◆2009年8月31日
今この瞬間を爆発するようにエネルギーを注入すること、瞬間の密度を濃くするように生きること。故岡本太郎氏の『自分の中に毒を持て』はこの大切さを再認識させてくれる名著です。
私たちは過去や未来について考えることに労力を注ぎます。その割には今を、この瞬間を本気で生きることには少しばかり無頓着なのではないでしょうか。私自身、過ぎてしまったことに心を奪われ、まだ見ぬ先のことに不安を抱きながら日々を過ごしています。
“芸術は爆発だ”。
岡本氏が残した名言です。人を動かす源はすべて爆発なのではないかと私は思います。
スピーチも爆発です。聞き手の五臓六腑にズシリと染み渡る、そんなエネルギーを一気に爆発させること。これが出来るかどうかがスピーチの評価を大きく左右します。
過去を捨て、未来をも捨てる。そして今、この瞬間にすべてのエネルギーを注入する。こういう心構えが人を動かすスピーチの起爆剤です。今が過去と未来をつなぐ通過ではいけないのです。
話し方は人それぞれです。絶叫が似合う人もいれば、ソフトな語り口が得意な人もいます。スピーチらしいスピーチではなく、その人の心の叫びが素直に伝わり、共感を呼べるかどうか。その決め手が爆発なのだと思います。
“自分のいのちを純粋に賭ける為に、ぼくは芸術の道を選んだといってもいい。
芸術はまったく自由である。
現在、多くの人が失っている自由をとりもどす為に芸術は大きな役割を持っている。
ぼくは朝から夜まで、まる一日、絵を描き、文章を書き、彫刻にナタをふるう。
全部まったく無条件に自分を外に向けて爆発させていく営みだ。
この瞬間に、無条件な情熱をもって挑む。
いのちが、ぱあっとひらく。
それが生きがい。
瞬間瞬間が新しい。
好奇心といえば、これが好奇心の源だろう”。
◆2009年8月30日
聞き手を鼓舞・激励すること、夢と希望を与えること、そして動かすこと。これがパブリック・スピーキングの醍醐味だとするならば、政治家の敗者の弁は一体何なのか、興味深いところです。
“大変厳しいものになりましたけれども、
国民の皆様の意見を真摯に受け止め、
反省しなければならない”。
こういう弁を前に私たちは鼓舞・激励されることもなければ、夢も希望を与えられることもありません。惚れた女性に見捨てられた惨めなオトコのたわ言にも劣ります。
負けたときにこそ正々堂々と明るく朗らかに語るべきだ。私はこう思います。大躍進を遂げた民主党を素直に讃えればいい。全力を尽くした自分を讃えるのもいいでしょう。大切なのはどちらの側が勝利するかではなく、日本という国がより豊かで住みやすい国になるということなのです。
報道番組を見ながら私は大統領選で敗北したマケイン氏(John MacCain)の敗北宣言のスピーチを思い出していました。
“In a contest as long and difficult as this campaign has been, his success alone commands my respect for his ability and perseverance. But that he managed to do so by inspiring the hopes of so many millions of Americans who had once wrongly believed that they had little at stake or little influence in the election of an American president is something I deeply admire and commend him for achieving.”
(この大統領選は、長く厳しい戦いでした。彼の成功には、彼の能力と忍耐を尊敬せざるを得ません。彼には勝ち目がない、あるいはアメリカの大統領選に何の影響力も持たないだろうと誤って思い込んでいた何百万人ものアメリカ人たちに、希望を与えた彼の努力に深く賞賛します)
国民性の違い、文化の違いだけで片付けられることではないと思います。影響力のある立場に置かれた人の言葉がどれほど重みのあるものなのか、このことを日本の政治家にも学んでいただきたいのです。
死闘を繰り広げて闘ったスポーツ選手、彼らがお互いの健闘を讃えあう姿が私は大好きです。こういう清々しさが日本の政治家には欠落しているような気がします。
◆2009年8月29日
人生をドアにたとえてみると面白い。
確実に言えること、それは
“人生は自動ドアではない”。
ということです。
ドアの前に立ちすくみ協力者が現れるのをじっと待つのも人生。カギをこじ開けてみるのもまた人生。あるいは破壊したり穴を掘ってみることも人生です。
開けた先に何があるのか? こればかりは開けてみなければわかりません。巨大なドアの向こうには財宝が隠されている。こう思って開けてみた先には広大な砂漠が広がっているかも知れません。苦労が報われることもあれば報われないこともある。これが人生です。
“自民党にはもう懲り懲りだ”。
ドアの前に立ちすくむ人の数は激減しています。大多数が民主党のドアの前に大移動を始めたようです。
“あっちのドアの先には豊かな森が広がっているらしい”。
そんな噂は私の周辺からも聞こえてきます。
私たちの多くが自動で開いてしまう自民党のドアとは決別し、新たなドアを自力で開けようとしています。大きな第一歩です。人生が、そして政治が、自動ドアではないことに国民は気づいたのです。
ほんとうの勝負はここからです。豊かに見える森も開拓しなければいずれは砂漠になってしまうのです。木の実や果樹を食べ尽してしまうのは簡単なことです。
選んだ扉の先に広がる広大な土地、この土地を開墾するのは政治家ではなく私たちです。この認識を誤った国家は繁栄しません。ドアが自動ではないのと同様に、開墾もまた自動ではないのです。
◆2009年8月28日
話し手とテーマが完全にシンクロするスピーチ。これが上手なスピーチです。
“Why are you concerned?”
(どうしてアナタがそんなスピーチをするのですか?)
老人介護と接点がない人が介護のスピーチをしても聞き手の側にはピンときません。介護の経験もなければ身近にそういう人もいない。そういう人が唐突に介護の話を語ると滑稽に響きます。話し手とテーマが遊離しているためです。
“パラオに旅行に行く度に思うことがあります。
小島がどんどん少なくなっているのです。
以前バカンスで過ごした無人島が海の中に沈んでしまったそうです。
温暖化の影響は実に深刻です”。
これが上手なスピーチです。海面上昇を目の当たりにしたアナタの体験がそのままスピーチの素材になり得るのです。
“体験値が少ない人はどうすればいいのでしょうか?”
誰でも抱く疑問だと思います。そういう人はスピーチをする必要はない。残念ながらこれが偽らざる真実なのです。
話し手とテーマがピッタリと一致すること。この条件が整ってはじめて人の心を打つスピーチが完成します。そのためには豊富な体験値がどうしても必要です。
“All work and no play makes Jack a dull boy”
(よく遊びよく学べ)
有名な諺です。このboyをspeakerに変えてみれば分かりやすいと思います。勉強や仕事ばかりしていて遊びをしなければジャックはdull speaker(面白みのないスピーカー)になってしまうのです。
スピーチ上手になるための条件。それは遊びの体験値を増やすことです。非日常の体験値を増やし素材の引き出しを豊富に蓄える。これだけでアナタのスピーチはキラリと光るものになるのです。
◆2009年8月27日
ごく普通の人、どこにでもいそうな平凡な一国民。こういう人でも政治家になれるようなシステムができないものでしょうか。
小選挙区と比例区に加え、“抽選区”を設ける。これが私の提案です。無作為に選んだ人にそのまま国会議員になってもらうのです。①本人が望んでいること②納税をしていること③日本語運用能力があること等の条件をクリアすれば誰にも政治家として国政に参画できるというシステムです。性別や学歴、職種等には一切の制限は設けません。普通の国民の普通の国民による普通の国民のための政治です。 渦中(かちゅう)を”うずちゅう”と読んだ元財務大臣は審査で落とされてしまいますね。
宴席で現役の友人に”抽選区”の話をしたことがあります。
“ハハハ、面白いこと言うね。
政治の世界は福澤さんが考えているほど甘くはないんだよ。
だから素人は困るんだ”。
私も黙ってはいません。
“プロの政治家に任せてこんな日本になったんじゃないか”。
八百屋の主人、喫茶店の店主、サラリーマン、塾講師や芸術家等々、政治に興味があっても政治家になることはおそらくないであろう人々。こういう人たちに国政を担ってもらうのが“抽選区制度”です。
国民の代表は選挙で決めるのが民主主義の原則です。“抽選区”のシステムには多くの弊害や問題点もあることでしょう。ただ、“プロの政治家”や“政治屋”と言われる人たちに任せた結果が今の日本であるということ、このことも忘れてはいけません。誰に投票したらいいのか分からない、支持政党がないという人たちがいることも事実なのです。
既成の概念を打ち破るような大胆な改革を行うべきときが来たのです。今こそ選挙のシステを根底から考え直さなければならないのではないでしょうか。
“抽選区”でアナタが衆議院議員に選ばれたらどうするか? こういう感覚で今週の選挙を考えてみると面白いかも知れません。
◆2009年8月26日
麻生首相が街頭演説で“おわび”をやめることが報道されていました。
スピーチで詫びること、へりくだるとは得策ではありません。謝罪会見のようなオーラは百害あって一理なし。これがパブリック・スピーキングの基本です。
非力な自分をあえて露出し謙虚な人物像を演出すること。日本人が好むスタイルです。スピーカー自身が非力に映れば“いい人”を演出することはできるかも知れません。しかし同時にリーダーとしてのクレディビリティー(credibility)を失うことになってしまうのです。このことに鈍感なままスピーチをする人があまりにも多い。
“麻生さんも苦労するなあ。
どうやら悪い人ではなさそう。
おじいちゃんなら最高。
お小遣いたくさんくれそう。
でも総理としてはダメ”
“おわび”でスピーチをすると、こういうレッテルを貼られてしまうのです。
明治の時代から続いている日本式スピーチはもう時代遅れです。総理周辺にこのことに気づいている人が少数派であるのは残念です。
“おわび”とはつまり過去の釈明です。街頭演説がこれではいけません。過去に執着するスピーチは誰も期待していないのです。人は今と未来に生きています。スピーチも同じく未来志向です。夢と希望を言葉で具現化し幸福感を呼び込むことがスピーカーの責務なのです。
“オレに任せろ。
オレについて来い。
オレが責任を取る”。
これを真摯に語るのが演説です。希望が持てれば景気も回復します。大袈裟な話ではありません。閉塞感とはそもそも人が作り出した幻想です。未来像を示し、リードし、実現すること。これが政治家の仕事です。
◆2009年8月14日
“政治信条をズバッと言う。
党には気兼ねしない。
50年後を見据えた独自の政策を打ち出す”。
こういう政治家を支持する人たちが増えるまでにはもう少し時間がかかりそうです。
国民を振り向かせるには飴とムチのバランスが肝要です。飴が9でムチが1。こうでなければ大衆を納得させることは難しい。これが現実です。
国民もバカではありません。苦味の飴ではないかと薄々気づいてはいる。それでも目の前に飴を差し出されると思わず手に取ってしまうのです。
“無駄遣いを減らします”。
飴の一例です。こういうフレーズが日本人には受け入れられやすい。“質素倹約”が日本人の心の機微に触れる言葉なのです。
日本が車社会になることを想定できなかったのは誰か?
似非の民主主義とホンモノの民主主義の違いを曖昧にし続けてきたのは誰か?
中国やインドの台頭を予想できなかったのは誰か?
国家の舵取りをしているのは政治家のように見えて実際には私たち国民なのだということ。このことに私たちは気づかなければなりません。
マニフェストに記されている飴を容易に口にして食べてみたら苦かった。こういう愚を繰り返す時代はもう終わりにしなければなりません。
政治家を批判することは大切です。もっと大切なこと。それは私たち自身のこれまでの姿勢を批判することです。見かけの飴に心を奪われてきたこと。物欲にまみれた生活を享受することだけに関心を向けてきたこと。このことを猛反省しなければならないのです。
“日々の生活さえ守られればそれでいい”。
大多数の人がこう考えている国はいずれは滅びます。私たち一人ひとりが社会にどう貢献できるのか? このことを真剣に考えることが未来の扉を開く唯一のカギだと私は思っています。
◆2009年8月13日
女性の側が仕事をしてくれるなら専業“主夫”になってもいい。私はこう考えています。
“俺は仕事をしてるんだ。
家事や育児なんかしてる暇はない”。
こういう考え方をしていた私のライフスタイルが変わったのは今から5年前のことです。我が家が突然、父子家庭になったのです。
“専業主婦じゃ、つまんない”。
“嫌ならやめれば”。
思わず私が口にした言葉。このことが発端で私は仕事と家事の両立を迫られたのでした。
“アナタに育児や家事はできないわ。
私には分かるの。
ギブアップするのは目に見えてるわ”。
“主夫”になってみて私が気づいたこと。それは育児や家事に適性は関係ないのではないかということです。私自身がその証明でもあります。
“できることなら育児や家事はしたくない”。
こう考えている限り“主婦業”も“主夫業”も勤まりません。
“育児や家事は仕事の邪魔になる”。
こういう考え方も間違っていると私は思います。
私は育児から多くのことを学びました。家事をすることからも多くを学びました。仕事とのバランスを取る工夫もできるようになりました。そして今の私があります。
“先生もたいへんですね。
再婚しなきゃダメですよ”。
こういう言葉を投げかけられるとカチンときます。私は自分が“主夫”であることに誇りを持っているからです。
“育児と家事に専念できるならば、そういう人生もいいなあ”。
こういう風に考える私は平均的な日本の男性とは少し違うのかも知れません。
◆2009年8月6日
“飽きっぽい人はダメ。
こういう人は何をやっても成功しない”。
飽きずに物事を続けること。そのことで一定の成果が期待できることを私たちは知っています。継続は力です。このことに間違いはありません。
さて、飽きっぽい人がダメなのかといえばそうでもないと私は思います。飽きることが悪いのではありません。すぐに飽きてしまうようなことにしか矛先が向けられないこと、このことが不幸なのです。
飽きるという“作業”は飽きない“何か”を見つけるための第一歩です。飽きることにもっと前向きになる。飽きることに飽きてしまうくらい飽きることに積極的になる。こういう紆余曲折を経て私たちは飽きずに専念する“何か”を見つけることができるのです。
飽きっぽい人などこの世にはいません。飽きることのない“何か”を見つけるチャンスに遭遇しなかっただけのことです。
“飽きっぽい自分を正さなければならない”。
こう自分に鞭を打ち時間を費やすことに一体どんな意義があるのでしょうか。飽きっぽさから脱却した頃にはもう人生が終わってしまうのです。
“何か”を見つけて一心不乱に人生を歩んでいる人。そういう人の姿を生で見る、できることなら話をしてみる。こういう経験は思いのほか大切です。人だけではありません。日常では遭遇することのないような大自然に身を置くこともチャンスを広げる契機になるはずです。それが食べ物であることもあるでしょう。
飽きてしまう人を叩くのではなく、飽きない“何か”を見つける作業を一緒にしてあげること。これが教育だと思います。親と教師の責任は重大です。
◆2009年8月5日
”米国民の6割超が原爆投下は正当”。
日本のメディアがこういう報道をすることで誤解や不信感が増幅されてしまいます。
私が知っているアメリカ人で原爆投下が“正しかった”と表明する人はいません。すべてのアメリカ人を知っているわけではありませんが、
“right action(正しい行為)ではなかった。
戦争を終わらせるためには仕方なかった”。
これが彼らの考えていることの大筋です。
“原爆を使用すべきだったか?”
こういう聞き方をすればほとんどのアメリカ人はNOと言うはずです。恣意的に調査された調査をさらに恣意的に報道する。本来のアメリカ人の考えと遊離した印象を醸し出すことになります。
オバマ大統領はチェコ・プラハでの演説で原爆投下国としての“同義的責任”に触れました。このこと自体が大きな第一歩です。
正当化(justify)を持ち出すのはアメリカ人の得意技です。
“原爆を投下したから戦争が終わったんだろう。
他に方法がなっかったじゃないか。
どうすればよかったって言うんだ?”。
口ではこういうことを平気で言うのがアメリカ人です。でも、心の中は罪の意識に苛まれてるのです。これが彼らの本音です。
捻じ曲げた報道で日本人の感情を逆なでする。これによって新たな怨念が生み出されるのだとすれば、これもまた大きな罪だと思います。
◆2009年8月4日
“花子さん、幸せにするからね”。
“太郎さん、愛してるわ”。
そして10年後。
“幸せにするって言ったじゃない”。
“えっ。ガタガタ言うなよ?”。
夫婦で築くのが家庭です。
“あんなダメ男だとは思わなかったわ”。
たしかにそうかも知れません。出世は遅いし頼りない。たまの休日には家でゴロゴロしてばかり。こんな夫に魅力を感じないのも当然です。
男性にも言い分があることでしょう。三段腹にジャージ姿。これが定番では燃えようがありませんね。
国家にも同じことが言えると思います。男女のどちらが政治家であるかの議論は別にして、政治家と国民の信頼関係は今や末期症状、家庭内離婚にも似た状況です。
自民党がダメな理由を挙げたらきりがありません。太郎さんと同じです。それでも、ここまで自民党を腐らせてしまったのは国民です。このことを棚に上げて非難ばかりするのは少しばかり身勝手です。三段腹になってしまった花子さんにも責任があるのですから。
マニフェスト選挙が定着しつつあること自体はよい傾向です。
“どっちがいいマニフェストかな?”
両方いい(笑)。どの政党のマニフェストにも魅力的な言葉が並んでいます。支持政党も大切ですが実行・実現するのは個々の政治家です。人物優先で選挙を考えることもまた大切だと思います。
国際会議の場で泥酔、醜態をさらけ出した人がかなりの盛り返しをしているようだ。こんな噂を耳にして愕然としてしまった私です。
“What is required of us now is a new age of responsibility.”
(いま私たちに求められているのは新たな責任の時代だ。)
オバマ大統領が就任演説で語った言葉が思い出されます。
◆2009年8月3日
“思っていることがなかなかスピーチにならないんです”。
こういう悩みを打ち明ける人は少なくありません。
“思っていることが”何なのか、それがスピーチにならないのであれば、それを文章に書いてみればいい。簡単ですね。
“思っていることを文章に書いてみてください”。
“はい。書いてみます”。
そしてどうなるか? 大概の人はこの時点で筆が止まってしまうのです。社会的地位、経済力、年齢とはほぼ無関係です。“思っていること”をスラスラ文章に記すことのできる人が意外にも少ないのです。真面目な人ほどもっと悩むことになります。
“自分はスピーチだけでなく、文章を書くことも不得意なのだ”。
大切なのは“思っていること”それ自体が存在していることです。このことに焦点をあてて考えてみれば原因はハッキリと見えてきます。
深く考えること。誰よりも深く、どこまでも深く考え抜くこと。脳ミソが擦り切れるくらいディープに思考する。こういうプロセスを経て初めて“思っていること”が生まれるのです。何となく感じていることと“思っていること”を混同してはいけません。
“どう考えているんですか?”
“自分でも分かんなくなっちゃったぁ”。
こういう人がスピーチをしてもうまくいきません。文章も同様です。要するにバカじゃダメなのです。これが私が力説したいことです。
スピーチのトレーニングをすると誰でも壁に突き当たります。深く考えることをしてこなかった愚かな自分が鮮明に見えてくるのです。スピーチが下手なのではない。文書が下手なのではない。薄っぺらなひとりの人間がそこにポツンと存在しているだけのことなのです。
◆2009年8月2日
“Take it easy”.
このitがいったい何を指すのか? こういう疑問をスパッと解決してくれる先生がいたら私の人生はもっと違ったものになったような気がします。
第5文型だとか、指示代名詞だとかそんなウンチクはどうでもいい。妙なモヤモヤ感から開放できさえすればそれでいいのです。
“面白いこと考えるね。
漠然としたit。
こう考えるのが自然じゃないかな。
とくに何を指すわけでもないから”。
編集者として仕事を始めた頃に先輩から聞かされた説明です。こういう人が本来、英語の先生になるべきなのでしょう。当時の私はそう感じました。
説明が正しいかどうかが問題なのではありません。生徒が納得できるような説明ができること。これが英語教師に求められる“説得力”なのです。
私が今、itの解釈を求められたら、
“空気を読むit”
と説明します。とくに何を指すわけでもないけれども、会話の流れの中に感じられる空気、その雰囲気を何となく指すit。これが“妥当だ”と私が感じる説明です。
“気楽にどうぞ”。
こういう陳腐な日本語訳はもうやめたほうがいいと私は思います。
“アナタの味方ですよ”。
とか、
“陰ながら応援しているよ”。
とか、本来こういう意味なのではないでしょうか。翻訳一辺倒のノリで無理に造作した日本語はどうしても不自然です。
箱根の森で映画のDVDを観ながらこんなことを考えていた福澤です。