、菅氏が用いた“強い財政”、“新成長戦略”、“財政配分”とは増税を間接的に表現したフレーズです。増税という言葉を用いることなく増税に言及したことは巧みでした。
“経済成長と財政と、
そして社会保障を一体として、
強くしていくという道は、
必ず開けるものと考えております”。
菅氏らしい実にスマートな言い方です。今は増税をする時期ではない等、これまでに言い尽くされたレトリックを用いなかったことは成功でした。
冒頭と結びをリンクさせることはスピーチのテクニックのひとつです。「最小不幸社会」を実現することが政治の役割だ。こう切り出したのであれば、結びの言葉として、今の時代が「最小幸福社会」であると述べればスピーチがさらに引き締まったような気がします。
自分の気持を素直に、そしてスマートに表現するという点で菅新総理の会見には好印象を抱いた福澤です。
◆2010年6月7日
“増税はするんですか?”
こういう質問に、
“はい増税します”
と返答できる政治家はなかなかいません。
かつて駐日大使を務めたモンデール(Walter Frederick Mondale)氏は1984年の大統領選で
“Let’s tell the truth.”
と増税の必要性を語ったことがありました。増税と正直に立ち向かった姿勢は当時、大喝采を浴びましたが選挙の結果は歴史的な大敗でした。
さて、日本の民主党が支持を得てきた理由のひとつ、それは“増税をしなさそうな党”だからです。仕分けが国民にウケルのも頷けます。無駄を省くことが減税につながるのではないかという心理も働くのでしょう。
“増税はするんですか?”
この質問に新総理はこう答えました。
“過去の自分の発言を撤回するつもりはありませんが...”。
こう返答するのが精一杯でした。
これまで菅氏は増税と公共事業への投資に積極的でした。その彼が新総理になって民主党の支持率が回復したことには驚きです。
支持率が低下した鳩山政権を終わらせ、表面的な反小沢を演出し、そして菅直人氏が“増税しなさそうな党”の党首になる。これが重鎮の描いたシナリオだと推理するのは考えすぎでしょうか。
日本はまもなく大増税の時代に突入します。
◆2010年6月6日
日本人として生まれた特権、それは世界中、どの地域、どの国に足を運ぶことが許されているということです。
“This passport is valid for all countries and areas unless otherwise endorsed”.(以下余白)
ニューヨークに行けば日本の医療費が安いことに気づきます。
上海に行けば日本の中華料理がフェイクであることに気づきます。
パースに行けば低所得者層の人たちが暮らす老後の一軒家が、日本の住宅より豪華であることに気づきます。
パラオに行けば彼らが日本を心から愛していることに気づきます。
バンコクに行けばここが格安航空券のメッカであることに気づきます。
私の“気づき”はその多くが他愛のないものです。それでも、私のものの見方、考え方を矯正する上で大きな刺激になっていることに間違いはありません。
“外から見ると、より日本が見えてくる”。
森鴎外の言葉がすべてを説明しています。
外国に一歩足を踏み入れること。このことだけで既存の常識を疑ってみようとする“気づき”と遭遇することができるのです。
“当たり前のことが実は当たり前ではなかった”。
こう気づくことは日本人がより日本人らしく生きていくためには非常に大切なことです。
日本で生活しているとこの国が豊かなのか貧しいのか分からなくなることがあります。そのヒントが外から日本を見つめることに隠されているのだと私は思います。